第4章 秘密は同じ顔をしている
深夜の回廊は、昼間よりもずっと白かった。
リゼは灯を持たずに歩いていた。壁に残る結界の薄明かりだけで十分だったし、余計な光を持てば、見回りの者に見つかる。セリナは止めなかった。ただ外套を一枚増やし、扉を閉める前に一言だけ言った。
「戻る道だけは、失わないでください」
その言い方が、心配ではなく警告だったので、リゼはうなずいた。
回廊の先、白い柱の影にノアが立っていた。
「眠れない王女と、眠れない王子。絵にすると少し芝居がかりすぎるね」
「芝居なら、台詞はもう少し整えるべきです」
「手厳しい」
いつもの返しだった。けれど、ノアはすぐ笑みを消した。
リゼはその変化を見て、胸の奥がほんの少し重くなる。彼が軽口を捨てる時は、本気の話になる。
「あなたに、確認したいことがあります」
「俺も」
同時だった。
回廊の外で、外周結界が細く揺れた。二人の沈黙が、灯に聞かれているようだった。
リゼは先に口を開いた。
「昨夜、春灯王国から封書が届きましたね」
「届いたよ。白灯宮の記録係が、ものすごく丁寧に見てくれた」
「内容は」
「それを聞いた時点で、君は俺に疑われる覚悟がある?」
リゼは半拍置いた。
「あります。ただし、答えによっては、あなたもわたしに疑われます」
「公平だ」
ノアは袖口に触れた。考え込む時の癖だと、リゼはもう気づいている。
「儀式が崩れる場合、春灯に責任が及ばない証を確保しろ。銀雪側の関与を排除するな。そういう命令だった」
言い切った後、ノアは笑わなかった。
リゼは息を吸う。驚きはない。けれど、自分の密命と同じ骨を持つ言葉が、相手の口から出ると、冷えは別の形になった。
「わたしのものも、似ています」
「春灯側の関与を確認しろ?」
「銀雪王国に不利となる証言を避けよ、とも」
ノアが目を伏せた。
「なるほど。ずいぶん仲のいい命令だ」
「仲がいい、という表現は不適切です」
「じゃあ、顔が同じ」
リゼは否定しなかった。
秘密は同じ顔をしていた。相手を疑え。自国を守れ。白灯宮の失敗が起きたら、先に責任の形を作れ。
その命令に従えば、互いを敵にできる。従わなければ、故国を裏切ることになる。
「わたしたちは」
リゼは言葉を選ぶ。
「互いを告発する材料を持っています」
「そうだね」
「同時に、それを出せば、どちらの国も同じ準備をしていたと露見します」
「俺たちも、切られる」
ノアの声は静かだった。
切られる。
リゼはその言葉を聞き、彼も自分と同じ位置にいるのだと理解した。和平の象徴。失敗時の緩衝材。成功すれば飾られ、失敗すれば取り外される駒。
「信じたわけではありません」
「うん」
「ですが、今あなたを告発することは、白灯宮を守ることにはなりません」
「俺も同じ意見だ」
ノアはそこで、ようやく少しだけ笑った。
「恋愛小説なら、ここで運命的な信頼が生まれるんだろうけど」
「生まれていません」
「早いな」
「必要なのは信頼ではなく、手順です」
ノアの笑みが、今度は本当に薄くなる。
「いいね。俺たちらしい」
――――――――
閉ざされた温室は、夜でもわずかに暖かかった。
白灯宮の古い硝子は霜を縁に抱えながら、内側にだけ湿った緑の匂いを残している。ノアは扉の内側に背を預け、リゼが机上へ二枚の紙を置くのを見ていた。
「写しです。原本ではありません」
「用心深い」
「あなたもでしょう」
ノアは懐から自分の写しを出し、隣へ並べた。
文面は違う。言い回しも、命令の順序も、相手国への警戒の置き方も違う。だが骨は同じだった。
儀式が崩れた時、自国の責任にならないようにせよ。
「どちらの国も、双灯を成功させるより、失敗した時の逃げ道を用意してる」
「まだ断定はできません」
「そう言うと思った」
「断定したいのですか」
「したくないよ。したくないけど、紙がずいぶん正直だ」
ノアは自分の言葉が少し苦いことに気づいた。春灯王国を嫌いになったわけではない。故郷の温かい街路、祭りの音、兄たちの背中、そういうものまで否定したいわけではない。
ただ、自分がここへ送られた理由の一つが、失敗しても痛手が少ないからだと知っている。
リゼが紙の端をそろえた。
「共有する情報を決めましょう」
「全部じゃないんだ」
「全部を渡せるほど、あなたを信じていません」
「正直で助かる」
「あなたは?」
「俺も、全部は渡さない」
言ってから、ノアは不思議な安堵を覚えた。信じると言われるより、ずっと現実的だった。
「第一に、密命の内容は公にしない」
リゼが言う。
「第二に、白灯宮の使用人や記録係を、証拠集めのために使い潰さない」
「第三に、見つけた異常は片方だけの紙に残さない。白灯宮側の記録に乗せる」
「第四に、相手国を告発できる材料を得ても、即座には使わない」
「ただし、人命に関わるなら例外」
リゼがノアを見た。
「その判断は誰がしますか」
「二人で。意見が割れたら、ヴェルカ殿に手順だけ聞く。動機は言わない」
「二人で、という言葉は便利です。割れた時に、結局どちらかが押し切ることになります」
ノアは紙の端を指で押さえた。
「じゃあ、押し切ったほうの名を残す」
「危険です」
「でも、名がなければ誰かに押しつけられる」
リゼはしばらく沈黙した。正しい。だが、自分の名を書くとは、故国に背を向ける予告でもある。
「……判断者名は封印記録へ。公開記録には残しません」
「妥当です」
妥当。その言葉が、妙にうれしい。
ノアは笑いそうになり、抑えた。
「リゼ」
名を呼ぶと、彼女の指が止まった。
「俺たちは、味方じゃない」
「はい」
「でも、今すぐ敵になると、白灯宮が先に壊れる」
「同意します」
「だから、共犯でどう?」
リゼは眉をわずかに寄せた。
「言葉が悪いです」
「正確だと思うけど」
「……否定はしません」
その答えで十分だった。
――――――――
夜明け前、裏階段の窓から霜谷の暗い輪郭が見えた。
リゼは外套の前を押さえ、ノアの後ろを歩いていた。見張り台へ続くこの階段は、昼間なら使用人が薪や灯油を運ぶ道だという。夜には、人目を避ける者の道にもなる。
階段の下で、カイルが腕を組んで待っていた。
「戻るなら、今です」
ノアが足を止める。
「見張り?」
「外周番です。ついでに、深夜に王族二人が何をしているか見なかったことにする役です」
リゼは背筋を正した。
「見なかったことにするには、随分はっきりおっしゃいますね」
「黙っていることと、何も分かっていないことは違います」
カイルの視線は冷えていた。けれど敵意ではない。現場を乱す者への警戒だ。
ノアが両手を軽く上げる。
「怒られる前に言っておくと、俺たちはまだ白灯宮を壊してない」
「壊す人間は、だいたい壊すつもりがない顔をしています」
「刺さるな」
リゼはカイルを見た。
「わたしたちが動けば、夜番を巻き込みますか」
「すでに巻き込んでいます。扉が一つ開けば、そこを見た者が増える」
言葉は短い。だが、正しい。
リゼはノアへ視線を向けた。彼も同じことを考えている顔だった。
「なら、手順に入れよう」
ノアが言った。
「俺たちが夜に動く時は、見張りに偽の穴を作らせない。必要なら、動いた記録は白灯宮の巡回確認として残す。個人名は出さない」
カイルの目が細くなる。
「思いつきにしては、ましです」
「褒められた?」
「まだです」
リゼは思わず息を吐いた。笑いではない。けれど、張りつめていたものが一瞬だけ緩む。
見張り台に着くと、東の空がわずかに明るくなっていた。白灯宮の外周結界は薄い膜のように谷を覆い、その向こうに霜の村の影が沈んでいる。
「情報共有のルールを決めましょう」
リゼは言った。
「一つ。密命は互いに写しを持つが、原本は渡さない」
「二つ。使用人や護衛の名前は、本人の安全が確保できるまで紙に残さない」
「三つ。白灯宮の異常は、国ではなく現象から記録する」
「四つ」
ノアが続ける。
「どちらかが相手を告発したくなったら、その前に一度だけここで会う」
リゼは彼を見た。
「一度だけですか」
「二度目は、たぶんもう間に合わない」
軽口ではなかった。
リゼはうなずく。
「分かりました」
信じたわけではない。
けれど、同じ危険を見ている相手を、今ここで切り捨てるほど愚かではいたくなかった。
夜明けの光が、銀と金の境を薄く照らした。
ノアが小さく言う。
「じゃあ、共犯成立かな」
「仮です」
「仮の共犯」
「響きが悪すぎます」
「でも、今の俺たちにはちょうどいい」
リゼは否定しなかった。
白灯宮の朝が始まる。昨日までと同じ手順で、昨日までとは違う秘密を抱えたまま。
恋ではない。信頼でもない。
それでも二人は、初めて同じ側に立つための嘘を持った。
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