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第3章 密命の匂い

貯蔵庫の扉には、霜が内側からついていた。


 ノアはしゃがみ込み、木戸の下に白く残る筋を指でなぞった。冷たい。けれど、外から吹き込んだ冷気ではない。貯蔵庫の奥から漏れたような冷え方だった。


「扉は昨夜、閉まっていたんだね」


 白灯宮の使用人が青い顔でうなずく。


「鍵は当番の者が持っておりました。朝の点検で、保存油の瓶が三つ割れていて……」


「三つ」


 ノアが繰り返すと、使用人はさらに小さくなる。責めているつもりはなかった。だが、王子が数を繰り返すだけで責任の形になる。


 リゼが隣で、割れた瓶の位置を見ていた。


「偶然にしては、落ち方が揃っています」


「だよね。俺も、もう少し散らかってくれたら安心できた」


「安心する理由が分かりません」


「事故らしい事故なら、人の悪意を考えなくて済む」


 リゼは答えなかった。答えない代わりに、破片のそばへ膝を折る。手袋の指先で瓶の縁を示し、記録係へ告げた。


「こちらの割れ口だけ、霜が厚い。時刻を分けて記録してください」


 記録係が慌てて筆を走らせる。


 ノアはその様子を見ながら、彼女がこちらを裁く材料を集めているのか、それとも本当に事故を見ているのかを考えた。


 その区別がつかないことが、一番まずい。


「殿下」


 カイルが貯蔵庫の裏口から戻ってきた。手には細い金具を持っている。


「鍵穴に傷があります。ただ、雑です。見つけてくれと言っているような傷だ」


「つまり、盗みのふり?」


「ふりか、下手な盗みか。どちらにしても、次に止まるのは灯油の配分です」


 リゼが顔を上げる。


「灯油が止まれば」


「夜番が冷えます。外周の見張りが減る。減れば、結界の薄い場所を見逃す」


 使用人が小さく言った。


「昨夜、南路の火桶を一つ減らしました。保存油を厨房へ回すようにと」


 カイルの目が冷える。


「誰の指示です」


「内務係、とだけ」


 ノアは割れた瓶を見た。保存油三つ。小さな事故。だが、それは誰かの指を冷やし、外周の穴を広げる。


「誰が最後に触ったか、だけじゃ足りないな」


「誰なら触れるか、誰なら触らなくても壊せるか、です」


 リゼの声は静かだった。


 ノアは笑おうとして、やめる。


「君、怖いことを正確に言うよね」


「不正確に言えば、誰かが便利に使います」


 その通りだった。


――――――――


 帳簿庫の灯は、紙の白さを冷たく照らしていた。


 リゼは記録簿を三冊並べ、日付をそろえた。物資台帳、当番表、修繕記録。それぞれは整っている。整いすぎている。


 ノアは向かい側で、黙って別の束を見ていた。彼が黙ると、部屋は驚くほど静かになる。


「ここです」


 リゼは物資台帳の一行を指した。


「保存油三瓶、外周南倉へ移送。ですが、当番表には南倉へ入った者の名がない」


「修繕記録には?」


「扉の立てつけ確認、とだけ。担当者名は白灯宮内務係。個人名がありません」


「誰の責任にもできる書き方だ」


 ノアの声が低くなる。


 リゼはその低さを聞きながら、紙の端をそろえた。誰の責任にもできる。それはつまり、後で誰か一人へ責任を寄せられるということだ。


 記録係の若い男が、壁際で息を詰めている。彼の名も、必要になれば空欄へ書き込まれるのだろうか。


「記録係」


 リゼが呼ぶと、男の肩が跳ねた。


「この空欄は、あなたが書いたものですか」


「い、いえ。わたしは写しを取っただけで」


「なら、そのことを記録してください。写した者と、元帳を作った者は別だと」


 男は目を瞬かせた。


「責めているわけではありません。分けているだけです」


 ノアがこちらを見る気配がした。


 リゼは視線を戻さない。優しさだと思われたくなかった。これは手順だ。そう言い聞かせる。


「リゼ殿下」


 ノアが言った。


「君は、責任を追ってるんじゃなくて、責任の逃げ道を消してるんだね」


「逃げ道を消すのではありません。勝手に作られないようにしているだけです」


「それ、だいぶ違う?」


「違います」


 即答すると、ノアが少し笑った。けれどその笑みは、朝食堂のものより薄かった。


 彼も見えている。


 この帳簿は、ただの数字ではない。誰かを犯人にするための空白だ。


――――――――


 晩餐室は、香草と焼いた肉の匂いで満たされていた。


 それなのに、誰も空腹には見えなかった。


 春灯側の護衛と銀雪側の護衛が、壁際で互いの距離を測っている。使用人たちは皿を運ぶたびに、どちらの国の席へ先に置くか迷う。迷いが一拍遅れになり、その遅れがまた誰かの不満になる。


 ノアは杯を取り、隣のリゼへ小声で言った。


「ここで俺が皿を落としたら、どっちの国の陰謀になると思う?」


「春灯王国の王子が、自国の給仕を試したことになります」


「厳しい」


「銀雪のせいにされたいのですか」


「遠慮しておく」


 軽口は、薄い氷の上を歩くための棒だった。けれど部屋の中央で、春灯側の護衛が銀雪側の護衛に肩をぶつけた瞬間、その棒は折れた。


「わざとか」


「そちらが下がらなかっただけです」


 声が上がる。使用人の一人が盆を抱えたまま固まった。


 ノアは立ち上がった。


「すごいな。晩餐の前に剣の位置まで確認してくれるなんて、白灯宮の手順は丁寧だ」


 数人がこちらを向く。笑う者はいない。だが、一瞬だけ視線が剣からノアへ移った。


 その一瞬で、リゼが動いた。


「銀雪側護衛は半歩下がりなさい。春灯側も同じだけ。白灯宮の床に、国境線を引く必要はありません」


 声量は上げていない。けれど命令は通った。


 カイルが春灯側の護衛の肩を押さえ、短く言う。


「下がれ。ここで抜けば、寒い外周に立つ人間が増えるだけだ」


 護衛が歯を食いしばって下がる。銀雪側も遅れて下がった。


 皿を抱えた使用人の手が震えている。


 ノアは彼女から盆を受け取った。


「熱いね。俺が落としたら、俺のせいにしていい」


「殿下」


 侍従長が青ざめる。


「冗談だよ。落とさない」


 今度は、部屋のどこかで小さな息が漏れた。笑いではない。だが、爆発の手前にあった空気が少しだけ戻る。


 リゼはその横顔を見ていた。


 彼は隠している。きっと密命も、傷も、疑いも。けれど、怯えている使用人を見て平気でいられる人ではない。


 その判断を、リゼはまだ口にしなかった。


 晩餐が終わる頃、ノアはリゼの隣を通りすぎながら、ほとんど声にしないほど低く言った。


「君も、知ってるんだね」


 何を、と聞く必要はなかった。


 密命。帳簿。責任の空白。


 リゼは前を向いたまま答えた。


「あなたも、知らないふりが上手です」


 ノアは笑わなかった。


 その夜、二人は初めて、相手も同じ暗い紙を持っているのだと確信した。


ここまでお読みいただきありがとうございます。次話も毎日19時に更新予定です。


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