第四十七章 東條、ゴミ箱を検査す
第四十七章 東條、ゴミ箱を検査す
一九四二年、東京。
東條英機が自らゴミ箱を検査する――この出来事は一度きりではなかった。
首相として、戦時下の指導者としての彼には、いくつかの決まった所作があった。工場の視察、軍隊の巡察、大本営会議での数値の要求、閣議での報告聴取。しかし彼にはもう一つ、側近たちを少なからず驚かせる行動があった。視察先で、彼はふいに中庭や裏手に足を運び、ゴミ置き場の蓋を開け、中身を確かめるのだった。
それは密かに行われるものではなく、彼の公式な視察手順の一部であった。東條は、ゴミ箱の中身こそが、その場の資源利用の実態を如実に物語ると考えていた。まだ使えるのに捨てられた品、食べ残し、価値ある材料――そこには彼が問い質すべき証拠があると見ていた。
東京の報道機関はこの行動を肯定的に伝えた。「首相自ら浪費を断つ」といった見出しが並び、彼には「倹約家」「細かいところまで目を配る首相」といったイメージが与えられた。民間では「ゴミ箱首相」と呼ばれたが、それは蔑称ではなく、節約を美徳とする時代の価値観の中での一種の称賛であった。
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だが、別の場所では、そうした節約の物語と現実の生活との間に、次第に大きな裂け目が生じていた。
一九四二年、配給制度は全面的に厳格化された。米、塩、砂糖、木綿布、靴底用ゴム――あらゆる物資の配給量はこの年、戦争消耗の必要に応じて次々と減らされていった。基準は庶民の生活ではなく、戦局の要請によって決められた。
配給手帳は戸籍ごとに発行され、各家庭が手帳を持ち、指定の店で定められた量を購入する。理論上は整然としていたが、現実には多くの灰色地帯があった。闇市で高値で買う者、互いに融通し合う者、物々交換をする者、配給手帳の残りを計算し、最小限の損失で必要な物を手に入れる者――。
そうした計算は、一九四二年の東京の一般家庭にとって、出勤や皿洗い、子供の勉強を見てやるのと同じく、日々の生活の基盤となっていた。
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田中幸雄は、その年の日記に、配給商店での待ち時間についてこう記している。
「今日は木綿布の配給で一時間並んだ。前にいたお婆さんは、前回は手に入らなかったと言い、今回もどうなるか分からないと話していた。私たちは黙って立ち、ただ待った。やっと順番が来て、布を受け取り帰宅すると、妻は『これで子供の服が一着縫える。他はまた今度』と言った。」
そこに怒りも抗議もなく、ただその状況が淡々と記されている。その静けさは、決して無関心からくるものではなく、他に取りうる反応が見出せない状況ゆえのものだった。訴える場所も、申し立てる手段もなく、ただ並び、待ち、配給手帳の残りで今日できることをするしかなかった。
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東條の顔は、一九四二年のあらゆる政府宣伝物に頻繁に登場した。工場のポスター、学校の黒板新聞、新聞の一面。彼は「威厳」「質素」「国家に身を捧げる戦時指導者」として描かれ、「ゴミ箱首相」のイメージはこの物語にぴたりと合致した。自らゴミ箱を検査する人物が、贅沢や腐敗と無縁であることは疑いようがなかった。
この物語は、一九四二年にはなお有効だった。戦況の多くは依然として勝利の報であり、南方の占領地は拡大し、新聞の地図は日々塗り替えられていた。その変化が「帝国の事業は前進している」という物語に十分な根拠を与えていた。
だが、その物語と配給手帳の現実は、互いに否定も肯定もせず、並行して存在していた。一方はラジオや印刷物の中に、もう一方は台所や配給商店の中に。人々はその二つの現実を同時に生き、両者が正面から衝突しないよう、相当な精神的努力をもって均衡を保っていた。
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永野修身はその頃、軍令部で別の現実に向き合っていた。撃沈された戦艦の修復進捗、東南アジアから本土へと運ばれる石油の実際の到着量――その数字は企画院の楽観的な予測を大きく下回っていた。輸送船の損失と精製能力の限界は、紛れもない現実だった。
彼はその数字に、新たな鉛筆の丸印をつけた。
一九四一年の数字と比べて、この年の数字には、彼にとって不快な既視感があった。数字は依然として同じ方向を指している。ただし、今度は「開戦前の備蓄量」ではなく「開戦後の補給速度」からである。二つの数字は、いずれどこかで交わる。その交点は、彼が目を背けたい場所にあった。
彼は書類の束を机に戻し、当直の参謀を呼んで二件の指示を伝え、退室させてから、次の報告書に目を通し始めた。
窓の外の東京は、冬の陽が早く落ち、四時にはすでに暗くなっていた。




