第四十五章 山本の予言
第四十五章 山本の予言
一九四一年十二月―一九四二年四月、太平洋。
その言葉を、彼は一通の手紙に記した。宛先は友人の島末で、時期は一九四一年末頃であった。
その言葉の内容は、後に繰り返し引用され、様々な中国語訳や英語訳が存在するが、核心はこうである――彼は最初の一年、あるいは一年半は縦横無尽に戦えるが、それを過ぎて戦争が長引けば、勝利の自信はない。
この言葉は、山本五十六がその年に最も多く語った言葉の哲学的な凝縮である。彼は永野への書簡にも、友人への私信にも記し、参謀たちとの会話でも口にした。その意味は予言ではなく、あの戦争の構造に対する冷静な分析だった――彼がハーバードで学んだのは石油経済であり、アメリカの工場の傍らを歩いた経験もある。数字は企画院の報告を待つまでもなく、彼自身がすでに知っていた。
だが、この言葉が今引用されるのは、彼自身が語った「半年の窓」が迫りつつあり、本来現れるはずの「交渉の窓」が、いまだ現れる気配を見せていないからである。
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真珠湾以後の六ヶ月間、日本帝国海軍は確かに縦横無尽の進撃を続けていた。
南方へ、攻勢は順調に展開した。蘭印は一九四二年三月に降伏し、スマトラやボルネオの油田は日本の手に落ちた。英領マレーのイギリス軍は二月、シンガポールで山下奉文将軍に降伏した。その降伏の規模と速さは、二十世紀イギリス軍事史における最大の痛手の一つであった。フィリピンではマッカーサーが撤退を命じられ、彼は「I shall return(私は必ず戻る)」という後に繰り返し引用される言葉を残して去った。
これらの勝利は現実のものであり、その速さは日本の参謀本部さえもやや意外に感じるほどであった。
山本はその間も連合艦隊の指揮を執り、広島湾の長門や大和の艦上で、次々と届く勝利の電報を受け取り、様々な指示を下していた。
これらの勝利は、彼の目には計画通りのものだった。なぜなら、それらは「六ヶ月」の間に起こるべき事象であり――米軍が真珠湾の打撃から完全に立ち直る前、アメリカの工業動員が本格化する前に、防衛圏を築き、資源を確保する。その後――その後にこそ、外交の窓が現れるはずだった。
だが、外交の窓は現れなかった。
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その窓は、なぜ現れなかったのか。
山本の構想には一つの前提があった。真珠湾の打撃が十分に重く、アメリカの戦意に動揺をもたらし、和平派が「日本と交渉する方が戦争を続けるより良い」と言い出す余地が生まれる、というものだった。そのような動揺は、歴史上しばしば見られる――決定的な敗北が敗者に交渉を決意させたり、勝者に不完全な勝利を受け入れさせたりすることがある。
だが、真珠湾はそのような効果を生まなかった。少なくとも、目に見える形では現れなかった。
真珠湾攻撃の翌日、議会は三十三分で宣戦決議を可決した。アメリカの孤立主義は、その朝の報せとともに消え去った――ゆっくりとではなく、一夜にして消え、「infamy(不名誉)」という言葉が歴史に刻まれ、その場所にはもはや議論の余地なき怒りが取って代わった。
山本はその時、自らの構想の根本的な前提が誤りであったことを理解したのだろう。彼は、真珠湾の衝撃が「動揺」を生むと考えたが、停泊中の米艦隊が無警告で攻撃されたという明確なイメージが、アメリカ国民の心理に与える効果を過小評価していた。そのイメージは動揺を生まず、むしろ団結を生んだのである。
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一九四二年四月、淵田美津雄ら真珠湾攻撃に参加した数名の飛行隊員は、インド洋上でのイギリス艦隊攻撃作戦に加わった。
この作戦は戦術的には成功し、イギリスの航空母艦ハーミーズ、重巡洋艦二隻、その他数隻の艦船が撃沈された。しかし、この作戦はもはや真珠湾のような奇襲ではなかった――すでに交戦状態にあり、双方が互いの存在を認識した上での作戦であり、敵の港で眠る艦隊を叩くものではなかった。
淵田の攻撃は職業軍人として見事であり、磨き上げられた攻撃動作は、異なる目標や地理条件下でも遺憾なく発揮された。しかし、攻撃後の復命で彼が気づいたのは、今回撃沈したのは彼が最も撃滅したいと願ったアメリカの高速空母ではなかったという事実だった。イギリスのインド洋主力空母部隊は、この打撃を巧みに回避していた。
これは一つの細部に過ぎないが、その細部が彼に真珠湾を思い出させた――あの時も、真珠湾にはアメリカの空母はいなかった。
「空母不在」という主題は、太平洋戦争の第一年を通じて繰り返し現れ、まるで何度も思い出させられる未完の課題のようであった。
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山本の言葉にあった「六ヶ月」は、一九四二年六月に訪れた。ミッドウェーが、その節目であった。
その時点こそ、彼自身が設定した境界線である。彼は知っていた。その境界を越えれば、勝敗の確率は急速に変化する。境界の前に、外交の窓が現れるか、あるいは不可逆の局面が始まるか、どちらかである。
外交の窓は現れなかった。
そして、ミッドウェーが訪れた。
私信に記されたあの言葉は、後年、真珠湾の歴史を研究する者たちに繰り返し引用される資料となった。それは、極めて冷静かつ哀切な筆致で、一人の人間が自らの立場とその結末を見据えながらも、なおその道に進んだことを要約している。
これこそが、山本五十六という人物を単純に評価し難くしている最大の理由である――彼は知らなかったのではない。知っていた上で、その行動を選び、その結末もまた、彼の予見した通りであった。




