第四十三章 近衛の鎌倉
第四十三章 近衛の鎌倉
一九四一年十二月、鎌倉。
近衛文麿は辞職後、鎌倉へ向かった。
彼には山を望む小さな邸宅があり、庭には数本の松が立っていた。冬の海風が、遠くない海岸から塩気を含んだ湿り気を運んでくる。東京の首相官邸にはあまりにも長く滞在しすぎた。あの官邸のすべての部屋には、自らが成し得たこと、成し得なかったことの重みが染みついていた。離れることは必要だった。それは隠遁ではなく、物理的に場所を変える必要に迫られたのだった。
鎌倉は東京から遠くない。列車で一時間ほどだ。時折、東京に戻っていくつかの用事を片付けることもあったが、その頻度は次第に減っていった。戻るたびに感じるのは、すでに脱ぐと決めた外套を再び身にまとうような感覚だった。
十二月八日、彼は鎌倉のラジオで戦争勃発の報を耳にした。
---
後に彼は語っている。その報せに感じたのは驚愕ではなく、「悲哀」としか言いようのないものだったと。
それは彼自身の失敗ではなかった。あるいは、彼だけの失敗ではなかった――一年間、止めようとしながらも止める力を持たなかった出来事が、ついに彼の退任から五十三日目に、独自の形で現実となったのだった。
「離任」と「開戦」の間の五十三日間は、その年の夏、彼が全力を注いで埋めようとした空白だった。その空白には、ルーズヴェルト宛ての書簡、東條との会談、御前会議で口にできなかった言葉が詰まっていた。しかし、その空白は埋めきれず、事態は自らの道を進んだ。
戦後に残された近衛に関する記録には、しばしばこの複雑な感情が読み取れる。開戦は彼が望んだ結末ではなかった。しかし、同時に彼が完全に自分を切り離せる結末でもなかった。
この「無関係ではいられない」という感覚は、辞職後も政治的帰結から真に離れることができなかった近衛の立場を物語っている。彼は辞職したが、その出来事には彼が成したことも、成さなかったことも含まれており、その重みは辞職とともに消え去るものではなかった。
---
同じ十二月、鎌倉の静けさの中、東京では別の出来事が進行していた。
ゾルゲ事件は十月の逮捕以降、関連する取り調べと捜査が続いていた。尾崎秀実は獄中にあり、正式な起訴を待っていた。
尾崎は近衛の元顧問であり、「昭和研究会」の重要な一員でもあった。この研究会は近衛時代を代表する政策シンクタンクであり、アジア秩序について深い思索を持つ知識人や外交政策研究者が集っていた。尾崎はその中で近衛と実際に接し、東アジアや戦争について多くを語り合っていた。
だが、尾崎の行動は、そうした議論の範囲を超え、ゾルゲに情報を伝えることで、帝国の利益と直接対立する線を越えてしまった。
この件について、近衛は鎌倉で公に何も語らなかった。その沈黙自体が、彼自身には理解できても他者には説明しがたい心境を表していた――彼と尾崎は真摯な思想的交流を持ち、判断が重なる部分もあった。だが、尾崎は自らの道を選び、そこに至った。
---
尾崎秀実は獄中で多くの手紙を書いた。それらは妻・逸子によって集められ、後に『愛は滝のように注がれる』と題して出版された――それは獄中から妻に宛てた手紙の一節であり、この書簡集を象徴する言葉となった。
その手紙には、自らの行為への思索、日本という渦中の国への思い、子や妻への深い愛情が綴られていた。その愛情と政治的判断は分かちがたく混ざり合っていた。尾崎にとって、それらはもとより切り離せるものではなかった。なぜ自分がその行動を選んだのか、家族を愛することと同じ人間の、同じエネルギーの別の方向だった。
彼は一九四四年、秋、巣鴨刑務所で死刑を執行された。
---
近衛が鎌倉でその冬、どんな本を読み、誰と会ったのか、日記には断片的な記録しか残っていない。
細川護貞が時折訪ねてきては、辞職前よりも落ち着いて見えると語っている。しかし、その落ち着きには「そうするしかない」という成分が混じっており、心の底からの静けさではなく、より深い場所に押し込められた焦燥だった。
手元にはワイルドの本があり、時折ページをめくっていた。どのページを開き、どれほどそこに留まったのか、記録はない。その本は、官邸から鎌倉へ、鎌倉から戦争の終わりへ、そして最後の夜まで、彼の後半生を通じて常に傍らにあった。
その本には、二十三歳の彼が残した鉛筆の線があった。どの段落に引かれたものかは、今となっては定かでない。その時に握った鉛筆はもう残っていない。ただ、黄ばんだ紙に薄く残るその跡だけが残されていた。
彼は戦争の終結まで生き、裁判を迎える前日にこの世を去った。
そしてその本は、細川が遺品を整理したとき、まだそこにあった。紙は黄ばみ、鉛筆の線も薄れていたが、知る者が見れば、それがかつて誰かがここを読み、しばし立ち止まった証であることが、今もなお分かるのだった。




