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真珠湾:一九四一  作者: Evan Guo


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第四章 松岡が持ち帰った記念品

第四章 松岡が持ち帰った記念品


一九四一年三月二十七日、ベルリン、駅のプラットホーム。


ハーケンクロイツと旭日旗が交互に柱を飾り、プラットホーム全体を覆っていた。


ヒトラーユーゲントの団員たちが両側に整列し、腕を高く掲げて敬礼する。列は真っ直ぐで、制服は定規で測ったかのように整然としている。ホームには特別列車が停車し、車体は漆黒に輝き、ドイツ国鉄の紋章が扉の中央に刻まれていた。儀仗隊の太鼓が規則正しく鳴り響き、石造りのアーチ天井の下にその音が反響する。それは意図的に歴史の重みを演出するかのようだった。


松岡洋右は車両の扉口に立ち、両側の人々に手を振った。


彼はこうした動作の作法を心得ていた――アメリカ留学時代にも、日本の様々な式典でも見てきた。腕を掲げ、手首を回し、最も適切な瞬間に微笑みを浮かべる、そのやり方。しかし今日の動作は演技ではなかった。頬の紅潮は化粧ではなく、紛れもない興奮の証だった。これほどの歓待は、彼の外交人生でかつて経験したことがない。ヒトラーユーゲント、ハーケンクロイツ、ベルリンの全てが彼を迎えていた。


車内で身を少し後ろに預け、ホームがゆっくりと後退していくのを眺めながら、長く息を吐いた。


---


今回の欧州訪問は、近衛から与えられた指示の中で最も明確なものだった。儀礼的訪問、実質的な約束はせず、帰国して報告せよ――それが命だった。


だが、松岡は「儀礼的」という言葉を自分なりに解釈していた。


彼はヒトラーと会談した。総統府の壮大な応接室で、二人は向かい合い、三時間近く語り合った。ヒトラーは日本の戦略的行動に強い期待を示した――日本が南進し、アジアにおける英国の植民地に圧力をかけ、英国の注意を分散させることで、ドイツの欧州での行動に有利な条件を作りたいというのだ。彼は熱を込めて語り、「運命」や「歴史的瞬間」といった言葉を多用した。松岡はその話しぶりを聞きながら、日本の参謀本部の若手将校たちと不気味なほど似ていると感じていた――意志そのものが力だと信じて疑わない、その類の人間である。


松岡はベルリンに四日間滞在し、晩餐会に出席し、工場を視察し、ドイツの報道陣の取材を受けた。彼の英語はドイツで奇妙な効果を生んだ。流暢な英語で日本帝国の誇りを語る東洋人を前に、記者たちはどの枠組みで彼を理解すべきか戸惑っていた。松岡はその困惑を愉快に思った――相手に掴ませないこと、それが交渉者の本能である。


ローマではムッソリーニと会談した。短く礼儀的な会談で、イタリア人の熱意は演技的だったが、松岡もまた同じように熱意を演じて応じた。さらにバチカンで教皇ピウス十二世と面会し、サン・ピエトロ大聖堂の回廊を長く歩いた。実質的な話は何もなかったが、数枚の写真を撮った――その写真は後に東京の各紙に掲載された。


その後、ローマから列車でモスクワへ向かった。


近衛の指令には「モスクワで何をせよ」という項目はなかった。指令の起草者は、彼がモスクワで何かをするとは想定していなかったのだ。


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一九四一年四月十三日、モスクワ、クレムリン。


松岡はモロトフと広い会議卓を挟んで座り、通訳が中央で言葉を伝えていた。交渉は二日間に及び、ソ連側が明らかに時間稼ぎをしている場面もあった――モロトフが部屋を出て「指示を仰ぐ」と言い、しばらくして戻ってくる。松岡はそれが本当の指示ではないと分かっていた。それはソ連流の交渉術、待たせて相手の判断力を鈍らせる手法だった。彼は気にしなかった。いくらでも待てる自信があった。


最終文書がまとまったのは、すでに深夜だった。


《日ソ中立条約》――双方は互いに侵略せず、いずれかが第三国から攻撃を受けた場合、他方は中立を保つ。五年間有効で、満期一年前に破棄通告がなければ自動延長される。


松岡が文書に署名したとき、後に正確に言葉にできない感情が胸にあった――誇りとは少し違い、「この一歩は正しかった」という確信に近いものだった。スターリン自ら署名式に出席し、式後に松岡の手を握り、ロシア語で何かを語った。通訳が「貴重な条約です」と訳した。松岡は、その瞬間が歴史に刻まれるだろうと感じた。


式が終わると、松岡は東京に電報を打った。《日ソ中立条約》草署の報である。


その電報が東京に届いたのは、東京時間の早朝だった。近衛は書斎で書類を整理していた。外務省からの緊急電報を開き、二度読み返してから机に戻した。窓の外、夜明けの空を見つめ、何も言わなかった。


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列車はモスクワを発ち、東へ向かい、ウラルを越えてシベリアへ入った。


松岡は一等車両で上機嫌だった。随行の外務省官僚たちは別の車両におり、眠る者、書類を整理する者、それぞれ随員らしい距離感で彼を邪魔しなかった。松岡は乗務員に頼んでウォッカを一本開けさせた――普段は強い酒を飲まないが、この時ばかりは気にしなかった。


その車両で、松岡は随行員たちに自らの外交哲学を熱弁した。酒の余韻と、大きな物語を紡ぐ者の熱気が言葉に滲んでいた。ドイツ、ソ連、日本、イタリア――四国大同盟が成立すれば、英国も米国も屈服せざるを得ない、と語った。この中立条約こそが第一歩であり、全構想の礎だと語った。自分は外交史上、かつてない偉業を成し遂げた、歴代の日本外相の誰よりも大きな仕事だと語った。


随行官僚たちは礼儀正しく頷き、時折賛同の言葉を挟んだ。彼らが心の中で何を思っていたか、それを口にする者はいなかった。


車輪がレールを叩き、窓外には果てしないシベリアの大平原が広がる。四月初めの雪はまだ溶けず、青白く、空虚なほど広大だった。


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四月二十二日、列車は東京駅に到着した。


ホームには記者、外務省の出迎え、そして野次馬の市民たちがいた。松岡は計算された所作で車両を降りた――欧州で学んだことだ。公の場に現れるたび、それは一つの声明となる。カメラのフラッシュが彼を包み、記者たちが押し寄せる。松岡は訓練された声で、用意していた言葉を述べた。条約の歴史的意義、日本の新たな世界的地位について語った。


約二ヶ月後、一九四一年六月二十二日、ドイツがソ連に対して開戦した。


《独ソ不可侵条約》は破棄され、ドイツ装甲部隊がソ連国境を越え、北極海から黒海までの戦線が一斉に火を噴いた。松岡の「四国大同盟」構想は、わずか一朝にして紙屑と化した。


その報が届いた時、松岡は外務省の執務室にいた。地図の前に立ち、じっと見つめ、すぐには表情を変えなかった――交渉の場で鍛えた制御が、この瞬間も彼の顔を支えていた。後に近衛に語った。「ドイツは我々を裏切った。事前に何の通告もなかった。これは同盟国間の信義を売り渡すものだ。」


彼は「売り渡す」という言葉を使った。まるでドイツの不誠実さだけが自分の構想を潰したかのように。自らの判断体系そのものが誤っていたとは認めなかった。


近衛はそれを聞き、何も応じなかった。


---


独ソ開戦後、松岡は日本の即時北進を主張した――ソ連が二正面作戦に苦しむ今こそ、シベリア方面から挟撃すべきだ、それこそが「同盟の精神」に適う行動だと。内閣会議で何度もこの主張を繰り返し、熱を込め、執拗に訴えた。否定されても数日後にはまた持ち出した。


大本営参謀本部の意見は慎重だった。北進は、せっかく結んだ《日ソ中立条約》を自ら破棄することになるし、独ソ戦線の趨勢もまだ見通せない。近衛自身も南進が不可逆の路線だと認識していた――それは彼が特に望んだ道ではなく、軍部に押し切られた結果だったが、少なくとも南進にはまだ交渉の余地があった。北進は、松岡の一方的な願望に過ぎなかった。


その夏、松岡は次第に孤立していった。内閣で声を荒げても、誰も耳を貸さなくなった。机を叩き、演説し、英語で論文を書き、自らの判断を弁護しようとした。英語は相変わらず見事で、弁舌も力強かったが、その力は次第に、狭い部屋で一人叫ぶような虚しさを帯びていった。声は四方の壁に跳ね返り、行き場を失った。


その夏のある時点で、近衛は決断した――この男を内閣から外さねばならない。


解決策を長く考えた。外相を直接更迭すれば政治的波紋が広がり、松岡は公然と発言し、外務省を混乱させるだろう。最も穏便なのは、内閣を総辞職させ、再組閣の際に彼を入れないことだった。


内閣解散は大きな決断だった。しかし松岡を抱え続けるよりは、はるかに容易だった。


---


七月十六日、近衛内閣は総辞職した。


七月十八日、新内閣が成立。外相には海軍出身の豊田貞次郎が就任した。


松岡の名は新内閣の閣僚名簿に載らなかった。


この報が伝わった時、東京の新聞各社は抑制された論調で報じた――何しろ彼は《日ソ中立条約》を持ち帰ったばかりで、その評価は定まっていない。彼を全面的に否定すれば、条約そのものも疑問視されかねない。新聞は「近衛首相、内閣改造により外交体制を調整」といった表現を用い、あたかも通常の人事異動のように伝えた。


松岡洋右は東京郊外の私邸でこの報を読み、いかなる公的なコメントも発しなかった。その後も時折政界の周縁に姿を見せたが、誰も真剣に耳を傾ける者はなく、声は次第に小さくなり、やがて時代の喧騒に消えていった。


彼の「四国大同盟」構想、気勢で米国を威圧できるという判断、欧州での歓待が信じさせた大国外交の幻影――それらは彼とともに歴史の中心から退場した。


晩年、彼は肺結核を患い、一九四六年六月に死去した。戦犯として裁かれるその時を迎えることはなかった。彼の名はA級戦犯リストに載ったが、裁判が始まる前にこの世を去った。


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その《日ソ中立条約》は、彼自身よりも長く命脈を保った。


ソ連は一九四五年四月に更新拒否を通告し、八月九日には対日宣戦、満洲へ侵攻した。条約の文面上は一九四六年四月まで有効だったが、破棄通告から四ヶ月で銃声が響いた。


締結から破棄まで、五年に満たなかった。


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豊田貞次郎が外相に就任すると、野村吉三郎への電報が二十四時間以内に発せられ、内閣改造の経緯を伝え、米側との連絡維持を依頼した。


野村が電報を受け取った時、ワシントンの別の通りでは、ハル国務長官も日本の内閣改造の報を読んでいた。その日の彼の日記にはこう記されている――松岡が去った。これは良いことかもしれないが、外相を一人替えたところで根本的な問題は何も解決しない。


ハルは、思いがけない朗報にも必ずその限界を見出す人物だった。日本問題では何度も同じ経験を積んできた――状況が一歩前進したかと思えば、次の瞬間には後退し、時にはさらに悪化する。


彼はその報をファイルに挟み、野村からの次の電報を待ち続けた。


その電報も、これまでの全てと同じく、「東京は真剣に検討中」と伝えるだけで、具体的な約束は何一つなかった。


それは、その夏だけで九十七回目か、九十八回目だったか。彼はもう数えるのをやめていた。


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