第三十五章 トラ・トラ・トラ
第三十五章 トラ・トラ・トラ
一九四一年十二月七日、早朝、北太平洋。
午前五時半まで、あと五分。渕田美津雄は、赤城の飛行甲板へと歩み出た。
甲板上には、北太平洋十二月の荒波がもたらす刺すような海風が吹きすさんでいた。大波は未だ収まらず、艦はうねりに合わせて前後に揺れ、艦首が波間に沈み込むたび、飛沫が甲板に舞い上がり、床を濡らしていた。整備員の水兵たちは、機体が揺れる甲板上で滑らぬよう、手で翼をしっかりと押さえている。空はまだ暗く、水平線すら見分けがつかない。
渕田は、この空襲の総指揮官であった。
三十九歳、海軍中佐。長年にわたり水平爆撃を研究し、鹿児島湾での浅水魚雷および水平爆撃訓練の攻撃案にも携わってきた——同僚たちから「不可能」と言われたその作戦である。今、その訓練が現実となる日が来たのだ。
彼は作戦室に入り、南雲忠一中将に敬礼し、「司令、準備完了です」と告げた。
南雲はソファから立ち上がり、渕田の手を固く握りしめ、ただ一言、「頼んだぞ」とだけ言った。
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午前五時三十分、発艦準備は最終段階に入る。六時前後、発艦命令が下された。
一番機が甲板前端から滑り出し、エンジン音が風に高鳴る。艦は揺れ、整備員たちは息を呑み、その機体が甲板端から跳び出し、一瞬の落下ののち、機首を上げて飛び去るのを見守った。
続いて二番機、三番機が続く。
甲板上には万歳の声が上がり、帽子やハンカチが空に振られる。普段は発艦台に姿を見せぬ軍医までもが立ち会い、その光景を見つめていた。
六隻の航空母艦から、計百八十三機の艦載機が次々と発艦した。渕田は先頭機で艦隊上空を一周し、編隊の整列を確認。集結には十五分を要した。その後、進路をオアフ島へと向け、南へ飛び始めた。
時に午前六時十五分。
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一時間半後、渕田は操縦席から海岸線を視認した。
オアフ島は雲の下に広がり、緑に包まれ、静寂に満ちていた。日曜の朝七時四十五分、陽光の中で、そこには危機が迫っていることなど微塵も感じさせぬ光景が広がっていた。
彼は双眼鏡を掲げ、島の北側、真珠湾の方向を探る。フォード島、戦艦泊地、飛行場、燃料タンク——何度も作戦図で見た標的が、今、眼下に広がっている。あの一年間、鹿児島湾の模型と重ねて何度も訓練した土地が、現実の姿でそこにあった。
雲の様子、防空気球の配置、米軍戦闘機の発進有無を偵察したが、何もなかった。港内には戦艦が整然と停泊し、朝の陽光が水面に反射している。甲板上では、八時前の掲揚に備え、旗の準備をしている者もいるはずだ。
彼らの接近に気付いた様子は、どこにもなかった。
午前七時四十九分、渕田は攻撃信号を発した。
数分後、彼は無線員に、後に最も有名となる暗号文を送信させた。
**虎虎虎(Tora Tora Tora)**
それは戦果報告ではなく、「奇襲成功、敵は未だ有効な警戒態勢にあらず」という意味であった。
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最初の魚雷が水面に投下されたのは、午前七時五十五分。
内港に水柱が立ち上り、続いて二発目、三発目。急降下爆撃機が高空から降下し、爆弾が滑走路や駐機場、整然と並ぶ航空機の傍らに落ちる。海上の戦艦は次々と被弾し、煙を上げ、傾き始めた。機銃音が港上空に響き渡り、米軍地上防空が応戦を開始したが、第一波の衝撃は数分で港の様相を一変させた。
渕田は編隊の中で内港上空を旋回し、地図で一年間見続けた標的——オクラホマ、ウェストバージニア、ネバダ、カリフォルニア——それぞれが被弾し、煙と水柱が交互に立ち上るのを見届けた。
そして、アリゾナ。
その戦艦は一発の徹甲爆弾が甲板を貫いた後、ゆっくり沈むのではなく、爆発した。前部弾薬庫が誘爆し、火球と爆音が真珠湾上空に広がる。その衝撃波は、付近を飛ぶ搭乗員にも気流の変化として伝わった。アリゾナは数分で水底に沈み、艦上の一千百七十七名の水兵もまた、ほとんど脱出の暇もなく運命を共にした。
渕田は空からその炎を見下ろし、その戦艦の最期を悟った。
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第一波の攻撃が終わったのは、午前八時三十分頃であった。
渕田は空中に留まり、第二波を待った——百六十七機、空母からの第二陣である。九時ちょうど、第二波が到着し、第一波で破壊しきれなかった目標への攻撃を続行。港内は既に濃い煙に包まれ、目標の一部は視認困難となり、搭乗員は計器飛行を余儀なくされた。
攻撃はほぼ二時間に及んだ。
九時四十五分前後、攻撃は終了し、日本機は次々と真珠湾上空を離脱、北へ、艦隊の位置へと帰還した。
渕田は最後まで現場に残った。港上空にしばし留まり、目に映る全てを記憶に刻んだ——泊地の戦艦、沈没したもの、座礁したもの、煙の中でなおもがくもの。飛行場の航空機は多くが炎上し、焼け残った機体も翼が折れ、車輪が地面にめり込んでいた。水面には油膜が広がり、破損した油槽から漏れ出した燃料が、陽光の下で奇妙な虹色を呈していた。
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「虎虎虎」の三文字は、すぐに電波を通じて山本五十六の旗艦・長門へと伝わった。
山本は広島湾に停泊する長門で、今朝は棋友と将棋を指し、待機の時を過ごしていた。盤の傍らで一局を終えたところで、その三文字を受け取った。
彼は将棋を片付け、何も語らなかった。
彼は最初から、この戦争は本来避けるべきものだと知っていた。早い段階で関係者にこう述べていた——「最初の六ヶ月から一年は艦隊を縦横に暴れさせることはできるが、それを超えれば結末には自信がない」と。その言葉は記録に残され、やがて彼はこの作戦の総設計者に任命された。反対の立場にありながら、開戦の緒戦を勝利で飾ることを求められたのである。
彼はその役割を受け入れ、徹底して遂行し、そして避けがたい結果を静かに待った。
「虎虎虎」の報が届くと、彼は将棋箱を閉じ、艦隊司令官に次の行動準備を命じた。
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一時間後、ワシントン、午後二時二十分。
野村吉三郎と来栖三郎は、国務省でほぼ一時間待たされた後、ハル国務長官と面会した。
彼らが携えていたのは、十四節から成る外交文書であった。これは東京からの命令により、午後一時までに提出し、日米交渉の正式な打ち切りを通告するものであった。しかし、在米日本大使館の不可解な手違いにより、文書のタイプ作業が一晩中遅れ、最終的な提出は命令時刻を一時間半ほど過ぎてしまった。
彼らがハルの執務室に入った時、真珠湾で何が起きていたかは知らされていなかった。東京からは一切の軍事行動が秘匿され、情報漏洩を防ぐため、在米大使館にも知らされていなかった。彼らは命じられた通り、ハルに会い、文書を手渡し、この対話を終わらせるために来たのである。
ハルは文書を受け取り、数頁をめくると、手がかすかに震え始めた。
彼は既に、傍受・解読された外交電報から文書の大意を知っていた。午後二時十分、ルーズヴェルトからの電話で真珠湾攻撃の報も確認していた。今、彼は二人の日本外交官を前に、その文書——彼ら自身がその真の時間的意味を知らぬ文書——を読み終え、顔を上げた。
「私が五十年の公職生活で見た中で、これほどまでに恥知らずな虚偽と歪曲に満ちた文書はない」と言った。
野村と来栖は、その言葉の意味を理解できなかった。彼らは黙ってその場を去り、執務室を後にした。
国務省を出ると、記者団に取り囲まれた。二人は大使館へと逃げ帰り、鉄門を閉ざした。外には既に怒れる群衆が集まり、警察が事態の収拾に当たっていた。
そこで初めて、彼らは真珠湾が日本軍の攻撃を受けたことを知った。
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十二月八日午前五時三十分、東京時間。
ラジオから、NHKの臨時ニュースが突然流れた。
「大本営海軍部、十二月八日午前六時発表。帝国海陸軍部隊、本八日未明、西太平洋において英米両国と戦争状態に入れり。」
——帝国海陸軍部隊は、本日(八日)未明、西太平洋上にて英米両国と戦争状態に入った。
真珠湾については触れられず、詳細もなかった。ただ、この一文だけが告げられた。
その時、東京の空はまだ夜の闇に包まれ、多くの人々はまだ床の中にあった。偶然ラジオをつけていた者や、家族に起こされて放送を聞いた者は、暗闇の中でその一言を耳にし、眠りのうちに終わった世界の終焉を知ることとなった。
小説家・伊藤整は日記に、放送を聞いた時の感想をこう記した。「ついに来たかと思うような妙な気持ち」——恐怖でも歓喜でもなく、いずれ来るべきことが今来たという奇妙な静けさであった。
作家・永井荷風はラジオを消し、再び茶を煮始めた。
作家・野上弥生子は日記に、「日本がついに手を下した」と記した。
多くの市民は泣きもせず、歓声も上げなかった。彼らは起き、朝食をとり、仕事に出かけ、道すがら隣人と「戦争が始まったらしい」と語り合った。それはあまりにも大きな出来事で、どんな表情をすればよいのか、まだ分からなかった。
やがて午前十一時半、ラジオで更なる詳細が伝えられた——ハワイ、真珠湾、米太平洋艦隊、日本機、大戦果。
この時、反応は一変した。
東京の街頭では自発的に万歳が叫ばれ、互いに握手を交わし、涙を流す者もいた——だがそれは悲しみの涙ではなく、興奮の涙、あるいはその両方が混じり合い、誰にも区別がつかなかった。
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誰もが万歳を叫んだわけではない。
沈黙を守った人々の多くは、その日の思いを日記に記すことすらしなかった。書き残すことが危険だったからだ。しかし、わずかな断片が後年、研究者によって発見されている。
名も知られぬ、数頁だけが伝わる日記の中に、こう記された一行があった。
「戦争が始まった。これが我々にとって吉か凶か、分からない。」
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その夜、真珠湾の水面はなおも燃え続けていた。
アリゾナは既に港底に沈み、マストだけが水面に顔を出していた。三日間は、船体内部で燻るものから煙が立ち上るだろう。オクラホマは転覆し、腹を上にしていた。ウェストバージニアとカリフォルニアは着底し、船体はなお水面上にあった。フォード島の飛行場では、地上にあった大半の航空機が最初の数分で破壊され、離陸の暇もなかった。
米太平洋艦隊の主力空母三隻——エンタープライズ、レキシントン、サラトガ——は、その日真珠湾にはいなかった。エンタープライズとレキシントンは洋上で輸送任務中、サラトガは米本土西岸にあった。この事実を南雲忠一が後に知ることとなるが、その朝の現場判断では、彼の結論を変えるものではなかった。任務は完了し、帰還すべき時と判断したのである。
南雲はその後、燃料タンクやドック修理施設への追撃を行わず、損傷艦の将来的な修復の機会を残した。これらの判断は後に幾度も論議され、評価は分かれた。
だが、それはすべて後のことである。
その夜、真珠湾の水面はなおも燃え、二千四百余名の米軍人が命を落とし、ハワイ島全体の空には消えぬ硝煙が立ちこめていた。
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十二月八日、ワシントン、連邦議会議事堂。
ルーズヴェルトの専用車が朝、議会へと向かう。彼は演説を行い、議会に対し日本への宣戦を求めるためであった。
その車中、彼は既に演説冒頭の一文を書き上げていた。
「昨日、一九四一年十二月七日は、永遠に不名誉の日として記憶されるであろう。」
この言葉は後に幾度も引用され、英語圏におけるこの事件の象徴となった。
真珠湾では、アリゾナの残骸が静かに港底に横たわり、それが最後の停泊地となった。もはや動くことはなく、湾内に聳える存在となり、後にそれを見る者は皆、ひとつの問いに直面することとなる。
この朝は、いかにして訪れたのか——。




