第三十三章 十四節文書
第三十三章 十四節文書
一九四一年十二月六日から七日、ワシントン、日本大使館。
その文書は十四節に分けて送られてきた。第十三節は深夜に到着した。
東京外務省は紫暗号を用いて、日本政府が米国政府に提出する断交文書を分割してワシントン大使館に送信していた――文書が長大であったため、分割送信が必要だったのである。日中に最初の数節が届き、翻訳作業が終わらぬうちに次の節が到着した。深夜に届いた第十三節には、最終節である第十四節と、文書提出の正確な時刻は翌日に送る旨が記されていた。
その「翌日」とは、ワシントン時間で十二月七日、日曜日であった。
野村吉三郎と来栖三郎は、その夜遅くに文書の内容構成を知った。これは正式な断交文書であり、日米交渉の決裂を宣言し、以後日本が自主的行動を取ることを米側に通告するものであった。具体的な行動については文書には記されていない――外交文書にはそれを書かない。それは別の通信経路で伝えられる内容であった。
だが、野村にはその意味するところが分かっていた。
---
問題はタイピストにあった。
大使館の通常の手順は、暗号電報が到着し、館内の暗号係が解読し、それを日本語秘書が正式な日本語文書としてタイプし、さらに英訳担当が英文に翻訳し、大使または公使級の官員が確認したうえで米側に提出する、というものであった。
この手順には通常、数時間を要する。その日、十四節に及ぶ文書は通常を大きく上回る分量であり、加えて第十四節は翌日まで待たねばならず、全体の流れは十二月七日の日中までずれ込むこととなった。
館内の暗号係の一人が、その日手違いを起こした――解読の速度が文書の到着に追いつかず、いくつかの節で誤りが生じ、やり直しを要した。通常ならば処理可能な手順であったが、あの日は時間だけが最大の圧力となっていた。
タイピスト――その日担当した日本語タイピストは臨時に呼ばれた者であった。正式なタイピストは日曜日のため出勤していなかった。臨時の者は正式な者よりも打鍵が遅く、特有の文書様式にも不慣れで、何度かやり直しを要した。
これらの細部は、後の歴史記録に詳細に再現されている。なぜなら、それらが今日に至るまで日本と米国の歴史学者の間で議論される「遅延」の要因を構成しているからである。断交文書は本来、攻撃開始前に米側へ手交されるべきであったが、実際には攻撃開始後に手交され、「宣戦布告後の攻撃」ではなく「奇襲」として歴史に記録されることとなった。
その定義が、以後のすべての叙述の基調を変えたのである。
---
野村はその日、朝から問題が生じていることを察していた。
第十四節は午前中早くに届いたが、大使館での英文翻訳版が完成したのは午後一時であった――この時点で、東京が予定していた提出時刻ぎりぎりであり、もはや余裕はなかった。彼らが実際にハルと面会したときには、ハワイでの攻撃はすでに始まっており、真珠湾襲撃の報もワシントンに届いていた。
野村はその文書の翻訳版を手にし、すでに間に合わないことを悟った。
彼はハルの秘書に電話をかけ、緊急面会の手配を依頼した。日本大使が重要な文書を提出したいと伝えた。ハルの秘書は、午後二時二十分に面会可能と応じた。
野村と来栖は車に乗り、国務省へ向かった。
---
その日、ハルの執務室にはすでにハワイからの報、軍からの報、ルーズヴェルトからの電話、全米各地の放送局からの情報が入っていた。その部屋は、もはや外交文書を待つ部屋ではなく、米国が戦時体制に入った最初の一時間の一つの節点となっていた。
野村と来栖は部屋に入り、文書をハルに手渡した。
ハルは文書を受け取り、ざっと目を通した。椅子には座らず、立ったまま読んだ。
そして顔を上げ、野村と来栖を見て、ひと言述べた。声は抑制されていたが、言葉はもはや外交儀礼に従っていなかった――彼は、五十年の公職生活で、これほどまでに虚偽と欺瞞に満ちた文書を見たことはない、と述べた。こうした欺瞞の記録を持つ政府から送られた文書である、と。
野村と来栖はその場に立ったまま、座ることも、答えることもなかった。
ハルは言った。「お引き取りください。」
彼らは部屋を出て、大使館へ戻った。外にはすでに記者たちが集まり、ワシントンの街路には、彼らにも感じ取れる何かが漂っていた。それはもはや外交言語に訳しうるものではなく、別の状態の始まりであった。
---
野村はその夜遅く、東京に向けて、おそらく最後となるであろう正式な電報を打った。
文面は静かであった――彼が生涯をかけて身につけたその静けさは、なお彼を離れなかった。
彼はこう記した。文書は提出済み、ハル国務長官の反応は激烈、会談は実質的に終了。両国関係は新たな段階に入り、大使館の通常の外交機能は停止、今後の措置は東京の指示を待つ。
彼は電報を送り、その椅子に静かに腰掛けた。
大使館内は静まり返り、外からは車の音や時折記者が呼び鈴を鳴らす音が聞こえるだけだった。彼らの日々は、野村がワシントンに着任したその日からおおよそ予感していた形で、この地点に至ったのである。
ふと彼は自分の日記を思い出し、そこに記した一文を思い返した――「我々は、ある事柄そのものを為しているのではなく、その形を為しているのだ」と。
その事柄は、今や真珠湾で為された。その形は、彼の手で、ハルの執務室で最後の一歩を踏み終えたのであった。




