第二十八章 東郷、ハル・ノートを読む
第二十八章 東郷、ハル・ノートを読む
一九四一年十一月二十七日、東京、外務省。
その文書は深夜に届けられ、翻訳にはほぼ一時間を要した。
東郷茂徳は翻訳が終わるのを待ち、紙の束を受け取ると、読み始めた。
彼は一枚目を読み終えると、二枚目へとめくり、また読み進めた。読む速度は遅く、まるで一語一句を確かめるようであった。外務省の文書翻訳官が傍らで黙って控えている。言葉はなく、ただ待つのみであった。
読み終えると、東郷はその紙束を机上に置き、しばし沈黙した。
後年、彼は回想録『時代の一面』において、この瞬間を「絶望的な打撃を受けた」と記している。この表現は日本の外交文書に見られる通常の語調よりも遥かに強いが、彼はそれを記した。誇張ではなく、正確な心情であったからだ。
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その文書こそ、後に「ハル・ノート」と呼ばれることになるものである。
それは十一月二十六日、ハル国務長官が野村吉三郎および来栖三郎に手交したものであり、日本外務省の乙案に対する正式な回答であると同時に、米国側の基本的立場を改めて明示した完全な文書であった。
照会の核心は、米国が日本に受諾を求める原則的な綱領であった。
第一に、日本は中国および仏印からすべての陸海空軍を撤退させること。
第二に、米国と共同協議する以外、中国以外の「政治的実体」を支持しないこと。
第三に、中国における一切の政治的・経済的・軍事的特権を放棄すること。
第四に、多国間不侵略条約に加入すること。
ハル・ノートの文言は力強く明確であり、「暫定的枠組み」や「段階的解決」の余地を与えず、米国の最終的立場を交渉の出発点として正面から提示していた。
東郷がこの文書を読んだときに感じた絶望は、ただ一つの事実に起因していた。この照会の出現は、乙案が拒絶されたことを意味していた。単なる棚上げではなく、より包括的な新たな文書によって旧来の交渉の流れが覆され、米国側は原点への回帰を要求していた。その原点とは、日本にとって帝国の全面的な縮小を受け入れることに等しかった。
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その夜遅く、東郷は東條英機に電話をかけた。
この電話の内容については、東郷の回想録や関係者の証言にいくつかの異なる伝え方があるが、要旨は一致している。東郷は「ハル・ノートが届いた。その内容は……」と要点を伝え、「この照会によって交渉の継続はほとんど不可能になった。明日以降の時間軸を考えれば、現状を報告し、次の措置を協議せねばならない」と述べた。
東條は電話口でしばし沈黙し、「分かった。明朝、会議を開こう」と応じた。
東郷は電話を切り、椅子にしばらく座り続けた。
数日前、彼は辞意を考えたことがあった。外相就任時、東條に対し「本当に交渉できる時間と空間」を条件の一つとして求めていた。その空間が大きくないことは着任直後から理解していたが、わずかでも可能性が残る限り、諦めたくはなかった。
ハル・ノートは、そのわずかな可能性をほぼ閉ざした。完全ではないが、ほとんどであった。
彼は後に回想録で、その夜辞職を考えたと記している。しかし最終的には辞めなかった。もしこの時点で自分が去れば、交渉の場に最後まで守る者すらいなくなる。その判断が正しかったか――残ることが本当に価値あることだったのか――彼自身も確信は持てなかったと後に述べている。
だが、彼は留まった。
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十一月二十七日、東京連絡会議が開かれた。
東郷はハル・ノートの内容を出席者全員に正式に報告し、自らの見解を述べた。すなわち、ハル・ノートの条件を受け入れることは、日本が四年間東亜に築いてきた戦略全体を放棄することに等しく、それは外交上の譲歩ではなく、帝国の根本方針の放棄である。内閣としても受け入れられず、またその権限もないとした。
そして、もし受け入れなければ、交渉はすでに終局に至ったと述べた。
出席者の多くは沈黙した。この件に投票は不要であり、論理が自ずと結論を導く。交渉の終結、そして既に動き出しているもう一つの選択肢が主導権を握ることとなる。
会議の終わりに、東條は「ハル・ノートは米国からの最後通牒である。帝国はこれが何を意味するかを認識し、相応の対応を準備すべきである」と述べた。
その「相応の対応」は、もはや再度議論を要する議題ではなかった。数ヶ月にわたり検討され、別の場所でその形式と時期が定められていた。
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その日、機動部隊はすでに北太平洋上を航行し始めていた。
二つの事象が、それぞれの軌道を進み、互いに干渉することはなかった――一つは太平洋上に、もう一つは東京の会議室に。その交点は、十二月七日ハワイ時間の夜明けである。
東郷は外務省の執務室で、ハル・ノートの翻訳文を丁寧に折りたたみ、書類ファイルの下に置いた。
次に彼が取り組むべきは、別の文書――日本の対米外交断交通知の準備であった。この通知は、軍事行動開始前に米側へ正式に提出されるべきものであり、東郷はその時機を慎重に調整し、断交通知――爆弾ではなく――が開戦の第一歩となるよう手配する必要があった。
外交儀礼上、その順序は明確である。まず通知し、その後に行動する。
だが、その順序は、最終的に彼の設計通りには実行されなかった。
このことについて、彼は回想録で淡々と記しているが、行間には語られぬ思いが滲む。外交儀礼に基づく順序が、実務上の遅延によって崩れ、彼自身が取り戻せぬ過誤となった。その過誤が、歴史におけるこの出来事の性格を変えてしまった。
だが、そうした細部は十日後のことである。今は十一月二十七日、断交通知はまだ完成しておらず、その十日の間にも多くのことが起こるのであった。




