第二十章 近衛、最後の試み
第二十章 近衛、最後の試み
一九四一年十月、東京、首相官邸。
苺は必ず消毒液で洗う。
それは変わらない。自らが終わりに近づいていることを、かつてなく明確に感じていたこの秋でさえ、台所ではその決まりが守られていた。彼の胃は昔から弱く、一九四一年であろうと、それ以前であろうと変わらなかった。彼のもとを訪れる者たち、会議の記録、書類の数字――そのいずれも、彼の胃を癒やすことはなかった。
だが、苺そのものに対する執着は、もうとうに失われていた。食べるのは習慣であり、彼という人間の一部であったからに過ぎない。食べなくとも、何も変わることはない。
十月十四日、内閣会議――それが、彼自身に課した最後の試みであった。
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その日の会議は午前から始まり、午後まで続いた。
議題は彼自身が提起したものだった。『帝国国策遂行要領』に定められた開戦期限の再検討、すなわち、その期限を延長し、外交交渉にさらなる時間を与えることが可能かどうか、特に彼が推進してきた首脳会談構想に最後の可能性を残すべきか、というものであった。
彼はこの件について、普段は用いないほど率直な言葉で説明した。首脳会談の道はまだ閉ざされていない、あと一ヶ月、もし米国側が交渉の席に戻るならば、双方が受け入れうる枠組みを見出すことも不可能ではないと、彼は信じていると述べた。
東條は自身の立場を述べた。それはこれまで幾度となく繰り返されてきたものだった。すなわち、戦争準備の一時停止は軍事的に到底容認できるものではない、という立場である。
海軍大臣及川古志郎は、海軍は外交交渉に反対しないが、同様に戦争準備を完全に停止することはできないと述べた。
陸軍参謀総長杉山元は、北太平洋の気象と航行の窓には時間的制約があり、これ以上の延期は本年の作戦条件を失わせ、翌年の開戦準備はさらに不利になると指摘した。
それぞれの主張には、それぞれの論理があった。その論理はすべて現実に根ざしており、そしてその現実の論理は、彼が開けようとした窓を、より固く閉ざす方向に働いていた。
彼はそこに座り、彼らの言葉に耳を傾け、ときに一言だけ記し、ときに一つだけ問いを発した。だが、今日も結果が変わらぬことを、心のどこかで知っていた。
それでも、彼は自分の言葉を最後まで口にした。それが効果をもたらすと信じていたからではない。ただ、言葉にしなければ、何も残らないまま辞することになるからだった。
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会議が終わった後、彼は官邸の書斎で長い時間を過ごした。
細川護貞の回想録には、その日の午後の近衛の様子が記されている。書斎の椅子にもたれ、目を開けてはいるが、目の前の何物も見ていない。まるで部屋の外の遥かな場所を見ているようだった。その状態はしばらく続き、細川が書類を届けに入ったとき、近衛はそれを受け取り、机に置き、目を通すことなく「ありがとう」とだけ言い、細川は部屋を出た。
その夕刻、近衛は数本の電話をかけた。その一つは木戸幸一内大臣へのもので、辞意を伝えた。木戸はしばし沈黙し、いくつか質問をした後、理解したと答え、手配を約した。
その通話はおよそ五分で終わった。
電話を切った後、近衛は机の脇の引き出しから一冊の本を取り出した。若き日に自ら翻訳したオスカー・ワイルドの『社会主義下の人間の魂』である。黄ばんだ紙面の傍らには、かつて自ら引いた鉛筆の線が残っていた。彼は本を開き、最初から読み始めることはせず、ただ頁を手に挟み、椅子にもたれて静かに座っていた。
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後年、彼は回想録にこう記している。あの夏は生涯で最も苦しい数ヶ月だった。初めて首相となった時よりも、はるかに困難だったと。
初めての時は若さゆえ、情勢に巻き込まれ、反応が遅れ、常に後手に回った。だが今回は違った。彼は十分に知っていた。選択肢がどこにあり、それがどこへ通じているかも見えていた。そして、自分にできることが、どこで行き詰まっているかも理解していた。
その明晰さには、独特の重みがあった。知らぬがゆえの迷いではなく、知った上でなお、道が見出せない苦しみである。
彼は夏の間、ひとつの問いに心を費やした。もしルーズヴェルトの前に座ったなら、何を語るべきか。だが、満足のいく答えは見つからなかった。自分が語りうる言葉は、許された約束の範囲に縛られ、その範囲には米国側が最も求める言葉が含まれていなかったからだ。
その扉は、決して本当に開かれたことはなかった。彼はただ、その扉の前に長く立ち、何度も押してみて、ついに開かぬことを悟ったのである。
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十月十六日、近衛内閣は総辞職した。
その報は当日午前に発せられ、午後には各紙が号外の編集に入った。記者たちは官邸前に集まり、近衛は建物を出てきたが、声明も記者への言葉もなく、ただ車のそばまで歩き、振り返って官邸を一瞥し、それから車に乗り込んだ。
その振り返りの動作を写真に収めた者はいなかった。カメラの位置がそこにはなかったからだ。しかし、現場にいた数人は後にそれぞれその瞬間を記している。ある者は、ただ歩いただけで特別な動きはなかったとし、ある者は確かに立ち止まり振り返ったとし、またある者は、その表情に何かを見たが、それが何かは言い表せなかったと記した。
それらの記述は、いずれも真実であるかもしれず、また重大な歴史の瞬間に立ち会った者に与えられる、ある種の叙述上の礼儀であったのかもしれない。
近衛自身は、その瞬間を記録していない。
辞職後、彼は鎌倉に隠棲し、戦争終結まで公的な職務を担うことはなかった。時折、友人と交わり、時折、何かを書いたが、それらの多くは私的な文章であり、歴史のためのものではなかった。
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彼の後任となったのは東條英機である。
辞職から二十四時間以内に任命がなされた。木戸幸一内大臣がその調整役であった。木戸にはこうした論理があった。東條のように実際に軍権を握る者が首相となれば、内閣内部で改めて戦争決定を見直すことができるかもしれない。彼には軍部を抑えるだけの権威があり、再検討の際に軍部が逆に彼を排除することもないだろう、と。
だが、この論理は後に木戸の期待通りには動かなかった。東條は確かに再検討を行い、賀屋による経済的な試算や、いくつかの連絡会議で数字を繰り返し精査したが、結論はやはり開戦であった。なぜなら、数字そのものは変わらず、変わったのは署名する者だけだったからだ。
しかし、十月十七日、東條が首相官邸に入ったその朝、これらはすべてまだ未来のことであった。
近衛は、もはやそこにはいなかった。
彼は鎌倉の邸宅で、あのワイルドの本を手にしていた。どの頁を開いていたのか、それを記した者はいない。
ただ、その本は、他の遺品とともに、戦後、細川護貞によって整理され、箱に収められた。紙は黄ばみ、いくつかの頁は角が折れ、鉛筆の線が淡く残っていた。それは、二十三歳の青年が大正三年のある午後に残した軌跡である。
その青年と、後の首相は、同じ身体に宿り、それぞれ異なる時代の筆跡をその本に残した。その本は今も残るが、二人はすでにこの世を去った。その事実には、あまりにも整いすぎた悲哀がある。




