第二章:山本の判断
第二章 山本の判断
1940年末から1941年初頭、広島湾、柱島錨地。
連合艦隊旗艦「長門」は灰青色の水面に静かに停泊していた。周囲には重巡洋艦や駆逐艦のシルエットが輪を描いている。冬の瀬戸内海には夏のような蒸し暑さはなく、冷たい海風が錨地の水面に細やかなさざ波を刻んでいた。
この日の午後、連合艦隊参謀長・福留繁が司令官室の扉をノックした。手には八枚綴りの報告書を持っていた。
それは数週間前、連合艦隊作戦参謀・大西瀧治郎が提出した草案であり、表題は「米国太平洋艦隊攻撃に関する研究」とあった。
山本はそれを受け取り、福留に着席を促すこともなく、黙って一頁目を開き読み始めた。
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山本五十六、この年五十六歳であった。
この数字には特別な意味がある――彼の名「五十六」は、父親が彼を授かった時の年齢に由来し、それがちょうどこの時の実年齢と重なっていた。この偶然を山本自身も知っており、時折友人への手紙で自嘲気味に触れていた。
彼の背丈は高くない。およそ一五七センチ。しかし歩く姿はそれ以上に見せるものがあった――長年、軍艦の甲板を歩き続けて身についた歩調は、落ち着きと重心の低さを感じさせ、いつでも波に備えているかのようだった。左手の指が二本欠けているのは、日露戦争・対馬海峡の戦いでの負傷によるものだ。二十一歳の時、「日進」艦の艦首で砲弾の破片を受け、現場で火傷を負った。医師は腕の切断を勧めたが、彼は拒否した。「感染で死ぬか、回復して兵に戻るか、半々だ。賭けてみる」と言い、そして勝った。
それから三十年以上、三本指の左手でトランプを切り、箸を持ち、手紙を書いた。彼は帝国海軍随一のブリッジプレイヤーとして知られ、モナコのカジノで勝ちすぎて追い出されたという逸話もある。本人もそれを否定せず、むしろどこか誇らしげだった。
彼を知る者は皆、山本の本質に職業軍人らしからぬものを感じていた。彼は賭けを好み、不確実な勝負に身を投じる感覚を愛し、誰も賭けない方向に賭けて、計算高い者たちの表情を眺めるのが好きだった。しかし、真に重要な局面では、最も冷静な判断を下す人物でもあった。
この二面性が、これからの二年間、彼の立場を極めて複雑なものにしていく。
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山本は報告書を読み終えても、すぐには意見を述べなかった。
大西の報告は、もし日米開戦となれば、連合艦隊は航空母艦を中核とする機動部隊を編成し、太平洋を横断して北方からハワイ・真珠湾に停泊する米国太平洋艦隊を奇襲すべきだ、という構想であった。米国太平洋艦隊を壊滅させれば、米国は西太平洋で日本の南進――英領マレーや蘭印の石油資源獲得――を阻止できなくなる。
この発想自体は海軍内部で前例がなかったわけではない。過去にも断片的な研究はあったが、大西はこれを具体的な作戦案としてまとめ、出撃海域や攻撃経路、艦載機の数、撤退路まで盛り込んでいた。
山本は報告書を脇に置き、立ち上がって舷窓の前に歩み寄り、柱島錨地の水面を見つめた。
彼の脳裏にまず浮かんだのは、この作戦が成功するか否かではなく、もっと根本的な事実だった――自分はこの戦争を望んでいない、ということだ。
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山本の米国理解は、帝国海軍の中でも屈指の深さを誇っていた。
1919年から1921年まで、彼はハーバード大学で石油経済を研究した。ボストンに住み、米国東海岸の街を歩き、音楽会に足を運び、図書館に通い、現地の日系人社会でブリッジを打ち、米国人学生と酒を酌み交わした。1926年から1928年には再び渡米し、ワシントンの日本大使館で海軍武官を務め、政界・軍界の要人とも多く接し、その国の規模をより明確に認識した。
帰国後、彼はしばしば語った。米国という国は、実際に暮らしてみなければ本当の姿は分からない。テキサスの油田に立ってこそ、その石油埋蔵量の意味が分かる。デトロイトの工場を歩いてこそ、あの国の工業力の凄まじさが理解できる。
彼はリンカーン伝を読み、自分とリンカーンに親近感を覚えた――貧しい出自、自力で道を切り開いたこと、そして世の中には意志だけでは変えられぬ事があると知っていること。友人への手紙で、米国という国の底知れぬ活力についてこう記している。「欧州とは違う。欧州は旧秩序の延長だ。米国は物事を本気でやる国だ。」
こうした認識と、企画院の報告――米国の工業生産力は日本の七十四倍以上――が、彼の中に極めて明確な判断を形作っていた。
日本が米国と持久戦を戦えば、勝ち目はない。
それは悲観ではなく、算術である。
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問題は、「戦わない」という選択肢がもはや残されていないことだった。
1940年9月、日独伊三国同盟条約締結以降、日米関係は目に見えて一方向に傾き始めた。1941年初頭、米国はまだ石油輸出を全面停止してはいなかったが、様々な制限や警告のシグナルが増していた。参謀本部の計算では、現状の消費ペースで日本の石油備蓄は約二年分。もし南進――東南アジア・蘭印の油田獲得――に出れば消費はさらに増すが、新たな油源を得る道も開ける。
動かなければじりじりと枯渇し、動けば米国を刺激して大戦争となる。だが、動けばまだ活路が残る。
参謀本部の暗室で、作戦図の矢印は年々南へと伸びていった。
山本は海軍の人間として、その矢印の意味を理解していた。南進による東南アジア資源の獲得は、必ずや英領マレーや蘭印の植民地利権を侵すこととなり、その背後には米国が控えている。米国が介入すれば、太平洋戦争は不可避となる。太平洋戦争が始まれば、米国太平洋艦隊の本拠はハワイ・真珠湾。フィリピンまで数千海里の距離で、日本の南進補給線をいつでも遮断できる。
連合艦隊司令長官として、彼が直面せざるを得ない戦略的現実――戦争が始まれば、真珠湾こそ最初に対処すべき問題である。
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彼は冬が終わる前に一通の書簡をしたためた。
宛先は軍令部総長・永野修身。文面は率直で、外交辞令はほとんどなかった。彼は米国との戦争は極めて危険であり、勝算はほとんどないと考えている、開戦には反対であると記した。しかし、国家が最終的に開戦を決断した場合、連合艦隊司令長官としての自らの責務は、最も有利な条件で戦争を始めることにあるとも述べた。
書簡の後半には、こう記されていた。
「私見では、戦端が開かれれば、我々が唯一得られるのは最初の六ヶ月から一年間の戦場主導権のみ。その後は米国の工業力と補給が我々を圧倒する。この状況下、開戦初頭の第一撃は、米国の戦意を短期間で動揺させ、外交交渉の余地を生むほどの衝撃でなければならない。その第一撃は、真珠湾の太平洋艦隊を直接叩く以外に、この目的にかなうものはないと考える。」
彼は書簡を封じ、伝令に託した後、再び舷窓の前に戻った。
広島湾の水面には、午後の光が波間に砕けて金色の粒となっていた。
自分がしていることは、ある意味で矛盾している――戦争に反対しながら、その最も効果的な開戦を設計している。この矛盾を自分の中で整理し、納得していた。国家が既に選択を下した後、軍人にできるのは、その持ち場で最善を尽くすことだけだ。
彼はこの矛盾について弁明せず、繰り返し考えることもなかった。黒革の手帳を新しい頁にめくり、そこに数字を書き始めた。航空母艦六隻、艦載機三百五十機、出撃海域北太平洋、時期は冬。
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この計画を実際に紙上から現実へと推し進めたのは、源田実であった。
1941年初頭、山本は計画の具体化を第一航空艦隊参謀・源田実に託した。源田は飛行士仲間から「狂源」と呼ばれていた――それは彼が無謀だからではなく、常に他者より一歩先を見据えた発想を持ち、その先見が現実となった時、周囲はようやく彼の計算の深さに気付くからだった。
源田は数週間かけて作戦案を図面に落とし込んだ。最初に突き当たったのは魚雷の問題だった。
真珠湾の水深はわずか十二メートル。標準的な艦載魚雷は投下後、六十メートルも沈下する。十二メートルの港湾では、投下と同時に海底に突き刺さり、目標に命中しない。
多くの参謀はここで諦めた――水深が浅すぎて魚雷は使えない。
源田の発想は逆だった。米国側も水深が浅いから魚雷は無用と考え、港内に防魚雷網を設置していない。もし魚雷の沈下問題を解決できれば、この弱点こそが最も致命的な奇襲の角度となる。
問題は工学的課題に変わった。どうすれば魚雷を十二メートルの浅水域で正常に作動させられるか。
彼は横須賀海軍航空技術廠に魚雷尾翼の改造を要請した。工場の技術者たちは鹿児島湾で何度も実験を重ね、翼型の調整を繰り返し、最終的に魚雷の沈下深度を六十メートルから七メートルにまで抑え、十二メートルの水深でも有効に作動するようにした。
この工夫が、後の真珠湾攻撃の戦果に決定的な影響を与えることとなる。
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その頃、渕田美津雄は自らが後に担う役割をまだ知らなかった。
1941年夏、渕田は鹿児島基地で爆撃機搭乗員の訓練にあたっていた。江田島海軍兵学校を優秀な成績で卒業し、水平爆撃を専門とし、演習で驚異的な命中率を記録していた。体格はがっしりしているが背は高くなく、丸い顔、早口で、常に次の行動を急ぐような切迫感があった。飛行は彼にとって天職であり、理由は不要だった――操縦席に座れば世界が鮮明になる、そういう男だった。
その夏、艦隊が特殊訓練を実施していると聞いた。飛行士に極低空・高速での魚雷投下を求め、訓練場所は鹿児島湾――水深や地形が、ある目標と似ているらしい。だが、その目標がどこかは知らされなかった。軍紀と機密保持がそれを許さなかった。
彼はただ訓練を繰り返した。毎日、同じ動作を体に叩き込む。
低空、減速、投下、引き起こし。
低空、減速、投下、引き起こし。
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1941年の夏から秋にかけて、山本は最終案を上申し、同時に再度自らの意見を添えた――開戦には反対だが、やむを得ず戦うなら、連合艦隊によるハワイ作戦の完全実施を要求する。もし真珠湾を叩かず南進のみなら、米国太平洋艦隊が側面から補給線を断ち、日本は絶対に勝てぬ戦争を戦うことになると明確に警告した。
軍令部内部ではこの計画に強い反対があった。従来の作戦理論では、艦隊決戦は西太平洋で米艦隊を日本近海に誘い込んで戦うべきであり、遠くハワイまで艦隊を派遣するのは冒険であり、賭博であるとされた。
山本は答えた。「そうだ、これは賭けだ。しかし、我々の持つ条件下で、賭けこそが唯一、勝率を変えうる方法だ。」
その口調は特別な感情を込めるでもなく、ただ事実を述べるようであった。
黒革の手帳の数字は何度も書き直された。最終案――航空母艦六隻、第一波攻撃艦載機百八十三機、第二波攻撃艦載機百六十七機、出撃錨地は単冠湾、時期は十一月下旬。
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彼は妻・礼子に一通の手紙を書いた。時期は1941年秋頃、正確な日付は不明である。内容は家族のこと、子供のこと、母の作る味噌汁が食べたいこと、好きな詩についてなど、日常の話題だった。手紙の末尾には、後に研究者たちが繰り返し引用する一文がある。
「私は自分のなすべきことをしている。しかし、このことが永遠に起こらぬことを願っている。」
誰もこの言葉の意味を彼に問いただすことはなかった。
秋の柱島錨地に静かに繋がれた長門。その黒革の手帳は新たな頁を開き、これから書き込まれる内容を待っていた。
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山本が連合艦隊司令長官に任命されたのは、1939年8月――日独伊三国同盟条約締結よりも前であった。
この人事の発端は、傍から見れば皮肉なものであった。当時、海軍内部ではドイツ・イタリアとの同盟締結を巡り激しい論争があり、山本はその強硬な反対派であった。彼は海軍大臣・米内光政とともに、その道は日本を英米との戦争に導くと主張した。その声はあまりに大きく、東京では右翼団体が山本を狙っているという噂まで流れるほどだった。
米内光政は、山本を守るため、また一時的に東京の政治中枢から遠ざけるために、彼を海上へ送り出した――連合艦隊司令長官への任命であった。
それは庇護であり、同時に隔離でもあった。
艦隊の職務に就いた山本は、もはや東京で反対の声を上げ続けることはできなくなった。一方、彼に危害を加えようとした者たちも、彼が艦に上がった後はついに機会を得られなかった。
こうして、山本は思いがけず連合艦隊の旗艦に座し、帝国海軍の全戦力を手中にしながらも、心の内では自らが準備しつつある戦争に反対し続けていた。
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山本には、連合艦隊で部下たちに強い印象を残すやり方があった。彼は兵の名を呼ばず、記憶した。
常に黒革の手帳を携え、その中にはびっしりと人名と地名が書き込まれていた――自らの指揮下で戦死した兵士たちと、その故郷の名である。彼の行程が戦死者の村を通る際には、必ず立ち寄るよう命じ、その家を訪れ、位牌の前で頭を垂れた。時には涙を流すこともあった。随行の参謀たちは最初こそ驚いたが、やがてそれを日常のこととして受け止めるようになった。
山本は感情を表に出す人間ではなかった。その涙は偽りではなく、誰かに見せるためのものでもなかった。
彼の手帳には、人名や地名のほかに、長年にわたり何度も書き直してきた一組の数字があった――ある奇襲作戦、六隻の航空母艦、三百五十機の艦載機の出撃経路、そして十二メートルの深さを持つ湾での魚雷の問題。その二つ――人名と作戦の数字――は、同じ黒革の手帳の中で、何の矛盾もなく幾年も共存していた。
おそらく、あの時代の多くの軍人が言葉にできなかったことだろう。死んだ者と、これから死ぬ者が、しばしば一人の心の中に同居しているということは。
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一九四一年の秋、渕田美津雄はついにその目標の名を知ることとなった。
その日、彼は鹿児島基地でその日の最後の訓練を終えた。参謀の一人が彼を脇へ呼び、声を潜めて言った。
「渕田君、ハワイだ。」
渕田はしばらく黙っていた。
やがて尋ねた。「水深は?」
参謀は答えた。「十二メートル。」
渕田は、この数か月間繰り返し練習してきた動作――低空、減速、投下、引き起こし――そして改造された魚雷、異なる翼型、沈下深度を七メートルに抑えたことを思い出した。
彼は静かに頷いた。
「それなら、やれる。」
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山本五十六は、その秋も旗艦にとどまり、手帳の中の数字が一行一行、より具体的になっていくのを見つめていた。彼はいまだに、この戦争は始めるべきではないと考えていた。そして、もはやそれを止める術が自分には残されていないことも理解していた。
彼にできるのは、開戦の一手をできる限り強くすることだけだった。賭場に座り、すでに賭け金を出した以上、あとは手札を最善に打つしかない。
それが彼の論理だった。単純で、冷静で、死を見た者だけが持つ静けさを湛えていた。
窓の外、広島湾の秋の水面は夏よりもさらに深く、色は使い古された鉄のように沈み、しかし決して灰色にはならなかった。
彼は手帳を閉じ、それを左手側の引き出しにしまった。指を二本失ったその手で、静かに引き出しを閉めた。




