第十八章 あの和歌
第十八章 あの和歌
昭和十六年九月五日、午後、東京、皇居。
近衛文麿が拝謁の間に入ったとき、手には一通の書類を持っていた。
その書類は三文字で自らを名付けていた――「帝国国策遂行要領」。九月三日、連絡会議で半日を費やして審議され、可決されたものである。本日、近衛が皇居を訪れたのは、この文書の内容を天皇に奏上し、翌日開催予定の御前会議で正式に裁可を仰ぐためであった。
文書の核心は三点に要約できる。重要度の順に並べると――
第一、日本帝国は米国・英国・オランダとの開戦を回避しない。戦備を進める。
第二、戦備と並行して、外交的手段による米英との和解に最大限努める。
第三、十月初頭までに外交努力が実らなければ、日本帝国は米英蘭との開戦を決意し、十月末までに戦争準備を完了する。
近衛はこの三点を天皇に読み上げた。
裕仁はしばし沈黙し、やがて口を開いた。「その順序は、正しくない。」
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裕仁はその年、四十歳であった。
彼は昭和天皇、日本第百二十四代天皇である。昭和元年(一九二六年)に即位してから、すでに十五年が経っていた。海洋生物学を学び、水螅綱動物に関する学術論文も発表している。皇居の実験室で浜辺で拾った標本を研究するのを好み、話し方は穏やかで、時に公式の場で意外な技術的細部を尋ねることもあった――それは演技ではなく、純粋な好奇心からである。
彼は強い指導者ではなかった。
そのことと、彼が立つ地位との落差こそが、彼の政治的人生における最も深い裂け目であった。
憲法は天皇に最高統帥権を与え、軍は理論上、天皇に責任を負う。しかし、慣例として天皇は政治に関与しないとされていた――彼は上奏された決定を裁可し、儀式的な沈黙によって国政に正統性を与える。国家の象徴であり、権威の源泉であっても、実際の決定者ではない。この仕組みには奇妙な意図があった。天皇の権威は常に引用可能でありながら、実際に行使されることはない。
実際には、御前会議で裁可された決定はすべて「天皇親制」の印を帯びるが、天皇自身は多くの場合、諮問されるのではなく、通知されるだけであった。
裕仁はそのことを理解していたし、好ましく思っていなかったが、その不満を行動に移すことはほとんどなかった。
今回、近衛が三点を読み上げたとき、彼は言った。「順序が違う。外交が第一であるべきで、第二ではない。」
近衛は答えた。「変更はできません。」
天皇の表情には微かな変化が現れた。それは一言で言い表せないもので――怒りではなく、むしろ自らの立場を自覚したときの醒めた認識に近かった。彼は言った。これほどまでに戦備が進んでいるとは知らされていなかった。なぜか、と。
近衛は直接答えず、裕仁に杉山元と永野修身――参謀総長と軍令部総長――の拝謁を勧め、軍事状況の説明を求めるよう進言した。
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杉山元と永野修身は直ちに召され、宮中に参上した。
杉山元は陸軍参謀総長であり、かつて陸軍大臣も務めた。日中戦争が全面化した当初、まさに彼が天皇に「この戦争は一ヶ月ほどで終結する」と奏上したのである。
あれから四年が過ぎた。
裕仁は彼を見つめ、戻ることのできない問いを発した。
「日中戦争が始まったとき、あなたは一ヶ月ほどで終わると言った。しかし、長い四年が過ぎても、戦争は終わっていない。」
杉山は咳払いし、「中国には広大な辺境地帯があり、当初の計画通りには進めませんでした」と答えた。
裕仁は言った。「中国に広大な腹地があるというなら、太平洋はさらに広大ではないか。なぜ三ヶ月で東南アジアの作戦が完了すると判断したのか。」
杉山は答えられなかった。彼はうつむき、沈黙で顔の赤みを隠した。
この光景に、傍らの永野修身は黙っていられず、助け舟を出した。彼は医療の比喩を用い、「現在の日米関係を病人に例えるなら、手術が急務です。手をこまねいていれば病状は悪化します。回復の望みがないわけではありませんが、成功の可能性が七割から八割あるうちに決断すべきです」と述べた。
裕仁は聞き終え、問うた。「我々は勝てるのか。必ず勝てると言えるのか。」
永野は答えた。「『必ず』とは申し上げられません。人力にも神力にもよるからです。」
天皇は沈黙した。
そして最後の問いを発した。それは自らに最後の防波堤を設けるかのようだった。「もう一つ聞く。最高統帥部は、今後さらに外交に重きを置くつもりなのか。そう理解してよいか。」
両総長はうなずき、「はい」と答えた。
それは答えではあったが、約束ではなかった。
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九月六日、午前十時、御前会議が始まった。
これは厳格な公式の場である。出席者は慣例に従い着席する。内閣総理大臣、外務大臣、内務大臣、大蔵大臣、陸軍大臣、海軍大臣、陸海軍総長、次長、軍務局長、内閣書記官長、企画院総裁。天皇は長い卓の奥に座り、背後には金屏風が広がる。その前に、軍服や礼服を着た者たちが並ぶ。
この場には、厳格に守られる不文律がある。天皇は発言しない。彼はその存在によって会議に最高の正統性を与えるが、唇は動かさない。天皇に代わって質問するのは枢密院議長である。
この日の枢密院議長は七十歳の原嘉道であった。
原嘉道は慣例に従い、両総長に問いを発した。「日本の対外政策の重点は、軍事戦略か、それとも外交か。」
この問いは意外ではなかった。前日に裕仁が私的拝謁で示した論点の公的な形である。その意図は明白だった。両総長に天皇の前で明言させる――外交が本当に重視されているのか、それとも単なる形式に過ぎないのか。
両総長は答えなかった。
会議室には静寂が訪れた。それは思索のための間ではなく、誰も最初に口を開きたくないがゆえに凝り固まった沈黙であった。
そして、本来発言すべきでない者が口を開いた。
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裕仁はワイシャツの胸ポケットから、一枚の折りたたまれた紙片を取り出した。
それを広げ、静かで確かな声で、そこに記された言葉を朗読し始めた。
**「四海の内皆兄弟、なぜ風雨人間を乱すや。」**
それは一首の和歌であった。三十一音からなる短歌であり、彼の祖父・明治天皇が日露戦争開戦時に詠んだものである。
原文は、
*よもの海みなはらからと思ふ世になど波風のたちさわぐらむ*
意味は、四方の海の内は皆兄弟であるはずなのに、なぜこの世に波風が立ち騒ぐのか、というものである。
会議室の全員がこの和歌を聞き、天皇が詠み終えて再び沈黙したのを見届けた。やがて裕仁は一言だけ添えた。なぜこの和歌を皆の前で詠んだのか、その理由の一端を示すように――「原議長の問いは適切であったが、両総長が答えられなかったのは遺憾である」と。
そして、再び沈黙した。
部屋の誰一人として、動かなかった。
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その和歌が発した信号を、各人がそれぞれに読み取った。
近衛はその朝、天皇の最側近である内大臣・木戸幸一に、御前会議で天皇が戦争計画に対して何らかの不同意の意を示すよう伝言を託していた。木戸はその言葉を届けたが、同時に裕仁に「明確な政治的立場を表明してはならない」と念を押した。天皇が明確に態度を示せば、その結果に責任を負わねばならないからである。
こうして裕仁の介入は、一首の和歌となった。
「否」という一言ではなく、一首の和歌であった。
東條英機は後に部下に語った。天皇が和歌を朗読したとき、目頭が熱くなったと。しかし、天皇が戦争に反対しているとは思わなかった。彼の解釈では、あの和歌は軍を励ますものであり、「この困難な時に、勇気をもって困難を乗り越えよ」との激励であった。もし戦争に勝利すれば、四海は兄弟となり、天皇の祈りは実現する――そう受け取ったのである。
この解釈は、原嘉道の問いとも、近衛が前日に天皇に介入を求めた意図とも、まったく異なるものであった。
だが、それは実際に起きたことであり、東條は本気で、涙ぐみながら、疑うことなくそう受け止めたのである。
一首の和歌が、二つの方向に読まれていった。
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御前会議当日の残りの議事は、予定通り進行した。これ以上の劇的な出来事はなかった。
会議は「帝国国策遂行要領」を承認した。あの三点、あの順序、「十月初頭を外交の最終期限とし、十月末までに外交が不調なら開戦準備を完了し、決意して戦う」という決議も含めて。
裕仁は承認を拒まなかった。
彼は一首の和歌を詠み、そして承認した。
この出来事の後、研究者たちは繰り返し一つの問いを投げかけた。なぜ彼は拒否しなかったのか。憲法上、天皇が御前会議の決定を否決できないとは明記されていない――理論上、その権限はあった。もしあのとき、彼が立ち上がって「否」と言っていれば、歴史は変わったのではないか、と。
確かな答えはない。
だが、いくつかの要素が考えられる。
一つは彼の性格である。裕仁は、内心の反対を行動に移せる人物ではなかった。問題を冷静に見つめ、問いを発し、和歌を朗読することはできても、あの会議室で慣例を破り、軍服の者たちをその場で困惑させることはできなかった。
もう一つは木戸の忠告である。政治的態度を表明してはならない、さもなくば結果に責任を負うことになる。木戸の言葉は、天皇に沈黙を求めたのではない。もし天皇が明確に反対を表明し、それでも戦争が始まれば、歴史の記録には「天皇はこの戦争に反対したが、それでも戦争は起きた」と残る。それは沈黙よりも危険な記録となり、天皇の権威が失われた証左となる。
そして三つ目、恐らく最も深い理由は――この機械はすでにここまで動き出しており、裕仁にはそれが見えていたが、自らが踏み込むブレーキが機械を止めるのではなく、より悪い方向へ暴走させるのではないかという懸念があった。
だからこそ、彼は承認した。あの和歌とともに。
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九月六日夜、近衛は密かにもう一つの会合を設けた。
「朝食会クラブ」の一員である牛場友彦を通じて、米国大使グルーと連絡を取り、誰にも気付かれない友人宅で会うことにした。彼の芸者の愛人が給仕を務め、米国大使館員のユージン・ドゥーマンも同席した。
公式なルートではなく、秘密裏に会う理由があった。八月十五日、内閣の平沼騏一郎が自宅で極右の刺客に襲われ、頭部を含む六発の銃弾を受けながら奇跡的に生還した。あの空気の中で、米国大使と公然と会うことの危険は、近衛も十分に承知していた。
その秘密の晩餐で、近衛はグルーにこう伝えた。自らルーズヴェルトと直接会いたい。外交機関を通さず、公式ルートも使わず、権力を持つ二人が直接会って、まだ話し合えることがあるか確かめたい。野村が電報でできないこと――説明、釈明、あるいは何らかの約束を、自分ならできるかもしれないと考えていた。
だが、その約束の内容は明らかにしなかった。
グルーはこの意向を長文の報告書にまとめ、ワシントンに送った。
同じ日、ワシントンには日本外務省から別の外交文書も届いていた。その文書は日本の立場――中国問題での譲歩拒否、日独伊三国同盟の維持、仏印からの撤兵拒否――を明確に示していた。
この二つ――近衛のルーズヴェルト会談希望と、外務省の強硬な外交文書――が、同じ日にワシントンに届いたのである。
ハルがこれら二つの資料を読んだのは、同じ一双の目であった。
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総力戦研究所は昭和十六年夏、一つのシミュレーション演習を完了した。
それは日本陸軍の委託による思考実験であった。「模擬内閣」を編成し、軍事学校の優秀な若手将校や分析官をメンバーとし、実際の情報データを与えて日本政府を模擬し、米国と開戦した場合に何が起こるかをシミュレートするというものである。
結果報告は夏の終わりにまとめられ、上層部に提出された。
報告の結論は率直で、抑制された表現ながら明確だった。現有のデータ条件下では、日本は米国との戦争に勝てない。模擬内閣はこの結論について長く議論し、あらゆる方向から推論したが、どの道筋も同じ終着点に至った。
この報告が本物の指導層に提出されたとき、近衛とその閣僚たちはすでに目を通していた。
九月六日、御前会議で開戦計画が承認されたその日も、この報告の結論は有効だった。それは覆されず、反論もされず、ただどこかに置かれ、「七割から八割の手術成功率」という言葉にかき消され、和歌の朗読にかき消され、回り続ける機械の音にかき消された。
数字と戦争計画は同じ世界に存在し、互いの存在を知りながら、語り合うことはなかった。
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御前会議が散会した後、杉山元は参謀本部の執務室に戻り、しばし座っていた。
その問いは、いまだ彼の心に引っかかっていた――四年前、彼は「一ヶ月」と言い、誤った。今度は「三ヶ月」と言い、天皇は皆の面前でその二つの数字を並べて読み上げた。その場面が彼の脳裏で何度も繰り返された。繰り返すたびに、彼はおそらく同じことを考えていたのだろう――その二つの数字の隔たりを。
一ヶ月。四年。
このたびの御前会議について、一つの記録が伝わっている――会議録ではなく、杉山自身が後に語った細部である。裕仁があの詩を読み終えたとき、会議室で涙を流した者がいたという。その涙の意味を、誰も完全には説明できない――感動なのか、恐怖なのか、それともそのどちらよりも名付け難い何かなのか。
この戦争に勝てないことを理解している者たちが一室に集い、この戦争が容易ならざることを知る天皇の前に座し、天皇が祖父の詩を朗読するのを聞き、涙を流しつつも承認した。
これが、九月六日の御前会議が歴史に残した光景である。
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その夜、東京には何も特別なことは起こらなかった。
秋はまだ訪れず、空気には晩夏の湿った熱気が残っていた。大通りの人々はいつもと変わらない――歩く者、立ち止まる者、屋台の前で買い物をする者、子供を背負って電車を待つ者。ラジオはニュースを流していたが、御前会議にも、あの詩にも、あの外交の期限にも触れなかった。
それらの出来事は、記録の中に、あの一室の出席者たちの記憶の中にだけ存在し、街にはなかった。
市井の人々は、決められたその時間軸を知らない。
彼らはただ日々を生きていた。この夏の終わりに、その線がすでに引かれていることも、今日からの一日一日がその期限へと近づいていることも知らずに。




