第五章 平衡、平穏(4)
ディーンがリーザから受け取った補償金は、ありていに言えば『目玉が飛び出るほどの金額』だった。
それに手をつけることをディーンはやっぱり嫌がったが、エレナは気にせずにそれを彼らの調査会社の口座に入金した。
まもなく、エレナは当然のように調査船の長期リースの契約を済ませ、ディーンを航海に誘った。その元手がリーザの金だと知るディーンは渋ったが、結局は船に乗り、船に乗ってしまえば、掘削に精を出し、最後にはそれを楽しみさえした。
「ははは、見ろ、今までは安い冷凍機だったからすぐにコアがグズグズになってたが、先までカチカチだ。冷媒が届く距離が全然違う。もっと早く借りればよかった」
コアサンプルを分厚い手袋で持ち上げてディーンが笑う。
「パイルもいいものに変えたからね。今度はあと何百メートルか進めても大丈夫かも」
「なんだそれは、君の『予知』か?」
「さすがにそこまでは分からないよ。実際に見てみなきゃ」
エレナは、彼女の全知や予知を働かせるには、あくまで、それが起こる何かを自分の目で見る必要があると言った。彼女自身の目か、彼女のエクスニューロがつながっている、いろいろなセンサー。防犯カメラなどのセンサー網がない海上では、それはほとんど働かないのだ。
そんな彼女の決定的な弱点さえ、エレナは惜しみなくディーンに話して聞かせた。
その信頼関係を、ディーンはこの上なく心地よく感じる。
「そして結局、君は僕の心の中までは分からない。心は見える形をしていないからな」
「うん、そうね」
「なあ、キスしないか?」
ディーンは唐突に言った。彼女との心安らぐ日々が、永遠に続けば、と。
「ダメ。ディーンはそうやって何人の女性を口説いてきたの?」
「忘れたよ。大したことのない女だった」
「じゃあ、他の女性に対してと同じような口説き文句が出るうちは、ダメね」
「手厳しいな。『不可触処女』だったかな、君の二つ名のひとつは」
「ふふ、そうね。そう言えば、博士、言ってたの。一人の人間に対する極端な固執や感情は、全知の力を失わせるきっかけになるって。シャーロットが恋人と別れさせられたのもそれが理由。だから、ダメ」
「はは、そうか、僕はまた一つ、魔人の弱点を知ってしまった。そうだな、君が力を失ったら、僕も君も自分を守れなくなる。少なくとも、リーザ王女が権力の座について僕らの安全が確実になるまでは、よしておこう」
「その間に私が他の人に心を奪われない保証はないけど?」
「言うじゃないか、じゃあ今は僕に心を奪われてるってことだな」
「さあね」
二人は、お互いにこれが色や恋ではないとうそぶきながら、いつもこんな会話を楽しんでいる。
ディーンにとってそれは本当に、性的な欲望を超越した、最高の体験だった。
こんな日々が失われないためなら、彼はいかようにでも自分を御する自信があった。
あまり意味がないとわかっているものの、習慣的に超音波剃刀でコアをスライスしながら、ディーンは口を開く。
「僕はさ、リーザに裏切られたと思って、リーザを心から憎んでいた。だけど今は、リーザを応援してもいいんじゃないかという気持ちも、少しだけある。やっぱり僕はエミリアで生まれて育った人間だから。隣人が同じものを信じてるという安心は、他のものには代えがたい。今僕がエレナに感じているようにね」
一枚取れたスライスを素早くスキャナに突っ込み、分析。
「人と人の信頼関係って、難しい。今回のことでよくわかった。だから、正教の優しい教えを守ることも、大切なんだよ。隣にいる人と同じものを信じているから、信頼のコストが下がる。一度、僕はそれを捨てそうになって、リーザに深い恨みを抱いて――だからこそ、そこにあるコストの高さが理解できた。だから、人と人の信頼を守ろうとするリーザは、きっと、正しいんだと思う」
「あらあら、ディーンたら、あっさり大金で転向しちゃったよ」
「はは、そうだな」
「それでいいと思うよ。私も、今回のことで、狂信者の怖さを嫌と言うほど知った。人の非合理性の極致。宗教は危険だという確信を深めた。でも、それが人にどんなものをもたらしているかをディーンから学べたから。私は人の未来が見えるから、信頼できる人は無条件で信頼できる――だからうっかり、宗教なんて価値がないと思ってて。でも、人が人を信頼するって、とても大変なんだな、って。大金で心を動かされたのだとしても、頭ごなしに否定するのはやめようと思う」
「君でさえあの大金には参ったわけだ」
「ふふ、そうね。そういうことにしとく」
二人は笑いあって、では次に向かおう、と、船の向きを変えた。
***
彼、ルカ・アリオスティは、彼の大叔父を待つ間、ちらりと彼自身の端末に目を落とした。
少し前に送ったメッセージが灯っている。
あまり効果はないだろうが、『逃がす』という点についてはこのメッセージで手を打ったつもりだが、まだ反応は見えない。
素直に従って逃げ出してくれるのであれば猊下の期待を裏切ったリーザを救う役割は自然と転がり込んでくるであろうし、あるいは、あの機械人形が大げさに動いて今度こそ『こと』が明るみに出てくれれば、伝統への敵対者を征伐する勇者という役割さえ得られるかもしれないという計算もあったが――ともかく、そちらに関しては、動きはなさそうだ。
ジーニーが感じる機械人形の殺気も、あれ以来、ごく薄まっている。おそらくこちらへの興味を無くしているだろう。平民に舐められていると考えれば本来は腹立たしくもあっただろうが、ルカにとって、平民とはその程度の感情を動かす対象でさえない。アリの前にキャンディを落としてみたが喜びにむせび泣かなかったからといって腹を立てるだろうか。その程度のことである。
そして、『告発』という手について、その方法と対象が、思いもよらぬものに変貌していた。
「大叔父上――猊下。突然の面会に応じていただき恐悦に存じます」
「いや、よく参った。つい先だって、アリオスティのルカは近ごろどうか、と我が兄と話題になったばかりでな」
一般の貴族ではこのようにはいかない。
メアッツァ家の『離れ』であるこの邸宅は、エミリア正教主教となったものにだけ居住を許される至尊の聖域であり、たとえ三公といえどもよほどのことが無ければ冒すべからざるものである。ひとえに、アリオスティ家が代々メアッツァ家と姻戚関係を維持してきたことが、ルカがこの場にあることができる理由であった。
「息災にて、我が父と主と精霊のご加護に感謝する日々でございます」
と、ルカは深く頭を下げる。
「そうか、であればよい。リーザ殿との話はまだ聞かぬが、進めておるのか?」
「何分にも、気の強い姫君にて」
ルカが苦笑すると、メアッツァもつられて顔をほころばせる。
「そうか。実はな、そなたの耳には入れておかなかったが、リーザ殿も、我が子らの幸福と安寧のために身をささげようという熱意がいかにも盛んでな、当面どこかの家に入ろうとは思っておらぬようだ。そなたもよい歳であろう、まずは、あれのことは置いて、正室を取っておくがよい」
その言葉に一瞬顔を歪めるが、すぐにルカは取り繕い、
「実はそのことで猊下のお耳にいれたきことが」
と、たたずまいを正す。
「良い姫でもできたか? いや、リーザ殿のことか」
問い返し、その顔色を見ながら、メアッツァは、本題を見抜く。
今日ルカがここに来たのは、まさに『リーザを告発するため』であった。
ことの発端は、ルカがディーンたちの資金について調べていたことだ。
機械人形が資源調査会社まで立ち上げて海底調査をしている、となると、資金の出どころが気になる。ある程度想像していたが、あの機械人形が、おそらくマリアナに隠し持っている莫大な遺産のようなものだと知れた。無署名のクレジットクーポンの出どころとして最も有力なのは、あの無法地帯で稼いだ違法な金。数々のマフィアの資金やレアメタル利権に関わる金が、どこかの袋小路に消えていることは、ジーニーを使った調査ですぐに分かった。それがエレナの懐を経由して調査に使われていることは推理と言うほどの労力も必要にないほど自明なことだ。
実のところ、そうした調査は、クレジットクーポンから袋小路を逆にたどるという荒業で為している。存在するかどうかも分からない袋小路を、なんのヒントもなく特定し、逆にたどるのである。こういったことができるのが、ジーニーという知能機械の本領であった。
そして、ルカとジーニーは、思いもよらぬ袋小路を見つけてしまった。
エミリアの中堅貴族のいくつか。
そこに、エレナが取り出したクレジットクーポンにつながりうる袋小路が、点々と広がっていた。
ルカは、戦慄した。
まさか誇り高きエミリア貴族が、あのような機械人形に、何らかの便宜を受け金を提供していたのか、と。
彼らのつながる先の共通項を必死で探った。
一時は、リーザやエレナのことなどどうでもよくなった。エミリア貴族として、その誇りを汚す者どもに対する怒りが、ルカのすべてを支配していた。
やがて、浮き彫りになった共通項を見て、ルカは愕然とするとともに、口の端が上がるのを抑えられなかった。
出てきた名は、リーザ・ベルナンディーナ・グッリェルミネッティ。
彼らの袋小路の先に、リーザがいた。
リーザがこれまで築いてきた『貸し』を、清算したのだろう。これに関しては、猊下への忠節を明らかにしたのだと考えれば、むしろ歓迎すべき動きだ。
それよりも、その金を持て余し、あの機械人形に提供していたことの方が重大事だった。
これを以て、ルカの『密告』は、『エレナを当局へ』ではなく、『リーザを猊下へ』と、対象が変わったのである。
「私の調べです。まずはごらんを」
ルカが印字してきた紙束をメアッツァに示す。
一枚目に書かれた結論に目を見開いた後、メアッツァは何枚か紙をめくり、また一枚目に戻ってから、応接テーブルにそれを投げ出した。
「まことか」
「はい、リーザ殿下は、あの平民たちの地下探索に、資金を提供しております」
「なんと……」
メアッツァは心底失望した顔で、頭を抱える。
「動機はなんであろう」
「おそらく……同情心かと」
「同情とな」
そしてルカは、おおよそリーザの心情を完全に言い当てる。
「殿下は、彼の者らから鉱石を献上させましたが、彼の者らの功績を横取りしたと考えてしまったのでしょう。おそらく、罪滅ぼしのようなものかと」
「……左様か。ならば、まあ、目をつむってやることもできるが。そなたも、触れまわるつもりではあるまい?」
「はい猊下。私もそのように――」
いったん言葉を切って、
「触れまわるつもりはございません。しかし同じ兆候から同じ推測をし、違う結論を出すものも出ようかと」
「……となれば、リーザ殿の醜聞は大変なものとなろう」
「はい、猊下。この際――」
その先を続けないが、メアッツァは、ルカの言いたいことをおおよそ理解した。
「彼の者たちがいる限り、リーザ殿は苦しむであろうな。うむ、よく知らせてくれた」
「恐縮でございます」
「珍しく王家より敬虔な信徒が出たと喜んでおったが、その敬虔さゆえに、若く、優しく、弱い。我々が守ってやろうぞ」
「御心のままに」
ルカは深く頭を下げたが、やはりその口の端には、抑えようのない笑いが浮かんでいた。
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