第二章 科学、哲学(2)
その後、手記や周辺の論文のようなものは片っ端からスキャンして持ち帰ることにし、探索を終えることとした。
エミリアに帰る数日、行きと同じだけの時間を過ごしたが、リーザとの親しい会話は、全くなかった。
リーザは熱心に手記を読んでいるらしかったが、ディーンは全くそんなことをする気になれなかった。
もし読めば、エレナがさらに人間からかけ離れた化け物であることを知ってしまうことになる気がして。
自分が幸せに過ごしたあの数日が完全に否定されるような気がして。
結局、あの夜別れたきり、エレナの行方は知れない。
ディーンが密かに考えていた――エレナの正体に指をかければそれをジーニーで支援しているルカへのアクションがあるかもしれない、という目論見は、何も結果を生まなかった。
通信が回復したルカは、相変わらず、あいまいな監視を受けているような感覚だけしかなく、エレナが動く気配はない、と断じた。
数日をかけて、お互いほとんど言葉を交わさぬまま、ディーンとリーザは、エミリアに帰還する。
エミリアに帰ってからもエレナからの気配は何も変わっていないというルカからの示唆を受け、ルカとの同盟関係は、そこで解消となった。
リーザは当然の措置として、あの夜以降、ディーンたちが仮の住まいとしていたホテルを監視していたが、エレナが帰った気配はなかった。
港湾に浮かんだエレナの宇宙船にも捜索の手は伸びたが、そこにも何も手がかりは無いと言う。最低限の身の回り品や食料とおそらくクレジットクーポンの収められた金庫など以外に目立ったものは何もなく、その船が示したのは、『エレナがまだエミリアのどこかにいる』という事実だけだった。
用心のためとリーザの別荘に匿われていたディーンだが、自ら捜索に加わることを申し出た。
当然リーザは反対したが、彼は、自分が単独行動をとることでエレナから接触して来るかもしれない、と論じて、彼女を説得した。実のところ、エレナを釣り出すには、ディーンは格好の餌であり、倫理観さえ邪魔しなければそれが最も有効な手なのだ。
一方、ディーンはそれに一つ条件を加えた。ありとあらゆる監視行為から開放されること。もしエレナが本当にあの手記の通り『全知の魔物』だとすれば、監視の存在は即座に見破られる。ディーンが不用心に一人きりになっている必要があるのだと説いた。
もちろん、ディーンにはもう一つ下心があった。――もしエレナに接触できたら、誰にも知らせぬつもりで、彼女の目的を知ることだ。
その日は朝から雨だった。
初めてエレナを車に乗せた港湾の事務所近くの駐車場。ふと思い立ち、ディーンはそこに車を走らせた。
車を停め、そしてふ頭側の隅を見ると、思いもよらない影がある。
そこには、全身をしっとりと濡らせた彼女がいた。
エレナ・ユーニス・エンダー。
あの恐るべき技巧で敵をなぎ倒した彼女からは想像もつかないほど、その背中は小さく、濡れそぼったシャツはそれをさらに小さく見せていた。
「――エレナ」
雨に濡れるのも構わず近づいたディーンの呼びかけに振り向いた彼女の表情は、以前と同じ。何も考えていなさそうで、何かを憂えていそうで。
「ずっとここに来ていたのか」
ディーンがここに来るかもしれないと思って。
リーザたちにも知られていない、二人だけの知るこの場所で。
「いいえ、今日あなたが来ると知ってた」
そのエレナの小さな返事に、ディーンはぎくりとするが、
「いいえ、嘘。毎日……ここに来ていた。でも、あなたが、さっきの私の冗談を冗談とは思えないように変化したということは、分かる」
それは、ディーンが、惑星マリアナで、魔人エレナの秘密を知ったこと。
「……とにかく、濡れない場所に行こう。僕の車がある。風邪をひく」
ディーンが誘うと、エレナは、そうね、と小さくつぶやいて立ち上がった。
車に乗り、タオルを渡すと、エレナは少し逡巡してから、それで濡れた髪を拭いた。
シートに備え付けのボディドライヤーの空気は瞬く間にエレナの濡れた服を乾かしていく。
エンジンを掛け、走り出す。
ディーンは、何も語らないエレナに、言いようのない苛立ちを覚える。
何もかも知っているはずなのに。
全てを知る魔人のくせに。
なぜ僕が知ったということを知りながら、何一つ語ろうとしないのか。
彼女は弁明しなければならない。
あれほどの暴力と恐怖を振りまくに足るほどの理由を。
つい運転が荒くなっている。
次々と遅い車を追い越し強引に割り込み、右左折を繰り返す。
「あぶないよ、ディーン」
エレナがつぶやくように言ったが、聞こえないふりをした。
もっとほかに言うことがあるだろう、と。
限界までアクセルを踏み込みたいという衝動があった。
自然、彼は行きつけのサーキット――オルタ・レーシング・ルナパルクに車を向けていた。
コースに入るや、雨で滑る路面も気にせずに全開で走った。
水しぶきが窓を叩きタイヤの悲鳴が耳をつんざく。
ちらりと見たエレナは、窓枠の把手を掴み、目をつむってじっと耐えている。
二周目、最初のコーナーでグリップが限界を超えスピンし、車は二度回転してからグラベルの中に止まった。
ハンドルに突っ伏し、荒い息を何度もつく。
静かなアイドリング音の中、雨がルーフを打つ音が高まり、息が整うまで何時間も経ったように感じた。
「……鉱石は」
ディーンが何を言おうかためらっていると、先にエレナが口を開いた。
鉱石。
あの、新種の鉱石。
こんな状況になっても、彼女は僕よりも鉱石を気にしているのか。
ディーンは、その心中の憤りを深めてしまう。
「リーザに渡した」
実のところ、その鉱石は、この車のトランクに大切にしまってある。リーザに渡すよう何度か促されたが、エレナとのことを片付けるまでは渡す気になれずにいたのだ。リーザとしてもそれ以上無理強いすることなく、その気になったら渡せばいい、と言った。
だから、鉱石をリーザに渡したというのは、嘘だった。
「……そう」
今度は明確に落胆の表情を作り、エレナは、ため息をついた。
やはり、エレナの目的の焦点は、あの鉱石なのだ。
エレナの目的とは、何だ。
あの鉱石を入手して、何かを――マリアナか、マリアナを支配するマカウかに、もたらすことなのだろうか。
「君の正体を知った」
試すように、ディーンは言葉を継いだ。
「……そのようね。だったらこれ以上、話すことは無い。これでお別れ」
エレナは、頬をぬぐったタオルを、右手でディーンに差し出した。
ディーンはそのタオルごと、エレナの右手を捕らえる。
「聞かせて欲しい。君の目的はなんなんだ。エンダー博士の手記を読んだ。彼は、君に何かを託して、旅立った。彼はいったい、君に何を残したんだ」
エレナは、しばらく、つかまれている右手をじっと見つめた。
そして、ようやく口を開く。
「博士は、こう言った。『人類を、頼む』と」
***
しん、と静まる車内、強くなった雨がフロントガラスを叩く音が響く。
ディーンは、エレナの言葉の意味を考える。
人類を頼む、とはなにごとだろうか。
そこから、あの鉱石に、この僕に、どうつながるのだろうか。
「私は、この私の、あらゆるものを見通す眼で、人類の進歩を守るよう、博士から言い付かった」
再び、ぽつり、とエレナがしゃべる。
「どういう意味だ」
「そのままの意味。人間の歴史は、合理と不合理の繰り返し。時に集団意思は、とてつもなく不合理な判断をする。せっかく見つけた進歩の芽を自ら摘み取る愚を犯す。そうしたものを見つけて、保護すること」
「……それが、僕の見つけた鉱石、そういうことか」
「……たぶん、そう、としか言えない」
「たぶん? でも君は――」
「博士の手記を読んだのなら、私が全知の存在だと考えていると思う。けれど、その能力は薄れているの。確かに最初のエレナが持っていた神経の幾何学的相補関係は、エレナとエクスニューロの同化を通して、エクスニューロ内に正確に再現された――けれども新しいエレナの神経が干渉することでそのベクトルポテンシャルにひずみが生じ相補係数のシグマ条件は外部干渉強度カッパーの――」
「ごめん、分かった。いや、分からないということが分かった」
ディーンは思わず防衛反応的な苦笑を漏らす。
「ともかく、そうかもしれないものを片っ端から見つけては、それを守るために行動してる――そういうわけか」
「……ええ、そう」
「いろいろと話は符合する」
符合はするのだが、それでも。
「だが、結局君がやってることは、銃の引き金を引いて誰かを傷つけることだ。君がもし人間に仕えるロボットなのだとしたら、君は人を傷つけてはならないはずだ」
「でもそれは大局的に――!」
反射的に言い返しかけたエレナは、すぐに口を閉じ、首を横に振った。
「信じられないのなら、いい。ただ私は、そうあるだけの存在だから」
エレナは言いながら、ドアノブを引く。
外気の濡れたにおいが車内に充満する。
「――おたがいに、もうかかわるべきじゃないのかもしれないな」
ディーンは、今度はエレナを止めようとせず、背中に声をかけた。
「そうね」
つぶやくように返し、エレナは再び雨に濡れながら、出ていく。
その後ろ姿をちらりとも見ず、ディーンはアクセルを踏み込んだ。
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