第一章 二つ名を持つ少女(2)
華美な舞踏会はそれから一時間は続いただろうか。
あれほどに踊り続けてよく疲れないものだ、とディーンは思っていたが、ようやく音楽が落ち着きリーザが豪奢なホスト席に腰を下ろしたとき、侍女がその額にハンカチを当てているのを見て、やはり最高位の貴族でも踊り続けるのは疲れるものなのだな、などと当たり前のことを考えていた。
ややあって、リーザはゆるりと立ち上がると、暗いホールの隅の通路を通って貴族席へと歩いてくる。
これからおそらく、それぞれの貴族の席を訪ねて、いろいろとおべっかをもらう作業があるのだろう。
そう思っていると、なんということか。彼女は、まっすぐにディーンのテーブルに向かってきたではないか。そして、軽く微笑んで会釈すると、ドレスのすそを折りたたんで遠慮なしにディーンの左隣に座った。
「ああ、疲れたわ。ディーン、悪くなかったわよ」
彼女はそう言って、もう一度ディーンに向かって微笑む。そのあまりの可憐さに、ディーンはたじろぐ。
「あ、ありがとう殿下……リーザ」
おずおずと返すと、彼女もうなずく。
「あなたは平民だから誰の僻みも買わないってわけでね、誰にも文句を言われず注目も浴びずにゆっくり休むのにはこの席が一番なのよ」
おそらくそうなのだろうな、と思っていたことを、リーザは口にする。つまり、ディーンが王女殿下の玩具としか思われていないだろう、ということだ。
「じゃあ、ゆっくり休んでいって。僕のことは気にせず」
「そうね。……そのついでに、いくつか話しておくことがあるわ」
その言葉を聞いて、ディーンは、二人の間の共通の話題は一つしかないと思い当たる。
「――エレナの」
たった一言、ディーンは確認するようにつぶやく。それだけで彼の意味するところはリーザに伝わり、彼女は深くうなずく。
「ええ、そう。私も行くわ。危険があることは分かってる。それでも、自分の目で見る必要があると思った。――あなたも、そうなんでしょう?」
そう言われると、ディーンもうなずくしかない。
「僕もどこか浮ついた気持ちだった。あの返り血を浴びたエレナを見て、まだあれは、エレナとは違う何かだと思ってる。――ふふ、論文やレポートは嘘をつくから。僕は自分の手で、確かめる」
「……エミリア人らしくないわ。それがあなたの正体?」
「エレナにだいぶ影響を受けた。でも、だからこそ、現実と向き合うっていう選択肢を持てた。その点だけは、今でも、エレナに感謝してる」
「……分かった。私は為政者として。あなたは科学者として。――予言するわ。あなた、きっと、いつかエミリアを出ていくわ。そんな気がする」
ディーンは、その言葉に目を見開いて驚きをあらわにする。
「いや、僕だってエミリアの生活には満足してる」
「ええ。でも、別の選択肢を知ってしまったから。もちろんね、平穏で安全で誰もがお互いを信頼しあっていて心を乱すもののない場所で、与えられた役割をゆったりとこなすことで、趣味や家族や友人たちとの時間を楽しむ人生を送ってほしいと思うわ。誰もがそれができることが、この国の誇りだもの。でも、そうでない人が出ていく自由もあっていいんじゃないかしら」
「そんな人がいるなんて信じられない」
「あなたが鏡をのぞいた時、そんな人がいるわよ、きっと」
まさか僕が?
ディーンはそう思ったが、それでも、リーザが間違って紛れ込ませてしまったほかの国の地質学会の会誌に載っていた数々の論文のことが、ふと頭をよぎる。
あれを本当に自分の手でやりたいと思うことが来るんだろうか?
結局、科学なんてものはもうとっくに飽和していて、誰かが必死でペダルをこぐ必要なんてないというのに。
まだその感覚は分かりそうにないし、ずっと分からない気もしている。
リーザの『予言』は、多分外れるだろうな。
「……まあいいわ、私も、予言は外れてほしいけれど、どうなるかなんてわからない。さて、もう一つのお話をしておきましょう。今日あなたをここに呼んだ理由」
と言われて、確かに、いくら何でも場違いな自分がここに呼ばれた理由は、確かにディーンは知りたいことであった。
高位貴族の我がまま娘が気に入った玩具をダンスホールに引っ張り出して顔を赤くしたり青くしたりしているのを見て喜ぶ――どうも、リーザがそんな悪趣味な遊び方をするようには思えなかったから。
「嫌がって逃げ出しそうだから言わなかったけれど、あなたの顔を他の貴族たちに覚えさせるため」
「ごめん、今からでも逃げたい」
ディーンは即座に応じ、それを見てリーザはくすくすと笑う。
「みんな、平民になんて興味はない、って顔をしてるでしょう? そのくせ、横目で見ながらあなたの特徴を覚えようと必死よ? もう笑いこらえるのが大変」
「ほ、本当に?」
「もちろんよ。五番目にダンスに呼ばれて、ダンスが終わったとたんに王女殿下が真っ先に向かった先よ?」
「わ、分かっててやったのか」
「もちろん。だけどこれで、貴族連中のあなたへの興味は、間違いなく好意的なものに変わるわ」
「どうして。むしろ、ライバルと思われるんじゃないのか」
リーザの婚姻レースという事情を知らないでもないディーンは、そんなことを考える。ディーンが邪魔になれば、害そうという者さえ出かねない。
「もし私とあなたの関係が連中の想像通りだとしたら、あなたを潰すよりあなたを養子にした方が早いからよ。あなたを潰そうとすれば私の勘気を買う。あなたを養子にすれば労せずして王女を入り嫁に取れる。子供でも分かる計算よ」
貴族の価値観が、ようやく分かってきた気がする。
結局は、どれだけ権威に近い場所に、『家』を置けるか、なのだろう。
そう考えると、仮にリーザが嫁に入って生んだ子が誰の子なのかなんてことは知ったことではないのかもしれない。結局は実子が生んだ子をリーザとディーンの養子にして後を継がせればよいのだから。
個人というものが徹底的に薄まった世界。リーザはそんな世界で、せめて自分の人生を掴もうと努力しているのだ。
「そういうのを無視してちょっかいをかけてくる馬鹿もいるのだけれどね、周りの貴族たちがあなたの重要性を知っていることが、そういう馬鹿に対するけん制になるのよ。――たとえば、ほら、今そこに来てるような奴よ」
リーザに軽く示されて目を向け、そこに立つ人物を見て、ディーンは思わず後ずさった。
そこには、つい先日、ディーンを罠にはめあるいは殺そうとしていた、ルカ・アリオスティの姿があったから。
「あんな奴とはひどいな、リーザ。私は貴族同士の政治闘争なんてものは興味がないんだ。君だけだよ、興味があるのは」
ルカは、肩をすくめながら、勧められもしないのに、リーザの正面に座る。
ディーンは体がすくんで声さえ出せない。
「私は、おそらくこの会場にいる貴族の中で唯一、リーザとリンゼイ君がそんな関係でないことを知っている。これで私は、誰よりもリーザと近い位置を得たのさ。リーザ、君の計らいかい?」
「まさか。第七王女宮で最も嫌われているのがあなただということを知らない貴族はいないわ」
それを聞いて、ルカは低く笑っている。
つい先日、エレナの武力に全身から体液を垂れ流して命乞いをしていた人物とは思えない。
そんな疑問を見抜いたのか、
「……不思議そうな顔をしているな。だが、貴族には貴族の論理がある。平民には分からぬ。私が心から愛しているのは、リーザなのだ」
その隣で、リーザがわざとらしく顔をしかめて見せる。
「……協力しよう。私はさすがに私の家から動けないが、必要であれば、私のジーニーの力を使うがよい。エレナは恐ろしいものだが、同時に、私のジーニーに及ばないことも分かった。目の前でナイフを握っているのでなければ、何も怖くない」
「どうして……閣下が」
何とかディーンは声を振り絞る。
「エレナという悪魔がリーザを苦しめている。だからそれを除く。何が不思議だ?」
その迷いない言葉に、ディーンは一途な恋を見出してしまうのだが、しかし、リーザの表情を見るに、何かその理解は違うのだろう。まさに、貴族の論理という、ディーンには分からないもの。貴族は平民とは違う辞書を使っているのだ。
「リーザ……殿下、その」
どうしようか、という問いを向ける。
「あれだけの裏切りをして、まだ頼られる身分だとでも?」
「裏切り? まさか。この平民の扱いは君も納得づくだった話だ」
その時気まずい表情を浮かべたリーザを見て、事前にルカがディーンに何をしようとしていたかを、リーザは知っていたのだろうか、とディーンは考えていると、
「――ということをわざとディーンに聞かせて、またディーンを揺さぶるのね。私があなたのたくらみをどこまで知っていてどこから想定外だったのか、私はぜーんぶ、ディーンに話して聞かせましたわ。そもそもあの庭園に平民を踏み込ませることがあり得ない異常事態だということも含めて、ね」
「ふむ、そうか。先手を打たれた。さすがリーザだ」
と言いながらも、全く悔しそうな表情を見せない。
そもそも精神構造が自分と違う人種なのだろうな、とディーンは思う。
でなければ、あれだけの恐怖を味わった後で、こんなところに姿を見せられまい。
「リンゼイ君。それでもいきなり君を拷問にかけなかったことは感謝してもらいたい。私はそれをする権利があった。分かるね?」
「閣下が言うのなら、そうなのでしょう」
しぶしぶ認める。それと引き換えに、同行を認めろと言うのだろう。
「でも、ディーンの目があったからあの悪魔があなたを殺さなかったことも事実よ」
リーザが言うと、ルカはわざとらしく鼻を鳴らした。
「差し引きゼロと言いたいのだな? よかろう。さらに付け加えるなら、今、リンゼイ君に何かしようとすればたちどころに私の命が無くなることも事実だ。今も、ここを見ている。殺気――と言うと子供向けの芝居のように思うだろうが、私は、ジーニーの力でそういった直感的なものがある程度分かるのだよ。あの悪魔は、わざと私に気づかれるよう、殺気を私に向けて飛ばしているのだ。……私が、悪魔の正体を暴くのに協力したいと思う理由は、分かってもらえたかね?」
「エレナが? 閣下、エレナはどこから見てるんです」
「分からんよ。変装して給仕にまぎれているかもしれないし十光年彼方から監視カメラの映像を見ているだけかもしれん。『見られている』という事実だけを私に伝えてくるのだ。これは、ジーニーを使っているものでないと分からんよ」
一瞬、エレナの所在が分かるかもしれないと思ったディーンは、その答えに落胆するが、同時に、別の考えが頭をもたげる。
「閣下、では、閣下が参加することは、閣下の身を危険にさらすことになります」
「そうはならぬ。そう確信している。そして、少なくとも私がそう確信している限りは、君は私の管理下にあることが最も安全なのだ」
「――つまり、僕から見れば、エレナの秘密を守ろうとするものが閣下やリーザに、危害を加えられる位置に迫っているかどうかが分かる、ということですね?」
「む、まあ、そうとも言うな。くっく、私を探知機替わりにしようというか。大胆な平民だ。面白い」
「言いたいことはおおむね合っていますが、僕としては、閣下を危険にさらしたとき、閣下のご親族から受ける報復のほうが恐ろしいのです」
「そうか、そうであれば、まあ、その心配だけはしておけ。私のジーニーがエレナの動きをつかんだとて、それを突き破ってくる恐るべき武力をエレナは持っている」
その言葉の真偽は分からないが、それでも、ディーンは、協力関係の形が見えてきた。
それは、ルカのリーザに対する執着を見ていて、ディーンがすべきことを見出したものだ。
「リーザ殿下。僕は、協力してもらってもよいと思います」
ルカが持っている、エレナを感じる超感覚は、何かに使えそうな気がしている。
最後の最後、エレナの正体に指をかけたとき、エレナがそれを阻止しようとするのではないか――そのとき、それを察知するルカの、ジーニーの感覚は、重要であると思う。
「ディーン、そんなの放っておきなさい。借りを作るだけよ」
それに首を振り、ディーンはルカに向き合った。
「僕が、エレナが閣下を害そうとするのを止める抑止力になる。閣下、これで貸し借り無しにできませんか?」
「……ふむ、よかろう。貴様の利用価値はせいぜいその程度だが、魅力的な提案だ。あの悪魔に銃を突きつけられる心配がないのであればな」
「ありがとうございます。ですが、エレナの正体を掴むまで。それ以降は、どうなるかわかりません。その時は僕でさえエレナの標的になっているかもしれませんから」
「結構だ。その時にまだ悪魔が敵で居続けるなら、貴様も悪魔もまとめて滅ぼしてやる」
そして、いつの間にか給仕が準備していたグラスの中の薄茶の液体を一息で飲み干し、邪魔したな、とルカは去っていった。
「ディーン、あなた……わざとね?」
リーザは、憮然とした表情を隠しもせずに言う。
「結局彼は強引に介入してくる……面倒だ……と思った、私の表情を読んだわね」
「さあ、どうだろう、なんというか……あの男の執念というか、常軌を逸した思考、あれが怖いと思ったのは事実だ。だけどまあ、なんというか」
ディーンは肩をすくめ、
「その執念が君に向かない程度のことはできる」
自然と、大貴族を『あの男』などと呼んでしまっていることに驚きながら、それはリーザが借りを作らないためだったと白状する。
「少し、恰好をつけたかった」
そんな風に自嘲的に笑うと、リーザは表情を崩した。
「……分かった。すこしときめいちゃったわ。……とでも言っておけばいいかしら?」
ディーンはその言葉に、何も答えないという権利を行使して、再び肩をすくめて見せるだけだった。
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