第四章 疑念、疑惑(2)
目を覚ますと、すでに昼前だった。
そして、ベッドサイドにエレナが座っていることに気がついた。
いったいどうやって入ったのだろう?
そう思う気持ちはあったが、考えてみれば、荷物の持ち運びのときに、面倒になってオートロックをオフにしていたような記憶がある。
彼の目覚めに気づいたエレナは、軽く微笑む。
「おはよう。よく眠ってたから」
「あ、ああ、おはよう」
寝起きでそれ以上の言葉は思いつかなかった。
「朝起こそうと思ったんだけど」
「……なにか?」
「宇宙船に置きっぱなしのいくつかの荷物を取りに行こうと思って」
そうか、本格的に腰を落ち着けるつもりだな、この家出娘は。
そんなことを心の中でつぶやいてから、それにしては――つまり家出娘にしては――エレナはあまりに危機への対応に慣れているものだ、と考える。あるいは、金持ちの娘となれば、危険とはいつも隣り合わせの人生だったのかもしれない、と考えてもよいのだけれど。
「宇宙船は――まだ海の上か、そう言えば。どこにあるのか役所に問い合わせないと」
「大丈夫、もう行ってきた」
そう言いながら、エレナは横に下ろしたリュックを持ち上げて見せる。
「どうやって」
「私みたいな生活をしてればなんとでもなるもの」
にやっと悪そうな笑顔を浮かべてみせるエレナ。
こいつめ、袖の下か何かを使ったな、とディーンは苦笑する。
「クレジットには困って無さそうだしな。――いや、今の僕も、か。驚いたよ、あの振込み額には」
そう、保険組合からの支払いは、ただ借り物のマンションを追い出されたものに与えるにしてはあまりに多すぎた。
「あの人からのせめてものお詫びってことかな」
「そうかもな。殿下は何とかするといいつつ――結局、あんな襲撃を許してしまったわけだから」
そのディーンの言葉にエレナもうなずき、小さく鼻息を漏らす。
「そして、多分これからも。きっと、あの人の手に負えない事態になってるんだと思う」
「……そうなのか?」
エレナにそれを訊くことはあまりに的外れだとは分かっていたが、それでも、彼女の研ぎ澄まされた知性がなんと言っているのかを、ディーンは知りたくなった。
「――伝言ゲーム。あなたの見つけた新種の鉱石は、ただ見たことの無い鉱石というだけじゃなく、何かとてつもないものだというようなうわさの尾びれがついて、広まってるんだと思う。それは、発見の直後にあの人自身があなたを訪問したから。そういった情報に関しては、多分この国の貴族たちの視力はとても良さそうだから……」
なるほど、理屈だ、とディーンは思う。
「あの人が訪問したという情報だけが、あの鉱石の価値を何百倍にも釣り上げている」
とすれば、もしかすると、盗難未遂事件や先日の襲撃事件の犯人は、それぞれまったく別ということもあるかもしれない。ただ、リーザにはいくつかの心当たりがあるだけで。
「……やれやれ。君はたいしたものだ。そろそろ、一体君がどこの何者なのかくらい、教えてくれないかな」
ディーンは苦笑いを漏らしながら言う。昨晩の疑念の解明に、何かの足しにならないだろうか、と思いながら。
「ごめんなさい。まだ、言えない」
しかし、いつものように、答えをはぐらかされる。
このかたくなな態度に、ディーンは疑念と、もう一つ別の感情を刺激されてしまう。
「じゃあ、いつかは?」
「――分からない」
「出身地くらい」
「……マリアナ」
どうせディーンの脳内地図にはその名前は無かろう、とエレナは答える。
「……知らない国だな」
案の定、ディーンはその名に聞き覚えがない。
「……たとえばの話だ。僕がその――君を愛してしまうような――生涯の伴侶としたいと思うような――そんなことがあった時、そして君もそんな人生も悪くないと思ったとき――それでも正体を明かさないつもりかい?」
その言葉に、エレナは、顔を曇らせる。
長い人生で、彼女にそんな感情を抱かせるかもしれない相手は、確かにいた。少なくともゼロではない。
けれど、彼女に課せられたある種の枷は、その気持ちを否定させた。自ら深く埋葬せねばならなかった。
――あの日。
彼女は、目の前でそれを奪われた、彼女と同じ種類の人間を、見たから。
それを看過した。見過ごした。ともすれば、それを手助けしてしまったから。
だから、それを手にしてはいけない。
万が一。
もしそこから解放されるのなら、その相手は、果たして目の前のこのディーンという男だろうか?
――いいや、違う。
たぶん、違う。
なぜなら、私は解放されない。
永遠に解放されない。
解放されてはならない。
あの人は永遠に解放されないから。
そして、私には、役目がある。
私だけが逃げ出すわけにはいかない。
長い沈黙に耐えかねて、ディーンは、エレナの右手に自分の左手を添える。
「悪かった。意地悪な質問だったな。――たぶん君は、君の親に課せられた人生を持っていて――そこから逃げ出したくて――」
違う。
逃げ出したいんじゃない。
全うしたいの。
とっさに心中で否定するが、一方で、親――そう、あの厳格で寂しげな父から逃げる、という選択肢の存在に、驚く。
「――だから、僕は無責任なことを言うべきじゃないし、ましてや、君の家のことをつべこべ言うべきじゃない。だが、僕が君の知性に心底惚れこんでしまったことは事実なんだ。ある日君が消えて――二度と会えない、そんなことになりやしないかと心配で」
「否定は……しない。私はある日、消えるかもしれない」
「だったら、せめてどうすれば君にもう一度会えるのかを知っておきたい」
「あなたに会うべきだと思ったら私が会いに来る……それじゃ、だめ?」
「――嫌だ」
ディーンは、なぜこんなことで駄々をこねることになってしまったのか、分からない。しかし、エレナと言う存在、彼女の奥深くに横たわる偉大なる知性は、新種鉱石よりもはるかに貴重に思えるのだ。それは、エレナに対する深い疑念をはるかに超える、深い感情だった。
僕がこんなに知性を欲していたなんて。
ただ、博士号の肩書を振りかざして安定したサラリーを得ていれば十分だと思っていた僕が。
思いながら、自然と、左手に力を込める。それは、エレナの右手を包み込み、握りしめる。
「分かった。約束する。いつか去る時は――必ず、私の正体を明かしてから」
言うと、ディーンの表情がぱっと明るく変化して、彼がうなずくのが見えた。
必ず破ると決まっている、『この約束』をしたのは、何度目だっただろう。
相手が女だったこともあるし、男だったことはもう少しだけ多かった。
けれど、約束を守ったことは無かった。
ああ。私は、いつかはだまって消えなければならないのに。
知的に成長を続けながらも、最初の型からほとんど変わっていない彼女の心は、嘆きのため息を漏らした。
***
いつの間にかエレナを大切に思う気持ちが、色々なものを超えていたことに、ディーンはショックを受けている。
まさか、エレナとの会話で、あんな言葉が自分から出てくるなんて思ってもみなかった。
少し散歩をしてくる、と、エレナを置いて家を出てきた。
海に面した町は、いつもどこか、海の香りがする。
その香りが地球のものとはまるで違うことなど、ディーンは知らない。
だが、それを知らないことを、ディーンは知っている。
自分はこの狭い惑星で生まれて、優しく穏やかな人たちに囲まれ、何不自由なく、与えられた役割を淡々とこなしてきた。
それが当たり前の世界で、その世界は、ディーンにとっては十分に広く魅力的だった。
そこに、エレナという異物が紛れ込んだ。紛れ込んでしまったのだ。
その瞬間、彼の知る世界は、宇宙というもっとずっと広い世界の、ほんの小さな構成部分でないことを、実感として知った。
自分が全く知らない世界が、あふれるほどに広がっていることを知った。
だから、きっと、地球の海の香りは違うのだろう、と思う。
地球の海のミネラル分はエミリアの海の数百倍におよび、岸壁に打ち寄せる波が砕け散ったときに空中に散るミクロン単位の飛沫は、多分想像もしないような匂いとして、港町に充満しているはずだ。
それがどう違うのかを、ディーンは知らなかった。
しかし、エレナに会って、それが違うことを知らない自分に気づいたのだ。
かけがえがない、そんな風に思っている。
そして、彼女の正体を知ろうとしたことも、いつかエレナが、ディーンを置いて消えてしまうのではないかと思ったからだった。
そのことに、自分の言葉で、ようやく気が付いた。
――愛とでも恋とでも呼べばいい。外から見る誰かにはきっとそうとしか見えまい。
だが、そうじゃない。
世界を拡げる、手がかりであり窓口なのだ、エレナは。
それを自分が独占するなど、あまりにおこがましいとも思う。
”ごめんなさい。まだ、言えない”
彼女が、そう言ったのは、きっと、彼女には、ディーンの知らない本性があるからで。
”私はある日、消えるかもしれない”
それは、彼女がなすべきことが、ディーンのそば以外にもあるかもしれないということで。
――であれば、ディーンは、決して、鉱石を手放してはならないのだ。
それこそが、彼女がディーンのそばにいる理由で。
もし彼女が、敵国の送り込んだ工作員だったとしても、それは政治の問題だ。知ったことじゃない。
彼女が、ディーンの好奇心の翼を解き放ったのは事実で、それは、ディーンにとって、かけがえのないものなのだ。
だから、彼女がディーンのそばにいる理由――それが何であろうとも――それを台無しにしようとしているのが誰なのかを、知らなければならない。
「……知らなければならない? 僕が?」
遠くに海が見える小道を歩きながら、ディーンは思わず独りごちる。
「知ってどうすると、言うんだろう」
口に出してみても、その先のビジョンは見えてこない。
けれど、あの鉱石のために、空き巣を働き、マンションを爆破し、大勢の暴力集団を動かして追い詰めようとした奴らがいることは確かなのだ。
もし負けてしまえば――鉱石を奪われてしまえば、きっと、エレナはそれを取り戻しに行くだろう。
ディーンへの興味を失って。
それだけは、嫌だ。
「知って――戦うのか、僕が?」
余りに度が外れた思いを、口に出してみる。
エレナなら、きっと何か、戦うすべを持っているだろう。
けれど、たかが公務員の僕が、戦う?
自嘲的な笑いが漏れてしまう。
「いいや、どうするかは、それから考えよう。そうだ、リーザだって、今のところは味方なんだ。僕がそれを、敵を知ってしまったら、リーザは、そうだな、少し、怒るかもしれない。でも、同盟くらいは結べるかもしれない」
だから、やっぱりエレナにきちんと話をして、敵の正体を掴んでおこう。
それは、リーザを仲間に引き込むためになるかもしれないし、あるいはリーザとの決裂に結びつくかもしれない。
だが、最低限、僕とエレナにとっての、問題の特定にはなる。
共通の問題さえできれば、僕とエレナで立ち向かえる。
それが共通であれば、僕とエレナは――
そこまで思考をめぐらせてから、また思いもよらない方向に感情が流されそうになっているのに気づき、頭を振って、快晴の空を見上げた。
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