その五
何かが近付いてくる。
それは、〔あの世の世情〕に疎い自分でも判る。
闇が濃くなった逢魔が刻。結界の中には、篝火が焚かれている。
月京が押し黙ったまま、山の一点に目を注いでいた。その先には闇の黒しか見えない。だが、この男には、その中に潜む者が見えるのだろう。
吉蔵は、その傍らで息を呑む事しか出来ない。
「来るぞ」
月京がそう言った刹那。甲高い女の悲鳴が聞こえた。
「おりく」
思わず飛び出そうとした吉蔵を押し止めたのは、藤九郎だった。
「あれは、おりくの移し身だ」
「しかし」
「心配無用。今頃屋敷で夕餉でも食べておろう」
そう言った月京の視線の先に、何かが蠢いていた。
「山犬」
に、見えた。
尖った耳。光る眼。鋭い牙。浮かび上がってきた貌は、まさにそれだ。
「違う」
吉蔵は瞬きを繰り返し、首を振った。
山犬ではない。闇から現れたそれは、二本の足で立っているのだ。
まるで、人のように立っている。全身は毛で覆われ、手足の爪は鋭い。山犬であるが、人でもある。
(これが妖鬼というものか)
吉蔵は恐慌した。歯の根が合わなくなり、肌が粟立っている自分に気付いた。腰を抜かすまいとするだけで必死である。
「出たな」
月京の顔が嗤っていた。それは今までに見せていた風来坊の笑みではない。凶悪で残酷、そして冷徹なものだ。
「我を謀ったのはお前か」
山犬が言った。腹に響く声色だが、はっきりとした人語である。
「そうだ、犬童丸」
「我を知っているのか」
「ああ。私は陰陽師だからな」
「なるほど、お前は陰陽師か。あの娘、揚野村の女の臭いがした。だから犯し喰らおうとしたが、首に噛みついた途端、紙となった。合点がいった」
「お前は私の術に騙されたわけよ」
「何故、斯様な真似をする」
「お前は人を喰らった。人を喰らう妖鬼は決して許さぬ」
「我が人を喰らうには理由があるのだが、おぬしがそのつもりなら受けて立とう。尋常に勝負してやるから、その結界から出て参れ」
「今度は、お前が私を誘い出すというのか」
「我では結界に手を出せぬのでな」
「だが、私は此処を出てお前と戦う度胸は無い」
「では、勝負にならぬのう。では無理にでも出してやろうぞ」
犬童丸が、一つ遠吠えをした。すると、その背後から無数の光る目が浮かび上がった。
「これはまずい」
月京が吉蔵に顔を向けた。苦笑いを浮かべている。
「あれは、山犬だ」
「え」
「妖鬼ではない、普通の」
「つまり結界に入って来ると?」
「……」
無言で頷かれた時、犬童丸は山犬に合図を出した。
八匹。猛然と駆けてきた。
鋭い牙。血走った目。もう駄目だ。堪えていた腰が抜けた時、太刀を抜き払った藤九郎が前に出ていた。
一匹の胴を両断し、二匹目の脳天に太刀を振り下ろす。鮮やかな手並みに仏の存在を感じたが、三匹目に足を噛まれると、引き倒され残った六匹の餌食になった。
悲鳴などはない。ただ肉を食み、骨を砕く嫌な音が、闇に響いた。
「人であったか」
犬童丸が笑いながら言うと、月京は鼻を鳴らした。
「所詮は畜生よ。目の前の肉を喰らい終わらぬ限りは、我らには目を向けん」
と、月京は五芒星を記した人形を一枚投げ放つと、何やら呪文のような言葉を呟いた。
「いでよ、太兵衛」




