それぞれの任務
「……だから、帰れないんだよねぇ」
リディア・クロイツはそう告げると、何事もなかったかのように机の上の魔導書へ手を伸ばした。
研究室の中央では、巨大な立体魔法陣が静かに回転を続けている。空中に投影された世界地図には、各地で観測された異常を示す灰色の光点が浮かび、その一つ一つが不規則な明滅を繰り返していた。
人間界、魔族領、獣人領、妖精郷。
それぞれ異なる文化と魔法体系を持つ地域で確認された、原因不明の現象。
そして、それらの背後に存在するかもしれない未知の勢力。
先ほどまで聞かされていた話の重大さに、イリス・アルヴェイはまだ頭の整理が追いついていなかった。
「……じゃあ、私は研究の続きするからぁ」
「待て待て待て」
立ち去ろうとしたリディアの肩を、セレスティア・ローレンが掴んだ。
「……なにぃ?」
「なにぃ、じゃねぇよ。マザーに連絡くらい入れとけ」
「えー……」
リディアは露骨に嫌そうな顔をした。
「……面倒くさいなぁ」
「お前が連絡無視してたから、俺らがわざわざ迎えに来たんだろうが!」
「……そうだっけぇ?」
「そうだよ!」
「……そっかぁ」
リディアは少し考え込むように首を傾げた。
そして、何かを思い出したように手を叩く。
「あー、そういえば通信来てたねぇ」
「何回もな!」
「……研究中だったから、後で返そうと思ってたんだよぉ」
「で、忘れたと」
「うん」
「堂々と言うな!」
イリスは思わず苦笑した。
リディアは九人のシスターの中でも、特に研究熱心な人物として知られている。
一度興味を持ったものには、周囲のことなど一切気にせず没頭する。
食事を忘れることも、睡眠を忘れることも珍しくない。
そして、今回のようにマザーからの連絡すら忘れてしまうこともある。
もっとも、忘れていたというより、意識的に後回しにしていた可能性の方が高そうだった。
「……分かったよぉ。連絡すればいいんでしょ?」
「最初からそうしろってんだ」
セレスは呆れながら右手を持ち上げた。
その掌に、赤みを帯びた魔力が集まり始める。
魔力が細い線となって伸び、空中に円を描く。続いて、その内側へ複数の魔法文字が刻まれ、外周には術式の安定を保つための補助陣が形成されていった。
以前、灰色の森でマザーへ連絡した際にも使用した通信魔法。
三重の術式を組み合わせた、高度な遠距離通信術だった。
イリスはその様子を見ながら、改めて感心する。
セレスは普段こそ何でも拳で解決しようとするが、魔法の扱いに関しても一流だった。
複雑な術式を短時間で構築し、膨大な魔力を無駄なく循環させる。
魔力の流れを正確に把握し、必要な場所へ必要な量だけ送り込む技術。
それは、シスターになってまだ三年のイリスにとって、到底真似できるものではなかった。
しかし。
「……あー、待ってぇ」
リディアが口を開いた。
「あ?」
「セレスはおっそいから、私がやるよぉ」
「……は?」
イリスは思わず声を漏らした。
セレスも、構築しかけた術式を止める。
「……お前なぁ」
「だって、遅いんだもん」
「これでも結構速ぇ方なんだけどな」
「うん。普通の魔術師と比べたらねぇ」
リディアは平然と答えた。
「でも、通信魔法一つに何秒もかけるのは面倒くさいでしょぉ?」
「……何秒も?」
イリスが目を丸くする。
「ちょ、ちょっと待ってください!」
「んー?」
「セレスが遅いんですか!?」
「うん」
リディアは即答した。
「おっそいよぉ」
「えええっ!?」
イリスはセレスを見た。
これまで何度も、その魔法技術を目の当たりにしてきた。
灰色の森では、三重の通信術式を瞬く間に構築していた。
怪物との戦闘では、筋肉、骨格、神経、魔力循環に至るまで、複雑な身体強化を正確に制御していた。
イリスにとって、セレスは魔法の達人そのものだった。
それなのに。
「……セレスが、遅い……?」
「……まあ」
セレスは苦笑しながら頭を掻いた。
「魔法の分野に関しちゃ、こいつには何も言い返せねぇわ」
「えっ!?」
「悔しいけどな」
「……悔しいんだぁ?」
「当たり前だろ!」
リディアはくすくすと笑った。
そして、右手を持ち上げる。
人差し指を、一本。
ただ、それだけだった。
詠唱はない。
魔法陣も現れない。
目に見える魔力の収束すら起こらなかった。
だが、イリスは確かに感じた。
ほんの一瞬。
周囲の魔力が、まるで最初から決められていた場所へ収まるかのように動いたことを。
それは流れというより、変化だった。
何もなかった空間に、完成した結果だけが突然現れたような感覚。
そして。
『……リディア?』
マザーの声が響いた。
「やっほー、マザー」
「はやっ!?」
イリスの叫びが研究室に響き渡った。
セレスが肩を竦める。
「……な?」
「な、じゃありませんよ! 今、何したんですか!?」
「通信魔法だよぉ」
「それは分かります!」
「じゃあ、何が分からないのぉ?」
「全部です!」
リディアは不思議そうに首を傾げた。
『……随分と賑やかですね』
穏やかな声が、三人の間に落ちる。
『セレス、イリス。それに、リディア』
「おう、マザー」
「こんにちは、マザー!」
「久しぶりー」
『……リディア』
「……んー?」
『ようやく、あなたの声が聞けましたね』
その瞬間。
リディアの表情が僅かに固まった。
「……えへへぇ」
『何度も連絡しましたよ?』
「……研究が忙しくてぇ」
『そうですか』
「……うん」
『それは大変でしたね』
「……そうなんだよぉ」
『ですが、連絡には応じてくださいね』
「……はぁい」
セレスは口元を押さえた。
イリスも、思わず笑いそうになる。
先ほどまで世界の未知について堂々と語っていた天才研究者が、今は叱られた子供のように肩を落としている。
「……マザー、怒ってる?」
リディアが小さく尋ねた。
『いいえ』
「……ほんとぉ?」
『ただ、後ほどお話はあります』
「……怒ってるじゃーん」
「はははっ!」
とうとうセレスが吹き出した。
「笑わないでよぉ」
「いや、お前も俺と同じ目に遭ってんじゃねぇか!」
「……セレスは自業自得でしょぉ」
「お前もだろ!」
『……二人とも』
「……はい」
「……はぁい」
二人の声が重なった。
イリスは必死に笑いを堪えていた。
◆
「……それでねぇ」
ひとしきりのやり取りを終えると、リディアは改めて研究内容を報告し始めた。
中央に浮かぶ立体地図がゆっくりと回転し、灰色の光点が一つずつ拡大されていく。
「帝国の周辺で確認された生命力の異常消失について、調査を続けてるんだぁ」
『はい。報告は受けています』
「でも、普通の生命吸収とは違う反応があるんだよねぇ。既知の術式と一致しないし、魔力の残留構造もおかしい」
リディアは指先を動かした。
一つの光点が拡大され、複雑な線で構成された魔力の解析図が浮かび上がる。
「まだ仮説の段階だけどぉ、これが自然発生した現象じゃない可能性もある」
『……なるほど』
「それに、イリスが遭遇した怪物の話も気になるんだよねぇ」
リディアの視線がイリスへ向けられる。
「特に、灰色になった森を元に戻したっていう祈り」
『……イリスの新しい祈りですね』
「うん。あれ、すっごく興味深いんだぁ」
その声には、隠しきれない好奇心が滲んでいた。
「だからさぁ、マザー」
『はい』
「……もう少し、ここで研究を続けたいんだけどぉ」
リディアは少しだけ首を傾げた。
「駄目かなぁ?」
通信の向こうで、短い沈黙が流れた。
マザーはすぐには答えなかった。
リディアの研究が重要であることは理解している。
しかし、各地で異常が確認されている以上、シスターたちの配置にも慎重な判断が必要だった。
『……分かりました』
やがて、マザーが答える。
『リディア。引き続き、魔導帝国での調査を許可します』
「……ほんとぉ?」
『はい』
「やったぁ」
リディアが小さく両手を上げた。
セレスが呆れたように笑う。
「お前、そんなに嬉しいのかよ」
「当たり前でしょぉ。やっと面白いものが見つかったんだからぁ」
「……面白い、ですか」
イリスが呟く。
リディアは笑った。
「未知のものを知るのって、楽しいんだよぉ」
その言葉は、どこか子供のように純粋だった。
ただし、その好奇心が向けられているのは、世界の均衡を脅かしかねない異常現象である。
イリスは少し複雑な気持ちになった。
『ただし、条件があります』
マザーの声が続く。
「……条件?」
『イリス。あなたは、しばらくリディアと行動を共にしてください』
「……えっ?」
突然名前を呼ばれ、イリスは目を丸くした。
『あなたが経験した灰色の森の異変と、新しい祈り。どちらも、今回の調査にとって重要な手掛かりになるかもしれません』
「……私が、リディアさんと?」
『はい』
イリスは思わずセレスを見た。
これまでの任務では、いつも彼女が隣にいた。
灰色の森でも、怪物との戦いでも、危険な場面では必ずセレスが支えてくれた。
そのセレスと離れ、別のシスターと行動する。
頭では理解できても、少しだけ不安が残る。
「……いいのぉ?」
リディアが嬉しそうに口を開いた。
「私としては大歓迎だよぉ。むしろ、イリスがいてくれた方が助かるしねぇ」
「……そ、そうですか?」
「うん。色々調べられるしぃ」
「……色々?」
イリスの背筋に、冷たいものが走った。
セレスが眉を寄せる。
「……おい、リディア」
「んー?」
「イリスに変なことすんなよ」
「しないよぉ」
「本当か?」
「……たぶん」
「おい!」
『リディア』
マザーの声が、静かに響いた。
『イリスの新しい祈りについては、まだ分かっていないことが多くあります。無理に再現させるようなことはしないでくださいね』
「……分かってるよぉ」
リディアは素直に頷いた。
「本人が望まないことを、無理にさせたりはしないからぁ」
『お願いします』
「はぁい」
イリスは少しだけ安堵した。
リディアは研究に夢中になると周囲が見えなくなる。
しかし、決して他人の苦痛を楽しむような人物ではない。
そのことは、イリスも知っていた。
『そして、セレス』
「あ?」
マザーに呼ばれ、セレスが顔を上げた。
『あなたには、別の任務をお願いします』
「……別の?」
『はい。北方王国ノルヴァーンへ向かってください』
「……ノルヴァーン?」
セレスの表情が変わった。
北方王国ノルヴァーン。
厳しい寒さと険しい山々に囲まれた、軍事国家。
鉄壁都市ヴァルハラを王都とするその国は、人間界の中でも特に過酷な自然環境に置かれている。
「……北方で何かあったのか?」
『はい。現地で調査を進めているイグニスと合流してください』
「……イグニスさん」
イリスが小さく呟いた。
《不動のシスター・イグニス》。
イグニス・ドラグニア。
九人のシスターの中で、最も長くその使命を果たし続けている存在。
在任期間、千二百六十八年。
竜人という種族に生まれ、長い年月を世界の均衡を守るために費やしてきた、最古参のシスターだった。
その身長は百九十一センチ。
頭部には竜の角を持ち、身体の一部には硬質な鱗が存在する。
そして、圧倒的な耐久力と防御能力を誇ることから、《不動》の二つ名を与えられていた。
「……あいつと合流ってことは、結構面倒なことになってんのか?」
セレスが尋ねる。
『現時点では、詳細を断定できません。ただ、イグニスから気になる報告が届いています』
「……なるほどな」
セレスは腕を組んだ。
先ほどまでの軽い雰囲気が消え、表情が引き締まる。
「分かった。俺が行く」
『お願いします』
「おう」
『イリス』
「はい!」
『リディアと協力して、調査を進めてください。ただし、決して無理はしないように』
「……はい!」
『リディアも、お願いしますね』
「任せてよぉ」
リディアが軽く手を振った。
『それでは、皆さん。どうか気をつけて』
通信が終了した。
それと同時に、リディアが立てていた指を下ろす。
先ほどまで何もなかった空間に繋がっていた通信が、何の余韻も残さず消失した。
「……終わっちゃいましたね」
イリスが呟く。
「……だな」
セレスは軽く伸びをした。
「さて、俺は北方行きか」
「……セレス」
「ん?」
イリスは少しだけ言葉に詰まった。
それを見たセレスが、にやりと笑う。
「何だよ。寂しいのか?」
「……そ、そんなことありません!」
「へぇ?」
「もう三年目ですから!」
「まだ三年だろ」
「もう三年です!」
セレスはからからと笑った。
「まあ、心配すんなって。すぐ戻ってくるさ」
その言葉に、イリスは小さく頷いた。
◆
帝立魔導研究院の正門前。
午後の陽光が、帝都グラン・ヴァルグの街並みを柔らかく照らしていた。
魔力によって動く乗り物が石畳の上を滑り、空中回廊を行き交う人々の姿が遠くに見える。
研究院の周囲では、淡い青色の結界が静かに揺らめいていた。
その門の前に、セレスとイリスは並んで立っていた。
リディアは研究室に残っている。
「……それじゃ、俺は行くわ」
セレスが荷物を肩に担いだ。
「……はい」
イリスは頷いた。
だが、いつものように元気な声は出なかった。
セレスはそんな彼女を見下ろし、少しだけ笑った。
「……何だよ、その顔」
「……どんな顔ですか?」
「置いてかれた子犬みてぇな顔」
「してません!」
「してるしてる」
「してませんってば!」
セレスは笑いながら、イリスの頭に手を置いた。
そして、くしゃくしゃと銀色の髪を撫でる。
「……大丈夫だって」
その声は、いつもより少しだけ優しかった。
「リディアは変人だけど、腕は確かだ。魔法のことなら、俺よりよっぽど詳しい」
「……はい」
「それに、お前も強くなっただろ」
イリスが顔を上げる。
「灰色の森じゃ、ちゃんと俺の役に立ってたしな」
「……セレス」
「だから、自信持てよ」
セレスはにやりと笑った。
「いつまでも俺の後ろに隠れてるわけにもいかねぇだろ?」
イリスは少しだけ俯いた。
そして、ゆっくりと頷く。
「……はい!」
今度は、しっかりとした声だった。
「私、頑張ります!」
「おう!」
セレスが笑う。
「でも、無茶はすんなよ」
「セレスもです!」
「俺は大丈夫だって」
「……本当ですか?」
「何だよ、その目」
イリスはじっとセレスを見つめた。
そして。
「……お酒、飲みすぎないでくださいね!」
「……最後がそれかよ!」
「だって心配なんです!」
「分かった分かった!」
「ちゃんとご飯も食べてください!」
「お前は俺の母親か!」
「マザーにも言われますよ!」
「それは困る!」
二人は笑い合った。
そして、セレスは背を向ける。
「……じゃあな、イリス」
「はい!」
「またな!」
「……また!」
セレスは片手を上げ、そのまま歩き出した。
赤みを帯びた金色の髪が、午後の風に揺れる。
背中に担いだ荷物が、小さく揺れた。
イリスは、セレスの背中が人混みに消えるまで見送っていた。
いつも隣にいた頼もしい先輩は、もういない。
けれど、不思議と心細さばかりではなかった。
灰色の森で学んだこと。セレスから教わったこと。そして、自分にしかできなかったこと。
そのすべてが、今のイリスを支えている。
「……よし!」
小さく拳を握り、イリスは研究院へと振り返った。
今度は、自分が頑張る番だ。




