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戒律のシスターリディア

「……何で俺だけ説教なんだよ」


聖王国セレスティアの北東部。緩やかな丘陵地帯を抜け、魔導帝国ヴァルグリムへと続く街道を歩きながら、セレスティア・ローレンは不満そうに呟いた。


頭上には雲一つない青空が広がり、街道の両脇では秋の訪れを告げる草花が風に揺れている。遠くには山々が連なり、その稜線の向こうに、目的地である魔導帝国の領土が広がっていた。


灰色の森での任務を終えてから、三日。


二人はシスターたちの本部へ帰還し、マザーへの正式な報告を済ませていた。


そして、ようやく与えられた短い休息を終えたところで、次なる任務のために再び旅へ出たのである。


もっとも、セレスにとっては、その休息があまり満足のいくものではなかったらしい。


「当然じゃないですか」


隣を歩くイリス・アルヴェイが、呆れたように答える。


「怪物の組織を残しておいてくださいって、あれほど言ったじゃないですか」


「いや、だから残すつもりだったんだって」


「結果的に何も残ってないじゃないですか!」


「……まあ、そうだけどよ」


「マザーだって困ってましたよ?」


「分かってるよ!」


セレスは頭を掻いた。


本部へ帰還した後、マザーから受けた説教は実に長かった。


怪物の正体が不明である以上、組織の一部でも確保できていれば、今後の調査に役立った可能性がある。それを一撃で跡形もなく消し飛ばしてしまったのだから、注意を受けるのも当然だった。


ただし、マザーは怪物を討伐した判断そのものを責めたわけではない。


あのまま放置すれば、森の生命がさらに奪われていたことは明らかだったからだ。


問題は、討伐の方法である。


「……次からは気をつけるって」


「本当ですか?」


「おう」


「絶対ですよ?」


「おう」


「……次も全部殴って消し飛ばしたりしませんよね?」


「状況による」


「反省してないじゃないですか!」


イリスの声が街道に響き渡った。


セレスはからからと笑いながら、肩に担いだ荷物を持ち直す。


その荷物から、かちゃりと小さな音がした。


イリスの耳がぴくりと動く。


「……セレス」


「あ?」


「その荷物、何が入ってるんですか?」


「旅の必需品だ」


「……見せてください」


「何でだよ」


「いいから!」


イリスが荷物を開くと、中から現れたのは三本の酒瓶だった。


「…………」


「…………」


二人の間に、短い沈黙が流れる。


「……何ですか、これ」


「酒」


「それは見れば分かります!」


「じゃあ聞くなよ」


「何で三本も持ってきてるんですか!」


「途中で足りなくなったら困るだろ?」


「困りません!」


「俺が困る」


「我慢してください!」


セレスは心底不思議そうな顔をした。


「お前、旅の楽しみってもんを知らねぇなぁ」


「セレスの旅の楽しみ、全部お酒じゃないですか!」


「肉もあるぞ」


「威張らないでください!」


そんな騒がしいやり取りを繰り返しながら、二人は街道を進んでいく。


イリスはふと、自分の右手へ視線を落とした。


灰色の森。


生命を失った大地。


そして、あの時、自然と口から零れた新しい祈り。


『――我が祈りを、命へ!』


あの言葉を思い出すたび、胸の奥に不思議な感覚が蘇る。


自分でも、何が起きたのか分からなかった。


ただ、もう一度花が咲いてほしいと願った。


それだけで、失われたはずの生命が戻ってきたのだ。


試してみたい。


そんな気持ちがないわけではない。


けれど、マザーからは無理に再現しようとしないよう忠告されている。


何より、今のイリスには、あの祈りがどのような力なのか説明することすらできなかった。


「……どうした?」


セレスが横目で見る。


「いえ、何でもありません」


「祈りのことか?」


「……分かるんですか?」


「そりゃな」


セレスは前を向いたまま答えた。


「気になるのは分かるけど、焦んなよ。分かんねぇもんを無理に使おうとすると、ろくなことにならねぇ」


「……はい」


「それに」


セレスはにやりと笑った。


「これから会う奴は、そういうの大好きだからな」


「……リディアさんですか?」


「ああ。お前の話聞いたら、目の色変えるぞ」


「そんなにですか?」


「間違いねぇ」


その言葉の意味を、イリスはまだ知らなかった。


◆


魔導帝国ヴァルグリム。


それは、人間界に存在する国家の中でも、魔法技術において突出した発展を遂げた大国である。


この世界において、人間という種族は決して一枚岩ではない。


同じ言葉を話し、同じような姿を持ち、同じ大地に暮らしていながら、その思想も文化も、国家の在り方も大きく異なっていた。


例えば、イリスたちが拠点としている聖王国セレスティア。


聖都ルミナスを中心に広がるその国では、古くから信仰が人々の暮らしに深く根づいている。街には大小様々な神殿が建ち並び、聖職者や治癒術師が人々の生活を支えていた。


もっとも、信仰を重んじる国家だからといって、そこに暮らすすべての人間が善良というわけではない。権力を求める貴族もいれば、利益のために他者を欺く商人もいる。


祈りが存在する場所にも、人間の欲望は存在する。


それが、聖王国という国家の現実だった。


一方、商業連邦レガリアは、黄金都市ミダスを中心とした交易国家である。


複数の商業都市と有力商会が結びついて成立した連邦であり、そこでは血筋や信仰以上に、富と契約が大きな意味を持つ。


人間界の流通を支える巨大な交易網を有し、魔族領や獣人領との取引にも積極的だった。


その経済力は、一国の軍事力すら左右すると言われている。


北方王国ノルヴァーンは、厳しい寒さと険しい山岳地帯に囲まれた軍事国家だ。


鉄壁都市ヴァルハラを王都とし、堅牢な城塞と鍛え抜かれた兵士たちによって国土を守っている。


魔物の襲撃や過酷な自然環境と隣り合わせの土地であるため、他国と比べても武力と規律を重んじる傾向が強い。


そして、いずれの大国にも属さない自由都市アヴァロン。


そこでは人間だけでなく、獣人や魔族をはじめとした様々な種族が行き交い、独自の自治制度の下で暮らしている。


種族や出自の異なる者たちが共存する一方、国家の庇護を受けないがゆえの危険も存在する場所だった。


これらの国家は、互いに協力することもあれば、利害の対立によって争うこともある。


人間界とは、一つの国を指す言葉ではない。


数多くの国家と、そこに暮らす人々の営みによって形作られた、広大な世界の一部なのである。


そして。


その中でも、魔法という分野において他国の追随を許さないのが、魔導帝国ヴァルグリムだった。


「……わぁ」


帝都グラン・ヴァルグの城門をくぐった瞬間、イリスは思わず足を止めた。


目の前に広がっていたのは、これまで見たこともない光景だった。


巨大な石造りの建築物が立ち並び、その壁面には複雑な魔法陣が刻み込まれている。建物同士を繋ぐ空中回廊には淡い青色の光が走り、街灯は昼間だというのに、魔力の循環によって静かに輝いていた。


街路には馬車だけでなく、車輪を持たない奇妙な乗り物が滑るように走っている。


荷物を運ぶ小型の魔導機械が人々の間を行き交い、空中にはいくつもの立体魔法陣が浮かんでいた。


さらに街の中心部には、雲を突き抜けるほど高い塔が聳えている。


その周囲を、巨大な環状の魔法陣がゆっくりと回転していた。


「すごいです!セレス!あれ、何ですか!?」


「ああ、魔導車だな」


「じゃあ、あっちの空を飛んでるのは!?」


「魔導車だな」


「えっ!?じゃあ、あの荷物を運んでる小さいのは!?」


「魔導車じゃね?」


「全部魔導車じゃないですか!」


「細けぇ名前なんか知らねぇよ!」


セレスは面倒くさそうに答えた。


イリスは呆れたように頬を膨らませる。


「セレスって、魔法には詳しいのに、こういうのは知らないんですね」


「魔法が分かるのと、道具の名前を覚えるのは別だろ」


「そういうものですか?」


「そういうもんだ」


セレスは何でもないことのように答えた。


実際、彼女の言葉には一理あった。


魔法そのものを扱う技術と、それを人々の生活に利用するための技術は、必ずしも同じではない。


魔導帝国は、その後者を極限まで発展させた国家だった。


魔力を動力へ変換する技術。


術式を刻み込んだ魔導機械。


遠距離通信を可能にする魔導装置。


そして、複雑な魔法を一般の人々でも利用できるようにするための研究。


それらが帝国の発展を支えていた。


「……すごいですね」


イリスは改めて街を見渡した。


「聖王国とは、全然違います」


「そりゃそうだろ。国が違えば、考え方も違うからな」


「でも、同じ人間が暮らしてるんですよね?」


「ああ」


セレスは歩きながら答えた。


「けど、人間同士だからって仲良しこよしってわけじゃねぇ。聖王国と帝国だって、昔から意見がぶつかることはある」


「……そうなんですね」


「だから俺らがいるんだろ」


その言葉に、イリスが顔を上げた。


「シスターは、どこの国の味方でもねぇ」


セレスは続ける。


「人間だから守るわけでも、魔族だから倒すわけでもねぇ。世界の均衡が崩れそうなら、必要なことをする。それだけだ」


「……はい」


イリスは小さく頷いた。


世界の均衡。


シスターたちに与えられた使命。


それは、誰か一人の願いを叶えることでも、一つの国家を繁栄させることでもない。


時には人間を守り、時には人間を止める。


魔族を倒すこともあれば、魔族を救うこともある。


その判断を下す責任の重さを、イリスは少しずつ理解し始めていた。


「……まあ、難しい話は後だ」


セレスが大きく伸びをする。


「とりあえず、あいつを引っ張り出すぞ」


「……リディアさんですね」


「おう」


セレスはにやりと笑った。


「さて、何年ぶりに顔見せてくれるかねぇ」


◆


帝都グラン・ヴァルグの中央区。


そこには、帝国最大規模の魔導研究機関が存在していた。


帝立魔導研究院。


帝国内でも最高峰の研究者や魔術師が集まり、魔法理論から魔導技術の開発まで、あらゆる研究が行われている施設である。


巨大な敷地には複数の研究棟が建ち並び、その中心には、外部からの魔力干渉を防ぐための結界が張り巡らされていた。


イリスは研究院の正門を見上げ、感嘆の声を漏らす。


「……大きいですね」


「まあな」


「リディアさん、本当にここにいるんでしょうか?」


「いるだろ。研究できる場所がありゃ、あいつは大体そこにいる」


「……分かりやすいですね」


「だろ?」


二人は受付へ向かった。


白い制服を着た若い研究員が、丁寧に頭を下げる。


「ようこそ、帝立魔導研究院へ。本日はどのようなご用件でしょうか?」


「リディアに会いに来た」


「……リディア?」


「リディア・クロイツだ。いるだろ?」


その名前を聞いた瞬間、研究員の表情が固まった。


「……リディア・クロイツ様、ですか?」


「おう」


「……失礼ですが、お二人は?」


セレスは面倒くさそうに肩を竦めた。


「シスターだよ。こっちがイリスで、俺がセレス」


「……え?」


研究員の目が大きく見開かれる。


「シ、シスター……!?」


「ああ」


「し、失礼いたしました!」


研究員は慌てて頭を下げた。


九人のシスター。


その存在は、国家や種族の枠を超えて広く知られている。


世界の均衡を守る者たち。


時には国家の軍事力すら凌駕する、常識外れの存在。


研究員が驚くのも無理はなかった。


「そ、それで、リディア様へのご面会ですが……」


「あ?」


「現在、研究室への立ち入りを全面的に禁止されておりまして……」


「……またかよ」


セレスが呆れたように呟いた。


「何かあったんですか?」


イリスが尋ねる。


研究員は困ったように眉を下げた。


「研究に集中されているようで、外部からの訪問を一切受け付けておられません」


「……連絡も?」


「はい。通信魔法にも応答されず……」


「飯は?」


「……おそらく、ここ数日は」


「寝てんのか?」


「……それも、確認できておりません」


セレスは大きなため息をついた。


「……相変わらずだな、あいつ」


「だ、大丈夫なんでしょうか……」


イリスが心配そうに呟く。


研究員はさらに続けた。


「しかも、研究室には七十二層の封印術式が施されておりまして……」


「七十二層?」


「はい。帝国最高峰の魔術師でも、解除は困難だと言われています」


「へぇ」


セレスが感心したように頷く。


「それで、研究室はどこだ?」


「えっ?」


「案内してくれ」


「し、しかし……」


「大丈夫だって」


セレスはにやりと笑った。


「開かねぇなら、開けりゃいいだろ」


その笑顔を見た瞬間。


イリスは嫌な予感がした。


◆


研究院の地下深く。


幾重もの結界を通り抜けた先に、その研究室は存在していた。


巨大な金属製の扉。


その表面には無数の魔法文字が刻まれ、複雑な術式が幾重にも重なっている。


扉の周囲には淡い紫色の光が漂い、近づくだけで濃密な魔力の気配が感じられた。


「……これが、リディアさんの研究室ですか」


イリスが呟く。


「はい……」


案内してくれた研究員が、緊張した面持ちで頷いた。


「現在、七十二層の封印術式が展開されています。無理に解除しようとすれば、術式が自動的に再構築される仕組みでして……」


「へぇ」


セレスは扉を見上げた。


そして。


「イリス、ちょっと下がってろ」


「……セレス?」


「開ける」


「……どうやって?」


セレスは拳を握った。


「こうやって」


「待ってください!」


イリスが慌てて腕を掴む。


「壊す気ですか!?」


「開かねぇなら壊すしかねぇだろ」


「普通に呼びかけてください!」


「どうせ聞こえてねぇって」


「だからって壊しちゃ駄目です!」


「大丈夫だって。扉だけにしとくから」


「全然大丈夫じゃありません!」


研究員の顔が真っ青になった。


「お、お待ちください! その扉は帝国でも最高級の魔導金属で作られておりまして!」


「へぇ」


「破壊すれば、研究院全体の防御結界にも影響が!」


「そりゃ困るな」


「で、では……!」


「なるべく加減するわ」


「そういう問題ではありません!」


セレスが拳を構える。


その右腕に、赤みを帯びた魔力が集まり始めた。


イリスは必死に腕を引っ張る。


研究員は半泣きになっている。


そして。


セレスの拳が扉へ触れようとした、その瞬間だった。


『……あー』


気だるそうな声が響いた。


『うるさいなぁ……』


セレスの拳が止まる。


イリスが顔を上げた。


扉に刻まれた魔法文字が、一斉に紫色の光を放ち始める。


『誰かと思ったら……セレスじゃーん』


「お、リディア!」


セレスが嬉しそうに笑った。


『……何してんのぉ?』


「迎えに来た!」


『……それで、何で私の研究室を殴ろうとしてるわけ?』


「開かなかったからな!」


短い沈黙。


『……相変わらず脳みそまで筋肉なんだねぇ』


「お前も相変わらず引きこもりだな!」


『研究者って言ってほしいなぁ』


「同じだろ」


『全然違うんだけどぉ』


そんな会話とともに、重厚な扉がゆっくりと開いていく。


内部から、冷たい空気が流れ出した。


魔力を帯びた紙の匂い。


古い書物の香り。


そして、幾重にも重なった術式が放つ独特の気配。


その奥から、一人の女性が姿を現した。


艶のある黒髪。


深い紫色の瞳。


細い縁の眼鏡をかけた、理知的な顔立ち。


白と黒を基調としたシスター服の上には、研究者らしい外套が羽織られている。


片手には分厚い魔導書。


もう片方の手には、細かな文字がびっしりと書き込まれた研究資料。


見た目は二十代前半ほどの女性だった。


だが、その瞳には、長い年月を積み重ねてきた者だけが持つ独特の落ち着きが宿っていた。


《戒律のシスター・リディア》。


リディア・クロイツ。


シスターとしての在任期間、四百八十七年。


九人のシスターの中でも、魔法理論と術式解析において並ぶ者がいないとされる天才。


「……はぁ」


リディアは深いため息をついた。


「久しぶりだねぇ、セレス」


「おう!元気そうじゃねぇか!」


「……あなたが来るまではねぇ」


「何だよ、それ!」


「そのままの意味だよぉ」


セレスが笑う。


リディアは面倒くさそうに眼鏡を押し上げた。


そして、その視線がイリスへ向けられる。


「……あれ、イリスもいるんだぁ」


「お、お久しぶりです!リディアさん!」


イリスは慌てて頭を下げた。


リディアは少しだけ表情を和らげる。


「久しぶりー。元気だったぁ?」


「はい!」


「そっかぁ。よかったねぇ」


その声は、セレスに向けるものよりも幾分柔らかかった。


「……セレスに変なこと教えられてない?」


「おい!」


「えっと……」


イリスは少し考え込んだ。


そして。


「……殴り方とか?」


「ほらぁ」


「何がほらだ!」


リディアは呆れたように肩を竦めた。


「……相変わらずだねぇ、二人とも」


その言葉に、イリスは小さく笑った。


こうして、三人目のシスターとの再会は、思っていた以上に騒がしいものとなった。


◆


リディアの研究室は、イリスの想像を遥かに超えていた。


広大な室内には、天井まで届く巨大な書棚が並び、そのすべてに魔導書や研究資料が詰め込まれている。


机の上には数え切れないほどの紙束が積まれ、床には複雑な魔法陣がいくつも描かれていた。


壁面には立体的な術式が浮かび上がり、空中では小さな魔力の球体が規則正しく回転している。


そして、部屋の中央には、巨大な立体魔法陣が浮遊していた。


幾重もの円環が互いに異なる速度で回転し、その内部では細かな光の粒子が絶えず移動している。


「……すごい」


イリスは思わず呟いた。


「これ、全部リディアさんが?」


「んー? まあねぇ」


リディアは何でもないことのように答えた。


「研究してたら、いつの間にか増えちゃったぁ」


「……いつの間にか?」


「うん」


「……片づけたりは?」


「必要なものばっかりだからねぇ」


イリスは周囲を見渡した。


どう見ても、必要なものだけが置かれているようには見えなかった。


「……なあ、リディア」


セレスが口を開く。


「お前、ちゃんと飯食ってんのか?」


「んー……」


リディアは少し考えた。


「……昨日、食べたかなぁ」


「何を?」


「……飴?」


「飯じゃねぇだろ!」


「糖分は大事なんだよぉ」


「そういう問題じゃねぇ!」


イリスは頭を抱えた。


「リディアさん!ちゃんと食べてください!」


「えー……」


「えー、じゃありません!」


「……イリスまでセレスみたいなこと言うんだねぇ」


「健康の話です!」


リディアは不満そうに唇を尖らせた。


だが、その視線はすぐに机の上の研究資料へ戻っていた。


「……それでぇ」


リディアが魔導書を閉じる。


「わざわざ二人で来たってことは、マザーに言われたんでしょ?」


「おう」


セレスが頷いた。


「帰ってこいってよ」


「やだぁ」


即答だった。


「早ぇよ!」


「だって、研究の途中だしぃ」


「何回も連絡来てただろ!」


「うん」


「何で返事しねぇんだよ!」


「忙しかったからぁ」


「ったく……!」


セレスが額を押さえる。


イリスは困ったように二人を見比べた。


「……リディアさん、そんなに大事な研究なんですか?」


その瞬間だった。


リディアの表情が、僅かに変わった。


先ほどまでの気だるそうな雰囲気が消え、紫色の瞳に鋭い光が宿る。


「……大事だよ」


声の調子も変わっていた。


「……すごくね」


リディアは机の上から、一枚の資料を取り出した。


そこには、一輪の花が描かれていた。


ただし、その花は灰色だった。


「……っ!」


イリスが息を呑む。


セレスも目を細めた。


「……おい、リディア」


「んー?」


「これ、どこで見つけた?」


リディアは二人を見つめた。


「……やっぱり、知ってるんだぁ」


「……知ってるも何も」


セレスは腕を組んだ。


「ついこの間、同じようなもんを見てきたところだ」


リディアの瞳が細められる。


「……詳しく聞かせて」


その声には、先ほどまでの気だるさがなかった。


セレスは、灰色の森で起きた出来事を説明し始めた。


生命力を吸収する怪物。


異常な再生能力。


森全体を灰色に染める現象。


そして、胸の奥に存在していた核らしきもの。


リディアは一言も口を挟まず、静かに話を聞いていた。


しかし。


「……で、最後は俺が殴って消した」


「……消した?」


「ああ」


「……全部?」


「おう」


「……組織は?」


「ねぇ」


「……残骸は?」


「ねぇ」


「……核は?」


「ねぇ」


沈黙。


リディアは、ゆっくりと眼鏡を外した。


そして。


「……馬鹿なのぉ?」


「マザーにも言われたわ!」


「いやぁ……これは言われるでしょ」


「仕方ねぇだろ!消えちまったんだから!」


「加減って言葉、知ってるぅ?」


「知ってるわ!」


「……使ったことある?」


「ある!」


「……ほんとかなぁ」


「おい!」


イリスは思わず笑ってしまった。


だが、リディアはすぐに真剣な表情へ戻った。


「……まあ、いいや。今さら言っても戻らないしねぇ」


リディアは資料へ視線を落とした。


「……それで、森は?」


「……ああ」


セレスがイリスを見た。


「こいつが元に戻した」


「…………」


リディアの手が止まった。


「……ん?」


「イリスが戻したんだよ。灰色になった森を」


「…………」


短い沈黙。


そして。


「……ちょっと待って」


リディアが顔を上げた。


「……戻した?」


「おう」


「……生命反応が完全に消失してたんだよね?」


「ああ」


「……それを?」


「イリスが」


リディアの視線が、ゆっくりとイリスへ向けられる。


「……イリス」


「は、はい?」


「……何したの?」


「えっと……祈りました」


「……祈り?」


「はい」


「……どんな?」


イリスは少し戸惑いながら答えた。


「『――我が祈りを、命へ!』って……」


沈黙。


リディアはしばらくイリスを見つめていた。


そして。


「…………」


眼鏡を押し上げた。


「……面白い」


小さく呟く。


その声には、奇妙な熱が宿っていた。


「……すっごく面白い」


「……リディアさん?」


「生命反応が完全に消失した植物を、祈りだけで再生……?しかも、術式の構築なし……?魔力の変換効率は……いや、そもそも生命そのものを……」


ぶつぶつと呟きながら、リディアはイリスへ近づいてくる。


「……イリス」


「は、はい?」


「ちょっと、こっち来て」


「……え?」


「大丈夫。痛いことはしないからぁ」


「……何するんですか?」


「調べるだけぇ」


「……何を?」


「全部」


「嫌です!」


イリスが一歩後ずさった。


リディアが一歩近づく。


「えー、ちょっとだけぇ」


「ちょっとって何ですか!」


「魔力の流れとか、祈りの構造とか、身体の反応とかぁ」


「最後のが怖いです!」


「大丈夫だよぉ」


「絶対大丈夫じゃありません!」


セレスが腹を抱えて笑い始めた。


「はははっ!言っただろ!目の色変えるって!」


「笑ってないで助けてください!」


「いやぁ、面白ぇからもうちょい見てるわ」


「セレス!」


リディアは完全に研究者の顔になっていた。


「……ねぇ、イリス」


「……はい?」


「もう一回、やってみて?」


「無理です!」


「えー」


「マザーにも止められてるんです!」


その言葉に、リディアがぴたりと動きを止めた。


「……マザーが?」


「はい。無理に再現しないようにって」


「……ふぅん」


リディアは少しだけ考え込んだ。


そして、あっさりと頷く。


「……じゃあ、今はやめとこっかぁ」


「……え?」


「マザーがそう言ったなら、無理にはしないよぉ」


イリスは安堵の息を吐いた。


だが。


「……代わりに、あとで詳しく話聞かせてねぇ」


「……はい」


「三時間くらい」


「長いです!」


「じゃあ五時間?」


「増えてます!」


セレスの笑い声が、研究室に響き渡った。


◆


「……さて」


しばらくして、リディアは研究室の中央に浮かぶ巨大な立体魔法陣へ歩み寄った。


「……そろそろ、本題に入ろっかぁ」


その一言で、室内の空気が変わった。


リディアが指先を動かす。


すると、空中に浮かんでいた複数の魔法陣が一斉に回転を始めた。


光の粒子が集まり、巨大な立体地図が形成される。


そこには、人間界だけでなく、魔族領、獣人領、妖精郷を含む広大な大陸の姿が映し出されていた。


「……すごい」


イリスが呟く。


「……これが、今の世界の主要な勢力圏だよぉ」


リディアは静かに説明を始めた。


この世界には、人間以外にも数多くの種族が暮らしている。


魔族。


獣人。


妖精。


そして、それらの分類だけでは説明しきれない、様々な種族。


魔族領を治めるのは、《黒冠の魔王》ルシア・ヴェルグレイス。


魔王都パンデモニウムを中心に、複数の領地が広がっている。


魔族は強大な魔力を持つ者が多く、古くから人間と争ってきた歴史を持つ。


しかし、現在の魔王は単なる破壊者ではない。


魔族領の秩序を守り、必要に応じて人間界との交渉も行う統治者だった。


獣人たちが暮らすのは、獣人領ガルディア。


八つの大きな部族が存在し、それぞれ異なる文化と伝統を受け継いでいる。


彼らは優れた身体能力や鋭敏な感覚を持つ者が多く、独自の武術や秘術を発展させてきた。


そして、妖精郷ティル・ナ・ノーグ。


そこには、世界樹ユグドラシルが存在する。


巨大な世界樹を中心に広がる妖精たちの領域では、自然や精霊、生命の循環と深く結びついた魔法が受け継がれている。


もっとも、世界には吸血鬼や竜人、セイレーンなど、独自の性質を持つ種族も数多く存在する。


すべての種族が、明確に分かれた領土で暮らしているわけではない。


人間の街に暮らす獣人もいれば、魔族領で生活する人間もいる。


異なる種族が共存する場所もあれば、互いを警戒し、争い続ける土地もある。


それらすべてを含めて、この世界は成り立っていた。


「……でもねぇ」


リディアが指を鳴らした。


地図の各地に、小さな灰色の光が浮かび上がる。


一つ。


二つ。


三つ。


その数は、決して少なくなかった。


「……最近、妙な報告が増えてるんだよねぇ」


「……妙な報告?」


イリスが尋ねる。


「うん。生命力の異常な消失。魔力循環の乱れ。原因不明の術式反応……」


リディアは地図の一角を指差した。


「帝国の周辺でも、灰色に変色した植物が確認されてる」


「……私たちが見た森と同じですか?」


「似てる。でも、同じとは断定できないねぇ」


リディアは続けた。


「私が調べた標本には、通常の魔法とは違う反応が残ってた」


「……違う?」


「うん」


リディアの紫色の瞳が、地図を見つめる。


「人間の魔法とも、魔族の魔力とも、妖精の術とも一致しない。獣人たちが使う秘術とも、既知の術式構造が違うんだよねぇ」


セレスが腕を組んだ。


「……つまり?」


「……分かんない」


「おい!」


「だから研究してるんでしょぉ」


リディアは呆れたように答えた。


「分かってたら、こんなところに何日も引きこもってないよぉ」


「……それもそうか」


「納得するんですね……」


イリスが小さく呟く。


リディアは机の上から、一枚の古い記録を取り出した。


黄ばんだ紙。


擦り切れた端。


その中央には、奇妙な紋様が描かれていた。


円とも、文字とも、魔法陣ともつかない、不規則な線の集合。


イリスには、それが何を意味するのか分からなかった。


「……これ、何ですか?」


「古い記録だよぉ」


リディアは静かに答えた。


「どこの国のものかも、誰が残したものかも分からない」


「……そんなものが?」


「うん。帝国の古い資料庫に眠ってたんだぁ」


セレスが眉を寄せる。


「……それが、今回の異変と関係あんのか?」


「まだ分からない」


リディアは首を横に振った。


「ただ、この紋様に使われてる構造が、最近観測された異常な反応と少し似てるんだよねぇ」


研究室に、静寂が訪れた。


巨大な立体魔法陣だけが、ゆっくりと回転している。


「……ねぇ、セレス」


リディアが口を開いた。


「この世界には、人間も魔族も獣人も妖精もいるよねぇ」


「ああ」


「ほかにも、色んな種族が暮らしてる」


「……それがどうした?」


リディアは、古い記録へ視線を落とした。


「……でもさぁ」


その声から、いつもの間延びした響きが消えた。


「私たちが知ってるものだけが、この世界のすべてだと思う?」


イリスが息を呑む。


セレスは何も答えなかった。


「……例えば」


リディアはゆっくりと続けた。


「今の世界の、どの勢力にも属さない連中がいたとしたら?」


「……どの勢力にも?」


「人間でも、魔族でも、獣人でも、妖精でもない」


リディアの指先が、古い紋様をなぞる。


「……私たちがまだ知らない、何か」


その言葉が、静かな研究室に落ちた。


イリスは、灰色の森で見た怪物を思い出した。


黒い樹皮に覆われた身体。


生命を奪う根。


そして、胸の奥に存在していた核。


あれは、本当にただの魔物だったのだろうか。


「……リディアさん」


イリスが小さく尋ねる。


「それって……新しい種族がいるかもしれないってことですか?」


「……かもしれないねぇ」


リディアは答えた。


「ただの未知の魔物かもしれないし、昔の魔法が残ってるだけかもしれない」


一拍。


「でも……もし、そうじゃなかったら?」


セレスが目を細めた。


「……何が言いてぇんだ?」


リディアは、ゆっくりと顔を上げた。


紫色の瞳が、二人を見つめる。


「……私たちが知らないところで」


静かな声が響いた。


「この世界の均衡に、手を伸ばしてる連中がいるのかもしれない」


その瞬間。


研究室の中央に浮かぶ巨大な立体魔法陣が、僅かに揺らめいた。


地図の上では、各地に浮かぶ灰色の光が、静かに明滅している。


人間界。


魔族領。


獣人領。


妖精郷。


異なる種族が暮らす、広大な世界。


そのすべてを守るために、九人のシスターは存在している。


だが。


もし、その世界のどこにも属さない何者かが、既に動き始めているのだとしたら。


それは、単なる魔物の討伐では終わらない。


世界そのものに関わる、何かの始まりなのかもしれなかった。


イリスは、胸元でそっと手を握りしめた。


灰色の森で、失われた生命を取り戻した時の感覚が、微かに蘇る。


そして、セレスは静かに拳を握った。


リディアは二人を見つめたまま、小さく呟く。


「……だから、帰れないんだよねぇ」


その声には、研究者としての好奇心だけではない、何か別の感情が混じっていた。


世界の均衡。


それを守る九人のシスター。


彼女たちが向き合うべき新たな異変は、まだ、その正体すら明らかになっていなかった。


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