祈りが芽吹く場所
「だから!肉片を残してくださいって言ったじゃないですか!」
灰色の森に、イリスの怒声が響き渡った。
つい先ほどまで、五メートルを超える異形の怪物が暴れ回っていた場所。黒い根が大地を引き裂き、生命を奪い、森そのものを死へ追いやっていた戦場には、今や巨大な陥没と無数の倒木だけが残されていた。
その中心で、イリスは腕を組み、目の前の先輩を睨みつけている。
対するセレスはというと、特に反省した様子もなく、黒いグローブについた土埃を払い落としていた。
「いや、残すつもりだったんだって」
「じゃあどこにあるんですか!」
「……あの辺?」
「何もないじゃないですか!」
イリスが指差した先には、抉れた地面が広がっているだけだった。黒い樹皮の欠片も、根の残骸も、ましてや怪物の肉片など影も形もない。セレスが放った最後の一撃は、怪物の核を破壊するだけにとどまらず、その巨体を構成していた組織そのものを跡形もなく消し飛ばしてしまったのだ。
「いやぁ、思ったより脆かったな」
「どこがですか!?あんなに再生してたじゃないですか!」
「最後は一発だったろ?」
「セレスが規格外なだけです!」
もっともな指摘だった。
あの怪物は、周囲の生命力を吸収することで際限なく再生し、セレスの拳すら一時的に受け止めてみせた。並の騎士団や魔術師部隊が相手をしていれば、討伐どころか森から生きて帰ることすら難しかっただろう。
そんな相手を、たった一撃で消滅させた。
それがどれほど常識外れなことなのか、当の本人にはまるで自覚がないらしい。
「リディアさんに何て説明するんですか……」
「怪物がいた。殴った。消えた」
「絶対怒られますよ!」
「だろうな」
「分かってるなら何でやったんですか!」
セレスは答えず、からからと笑った。
そのあまりにも悪びれない態度に、イリスは大きなため息をつく。戦闘中は頼もしいどころか、同じシスターであることが信じられなくなるほどの強さを見せつけてくれたというのに、こうして話していると本当に同じ人物なのか疑わしくなってくる。
「もう……本当に……」
「ま、そう怒んなって」
「怒りますよ!」
「ほら、怪我してねぇか?」
「話を逸らさないでください!」
そう言い返したイリスだったが、セレスの視線が自分の右腕へ向けられていることに気づき、思わず口を閉じた。
戦闘中、怪物の根によって引き裂かれた袖。その下には、赤く擦れたような傷が残っていた。脇腹にも僅かな痛みがあるが、幸い深い傷ではない。
「……大丈夫です。少し擦っただけなので」
「見せてみろ」
「本当に大丈夫ですよ?」
「いいから」
セレスはイリスの右腕を取り、傷の具合を確かめた。先ほどまで怪物を粉砕していた拳とは思えないほど、その手つきは慎重だった。
「……ふむ。魔力膜が削られたところを持ってかれたか」
「はい。でも、ちゃんと補充しましたよ」
「見てた。途中からは悪くなかったな」
「……え?」
イリスが顔を上げる。
セレスは腕を離すと、そのままイリスの頭へ手を置いた。
「よくやった」
そして、わしゃわしゃと銀色の髪を撫で回した。
「ちょっ、セレス!髪が!」
「最後の道、よく開けたな。あれがなきゃ、もうちょい面倒なことになってた」
「……!」
「それに、途中から魔力の流し方を変えただろ。まだ雑だけど、ちゃんと考えて使えてた」
イリスは思わず黙り込んだ。
怪物の根を砕きながら、必死に試した魔力操作。セレスが教えてくれたことを思い出し、失敗して、それでも諦めずに修正した。
あの時は目の前の攻撃に対処するだけで精一杯だった。
まさか、セレスがそこまで見ていたとは思わなかった。
「……気づいてたんですか?」
「当たり前だろ」
セレスは何でもないことのように答えた。
「お前を連れてきたのは俺なんだからな」
その言葉に、イリスの胸が少しだけ温かくなる。
セレスは普段から口が悪い。食べ物を勝手に取るし、すぐに人をからかうし、何かにつけて拳で解決しようとする。
けれど、戦いの最中であっても、後輩のことをきちんと見てくれている。
「三年前より、随分マシになったじゃねぇか」
「……それ、褒めてます?」
「めちゃくちゃ褒めてる」
「絶対嘘です!」
「ははっ!」
セレスが豪快に笑う。
イリスも、つられて小さく笑った。
つい先ほどまで命を懸けて戦っていたというのに、こうして言葉を交わしていると、不思議と緊張が解けていく。
しかし、その穏やかな時間は長く続かなかった。
セレスがふと顔を上げたのだ。
「……さて」
その声に、イリスも周囲へ視線を向けた。
そこには、灰色の森が広がっていた。
怪物が消えても、景色は何一つ変わっていない。
木々は色を失ったまま立ち尽くし、地面に咲いていた花々も灰色の姿を保っている。葉は枝から落ちることなく、風が吹いても揺れない。腐敗しているわけでも、枯れているわけでもない。ただ、そこにあるはずの生命だけが、綺麗に抜き取られていた。
怪物がいた時には絶え間なく響いていた不気味な鼓動も、今は聞こえない。
それなのに、森には静寂だけが残っていた。
「……これ、どうしたもんかね」
セレスが呟く。
近くにあった一本の木へ歩み寄り、その幹へ手を当てた。
指先から薄い魔力が流れ込む。
生命反応を確かめるための、ごく簡単な探査魔法だった。
しかし、返ってきたものは何もなかった。
「……駄目だな」
「戻せないんですか?」
「少なくとも、普通の回復魔法じゃ無理だろうな」
セレスは木から手を離した。
「傷ついてるわけじゃねぇ。病気でもねぇ。中身だけ、すっぽり抜かれてやがる」
イリスは足元へ視線を落とした。
そこには、小さな花が咲いていた。
いや、咲いていたと言うべきなのだろうか。
花弁も、茎も、葉も、形はそのまま残っている。けれど、かつて何色だったのかすら分からないほど、すべてが灰色に染まっていた。
イリスはゆっくりとしゃがみ込み、花を見つめた。
「……かわいそう」
その呟きに、セレスは何も答えなかった。
六百十二年。
セレスは、その長い年月の中で数え切れないほどの命を見送ってきた。
戦争で失われた命。災害に呑み込まれた命。魔物に奪われた命。そして、世界の均衡を守るために、自らの拳で終わらせた命。
救えたものもあれば、救えなかったものもある。
どれほど強くなろうと、どれほど多くの魔法を覚えようと、失われたものすべてを取り戻せるわけではない。
それだけは、長い経験の中で嫌というほど思い知らされてきた。
「……失われたもんは、戻ってこねぇもんな」
セレスが静かに言った。
その声には、先ほどまでの軽さがなかった。
イリスは顔を上げる。
「……本当に、そうなんでしょうか」
「あ?」
「本当に、もう戻らないんでしょうか」
セレスが眉を寄せた。
「何言ってんだ。見りゃ分かるだろ」
「でも……」
イリスはもう一度、足元の花へ視線を落とした。
「まだ、ここにあるじゃないですか」
「何が?」
「この花も、木も、土も。全部、ここに残ってます」
イリスは灰色の花へそっと手を伸ばした。
触れた花弁は冷たかった。
生命の温もりなど、何一つ感じられない。
それでも、確かに形は残っている。
「……だったら」
イリスは小さく息を吸い込んだ。
「もう一度、咲いてほしいです」
セレスは何も言わなかった。
イリスが何をしようとしているのか、まだ分からなかったからだ。
イリス自身も、何ができるのか分かっていなかった。
ただ、目の前にある花を見ていると、どうしても諦めきれなかった。
この花は、誰かに踏み潰されたわけではない。
自ら枯れたわけでもない。
ただ、突然現れた怪物によって、生命を奪われてしまった。
それが、どうしようもなく悲しかった。
「……もう一度」
イリスは両手を胸元で組んだ。
祈り。
それは、彼女がシスターとして授かった力。
これまで何度も、自分自身を強くするために使ってきた。
強大な魔物に立ち向かうため。
誰かを守るため。
そして、セレスの隣で戦うため。
『――我が祈りを、力へ!』
いつもなら、そう唱える。
祈りを力へ変え、身体を強化する。
けれど。
今、欲しいのは力ではなかった。
拳を強くしたいわけではない。
速く走りたいわけでもない。
誰かを倒したいわけでもない。
ただ。
もう一度、この森に生命が戻ってほしい。
風に揺れる葉を見たい。
花が咲くところを見たい。
鳥が枝に止まり、虫が草の間を飛び交う、そんな当たり前の森に戻ってほしい。
イリスは静かに目を閉じた。
そして。
自然と、言葉が零れた。
「――我が祈りを、命へ!」
その瞬間。
世界が、静かに光った。
「……ん?」
セレスが眉を寄せる。
イリスの身体から、淡い光が溢れ始めていた。
しかし、それはいつもの身体強化とは明らかに違っていた。
光は筋肉へ流れ込まない。
骨を強くすることも、神経を加速させることもない。
代わりに。
イリスの指先から、地面へと流れ落ちた。
一滴の水が、乾いた大地へ染み込むように。
淡い光が、灰色の土へ吸い込まれていく。
「……おい」
セレスが声を漏らした。
足元に、小さな変化が起きていた。
灰色の土の中を、細い光の筋が走っている。
一本。
二本。
三本。
光は地中へ潜り込み、まるで植物の根を辿るように広がっていった。
そして。
イリスの目の前にあった花が、僅かに揺れた。
「……え?」
イリスが目を開ける。
花弁の先。
そこに、小さな赤い色が戻っていた。
ほんの僅か。
爪の先ほどの、小さな赤。
けれど、それは確かに灰色ではなかった。
「……色が」
イリスが息を呑む。
赤い色は、ゆっくりと花弁全体へ広がっていく。
続いて茎が緑色を取り戻し、萎れていた葉がゆっくりと持ち上がった。
花が、咲いた。
「……っ!」
イリスの瞳が大きく見開かれる。
だが、奇跡はそれだけでは終わらなかった。
地面を走っていた光が、さらに遠くへ広がっていく。
足元の草が緑色を取り戻す。
灰色だった苔が柔らかな色を帯び、地面の下に眠っていた種子から、小さな芽が顔を出した。
一本の木へ光が届く。
幹の奥へ、淡い輝きが染み込んでいく。
その直後。
枝の先に、小さな緑色の芽が生まれた。
芽はゆっくりと膨らみ、薄い葉を広げていく。
一枚。
二枚。
三枚。
そして、その変化は隣の木へ。
さらに、その隣の木へ。
森全体へと広がっていった。
「……は?」
セレスが間の抜けた声を漏らす。
六百十二年。
世界の異変と向き合い、数え切れないほどの魔法を見てきた。
生命を癒やす魔法も知っている。
植物の成長を促す魔法も知っている。
失われた肉体を再生させる高位の治癒魔法すら、存在することは知っていた。
だが。
これは違う。
灰色に染まった森には、そもそも生命反応が存在していなかった。
癒やすべき生命が、残っていなかったのだ。
にもかかわらず。
「……マジかよ」
セレスの目の前で、死んだはずの森が蘇っていた。
灰色の大地に緑が戻る。
色を失った花々が次々と咲き誇り、木々の枝には新しい葉が生まれていく。
やがて、風が吹いた。
それまで微動だにしなかった葉が、さらさらと音を立てて揺れる。
木漏れ日が地面へ落ちた。
花の香りが漂い始める。
土の匂いが戻ってくる。
灰色だった世界が、ゆっくりと、本来の姿を取り戻していった。
「……綺麗」
イリスが呟く。
その頬を、淡い光が照らしていた。
自分が何をしたのか、まだ理解できていない。
ただ、目の前の花が再び咲いたことが嬉しかった。
それだけだった。
やがて光が収まる。
イリスは胸元で組んでいた手を解き、ゆっくりと立ち上がった。
その周囲には、緑の草が広がっている。
赤い花が咲き、木々の葉が風に揺れていた。
「……よかった」
イリスは小さく微笑んだ。
その隣で。
セレスは、しばらく黙っていた。
そして。
「……おい、イリス」
「はい?」
「お前、何した?」
「……え?」
「何したって聞いてんだよ」
イリスは少し考え込んだ。
それから、困ったように笑った。
「……祈りました?」
「知ってるわ!」
セレスの声が森に響いた。
「いや、そうじゃねぇだろ!なんだ今の!?」
「えっ!?私にも分かりませんよ!」
「分かんねぇのにやったのか!?」
「だって、戻ってほしかったんですもん!」
「理由が雑すぎんだろ!」
イリスは頬を膨らませた。
「でも、ちゃんと戻りましたよ?」
「そういう問題じゃねぇ!」
セレスは頭を抱えた。
長い年月を生きてきた彼女にとっても、目の前で起きた現象は理解の範疇を超えていた。
確かに、イリスの祈りが特別な力を持っていることは知っている。
シスターとして選ばれた時から、彼女には普通の魔術師とは異なる魔力の性質があった。
だが、生命を失った大地を蘇らせるなど、聞いたことがない。
ましてや、それを本人が何の自覚もなく行ってしまうとは。
「……お前、それ、いつからできた?」
「今、初めてです」
「はぁ!?」
「そんなに驚かなくても……」
「驚くわ!」
セレスは大きく息を吐いた。
そして、改めて周囲を見渡す。
先ほどまで灰色に染まっていた森は、今や鮮やかな緑に包まれていた。
すべてが元通りになったのかどうかは分からない。
それでも、確かに生命は戻っている。
セレスはしばらくその光景を見つめていたが、やがて小さく笑った。
「……ったく」
そして、イリスの頭へ手を置いた。
「とんでもねぇ三年坊主だな、お前」
「また子供扱いして!」
「褒めてんだよ」
「……本当ですか?」
「ああ」
セレスは、珍しく真面目な顔で答えた。
「俺にはできねぇことを、お前はやった」
イリスが目を見開く。
「……セレスにも?」
「当たり前だろ。俺は何でもできるわけじゃねぇ」
セレスは拳を握り、軽く持ち上げた。
「壊すのは得意だけどな」
「……知ってます」
「おい」
イリスがくすりと笑う。
セレスも、つられて笑った。
風が吹く。
二人の周囲で、蘇ったばかりの木々が葉を揺らした。
それは、つい先ほどまで完全に失われていた音だった。
◆
「さて、報告すっか」
セレスがそう言ったのは、森に生命が戻ってからしばらく経った頃だった。
イリスは周囲を歩き回り、花や木々の状態を確かめていた。先ほどまで灰色だった植物は、どれも確かな生命反応を取り戻している。
もっとも、すべての疑問が解消されたわけではない。
なぜ怪物が現れたのか。
なぜ生命力を吸収していたのか。
そして、イリスの祈りによって何が起きたのか。
分からないことは、まだ山ほど残されていた。
「マザーに報告するんですか?」
「ああ。怪物は片づけたし、森も……まあ、なんとかなったしな」
「なんとかなったって……」
「なんとかなっただろ?」
「……そうですけど」
セレスは肩を竦めると、右手を軽く持ち上げた。
指先に赤みを帯びた魔力が集まり、空中へ細い光の線を描き始める。
一つ目の魔法陣。
その内側に、二つ目。
さらに、外側を包み込むように三つ目の魔法陣が展開された。
複雑な文字列が円周に沿って回転し、幾重もの術式が互いに干渉しないよう調整されていく。
イリスは、その様子をじっと見つめていた。
「……やっぱりすごいですね」
「あ?」
「セレスの魔法です」
「今さらかよ」
「だって、あんなに殴る人なのに……」
「ぶっ飛ばすぞ」
「褒めてるんですよ!」
「絶対嘘だろ」
そんなやり取りをしている間にも、通信魔法は完成していた。
三重の魔法陣が静かに輝き、その中心から柔らかな声が響く。
『……セレス、イリス。聞こえていますか?』
「おう、マザー。聞こえてるぜ」
「はい! イリスです!」
『二人とも無事なようですね。よかったです』
マザーの声には、いつもと変わらない穏やかさがあった。
それだけで、イリスは少し安心する。
『それで、森の状況はいかがですか?』
「ああ。結論から言えば、原因と思われる怪物は討伐した」
セレスは簡潔に報告を始めた。
灰色に染まった森。
生命力を吸収する能力。
異常な再生能力を持つ、五メートルを超える四足の怪物。
そして、胸の奥に存在していた核らしきもの。
マザーは途中で口を挟むことなく、静かに話を聞いていた。
『……なるほど。生命力を吸収し、それを自身の再生へ利用していたのですね』
「ああ。しかも、吸収する範囲を広げやがった。放っときゃ、もっと酷いことになってたと思うぜ」
『討伐できたのは幸いでした。ですが、正体については調査が必要ですね』
「だろうな」
『怪物の組織は確保できましたか?』
「…………」
セレスが黙った。
イリスが、ゆっくりと隣を見る。
セレスは目を逸らした。
「……セレス?」
『セレス?』
「……いやぁ」
『……セレス?』
「全部消えた」
沈黙。
三重の魔法陣が、静かに回転している。
やがて。
『……そうですか』
マザーの声が、ほんの少しだけ低くなった気がした。
「……マザー?」
『セレス』
「お、おう」
『後ほど、詳しくお話を聞かせてくださいね』
「……はい」
イリスは思わず口元を押さえた。
セレスが敬語になった。
あのセレスが。
怪物を殴り飛ばし、森を揺るがすほどの力を持つ《断罪のシスター》が、たった一言で大人しくなった。
「……ふふっ」
「笑うな」
「笑ってません」
「絶対笑ってんだろ」
『二人とも』
「「はい!」」
声が揃った。
通信魔法の向こうで、マザーが小さく笑ったような気がした。
『それで、森の生命はどうなりましたか?』
「ああ、それなんだけどな」
セレスはイリスへ視線を向けた。
「こいつが、なんかやった」
「説明が雑すぎます!」
『……イリスが?』
「はい!」
イリスは慌てて説明を始めた。
灰色の森が元に戻らなかったこと。
花も木も生命反応を失っていたこと。
そして、もう一度咲いてほしいと願いながら祈ったこと。
「そしたら、なんか光が地面に広がって……気づいたら森が元に戻ってました!」
『…………』
マザーが沈黙した。
「……マザー?」
『……祈りの言葉は、いつもと同じでしたか?』
イリスは首を横に振った。
「いえ。いつもは『我が祈りを、力へ』なんですけど……」
少し照れくさそうに、胸元で手を組む。
「今回は、『我が祈りを、命へ』って」
再び、沈黙。
セレスが腕を組んだ。
「俺も初めて見た。普通の治癒魔法じゃねぇぞ、ありゃ」
『……そうでしょうね』
マザーの声は穏やかだった。
しかし、その奥には何かを考え込むような響きがあった。
『イリス。その力については、今後もう少し詳しく調べる必要がありそうです』
「……私、何か変なことしちゃいました?」
『いいえ』
マザーは即座に答えた。
『あなたは、救いたいと願ったのでしょう?』
「……はい」
『それなら、今はそれで十分です』
イリスの表情が和らぐ。
『ただし、無理に再現しようとはしないでください。自分でも分からない力を扱う時には、慎重さが必要ですから』
「はい!」
『セレスも、お願いしますね』
「おう。任せとけ」
「……本当に大丈夫でしょうか」
「おい、イリス」
『ふふっ』
通信の向こうで、マザーが笑った。
やがて、その声が少しだけ真面目なものへ変わる。
『今回の異変については、ほかのシスターたちにも共有しておきます』
「……他の皆さんにも?」
『はい。現在、各地で調査を進めてもらっていますから』
マザーは続けた。
『北方ではイグニスから報告が届いています。魔族領ではカーミラが動いていますし、ほかのシスターたちも、それぞれの場所で状況を確認しています』
「……そんなに?」
イリスが驚いたように聞き返す。
『現時点で、すべてが同じ原因によるものかは分かりません。ただ、普段とは異なる現象が複数報告されているのは確かです』
セレスが眉を寄せた。
「……面倒なことになりそうだな」
『そうならないことを願っています』
マザーは静かに答えた。
『ですが、今はお二人とも十分に働いてくれました。ひとまず帰還し、身体を休めてください』
「お、休みか!」
セレスの表情が明るくなる。
「よっしゃ!帰ったら飲むぞ!」
「またお酒ですか!?」
『その後、次の任務をお願いします』
「……休みじゃねぇじゃん」
セレスの表情が一瞬で曇った。
『休息は取ってくださいね』
「……で、次はどこだ?」
『魔導帝国ヴァルグリムです』
その名前を聞いた瞬間、セレスが僅かに目を細めた。
「……ヴァルグリム?」
『はい。そちらに滞在しているリディアを、連れ戻してきてください』
「…………」
セレスが黙った。
イリスも、思わず目を瞬かせる。
「……リディアさんを?」
『ええ』
「……あいつ、またかよ」
セレスが額を押さえた。
『研究に没頭しているようで、こちらからの連絡にほとんど応じてくれません』
「だろうな」
『何度か帰還をお願いしているのですが……』
「聞いちゃいねぇんだろ?」
『……そのようです』
セレスは深いため息をついた。
「ったく、四百年以上生きてんのに、あいつは何も変わんねぇな」
「セレスがそれ言います?」
「どういう意味だ!」
「そのままの意味です!」
『ふふっ。では、お願いしますね』
「……へいへい」
『イリスも、よろしくお願いします』
「はい! 任せてください!」
通信魔法が静かに輝きを弱めていく。
三重の魔法陣が一つずつ消え、最後には赤みを帯びた小さな光だけが空中に残った。
やがて、その光も消える。
森に、再び静けさが戻った。
ただし。
今度の静けさは、先ほどまでとは違っていた。
木々が風に揺れる。
遠くで、小さな鳥の声が聞こえた。
イリスはその音に気づき、嬉しそうに微笑んだ。
◆
「さーて、帰るか!」
セレスが大きく伸びをした。
長い戦闘のあとだというのに、その足取りは驚くほど軽い。
イリスは最後にもう一度、周囲を見渡した。
緑色の葉。
色鮮やかな花々。
柔らかな土の匂い。
ほんの少し前まで、すべてが灰色に染まっていた場所。
そこに今、生命が戻っている。
「……よかったですね」
「ああ」
セレスも森へ視線を向けた。
「ま、終わりよければってやつだな」
「肉片は残ってませんけどね」
「まだ言うか!」
「言いますよ!」
二人は笑いながら歩き始めた。
森を抜け、街道へ向かう。
木々の間から差し込む陽光が、二人の足元へ柔らかな影を落としていた。
「帰ったら飯だな!」
セレスが嬉しそうに言う。
「はい! 村の方からいただいた野菜が残ってます!」
「……肉は?」
「野菜です!」
「肉は?」
「野菜です!」
「俺は肉が食いてぇ!」
「贅沢言わないでください!」
セレスが不満そうに頬を膨らませる。
イリスはそんな先輩を見て、呆れたように笑った。
「そもそも、あの野菜すごく美味しかったじゃないですか」
「美味かったけどよぉ」
「じゃあいいじゃないですか」
「肉があればもっと美味いだろ?」
「何でも肉を足せばいいってものじゃありません!」
「俺はそう思うけどな」
「知ってます!」
そんな他愛もない会話を続けながら、二人は街道を進んでいく。
やがて、セレスがふと思い出したように口を開いた。
「にしても、リディアに会うのも久しぶりだな」
「そうですね。最後に会ったの、いつでしたっけ?」
「さあな。百年くらい前か?」
「そんなわけないでしょう!私、まだシスターになって三年ですよ!」
「お前の話じゃねぇよ!」
「紛らわしい言い方しないでください!」
セレスが笑う。
イリスも笑い返した。
だが、その名前を聞いたことで、イリスの脳裏には一人の女性の姿が浮かんでいた。
《戒律のシスター・リディア》。
本名、リディア・クロイツ。
シスターとしての在任期間は、四百八十七年。
九人のシスターの中でも、魔法の理論と解析において突出した才能を持つ存在だった。
艶のある黒髪に、紫色の瞳。理知的な顔立ちをした女性で、細い縁の眼鏡をかけ、常に何冊もの魔導書を持ち歩いている。
彼女にとって魔法とは、単なる戦闘手段ではない。
研究対象であり、解き明かすべき世界の法則そのものだった。
魔法陣の構造。
魔力の循環。
術式同士の干渉。
世界に存在するあらゆる魔法現象を、彼女は理解しようとしている。
その探究心は凄まじく、一度研究に没頭すると、食事も睡眠も忘れてしまうことがある。
そして何より厄介なのは、研究を邪魔されることを極端に嫌うという点だった。
もっとも、彼女が単なる研究者ではないことも、イリスは知っている。
《戒律のシスター》という称号は、伊達ではない。
詠唱を必要とせず、複雑な高位魔法を自在に行使する天才。
その魔法は、ひとたび本気で放たれれば、都市一つを壊滅させるほどの威力を持つとも言われている。
世界の均衡を守る九人のシスター。
その一人に数えられる以上、彼女もまた、常識の外側にいる存在なのだ。
「……そういえば」
イリスが顔を上げた。
「リディアさんって、今は何を研究してるんでしょう?」
「さあな」
「さあなって……」
「魔法のことだろ」
「それは分かります!」
セレスは肩を竦めた。
「まあ、あいつのことだから、また変なもんに興味持ったんじゃねぇの?」
「変なもの?」
「ああ。前なんか、魔法陣の構造を調べるとか言って、三日三晩ずっと床に座ってたぞ」
「……三日三晩?」
「飯も食わずにな」
「それ、身体に悪くないですか?」
「だから俺が無理やり飯食わせた」
「……どうやって?」
「口に突っ込んだ」
「絶対やめてくださいね!?」
「ちゃんと食ったぞ」
「そういう問題じゃないです!」
セレスが豪快に笑った。
イリスは頭を抱える。
魔法の研究に没頭するリディア。
それを力ずくで止めようとするセレス。
想像するだけで、何かしらの騒動が起きそうだった。
「……ちゃんと帰ってきてくれるんでしょうか」
「さあな」
「またそれですか!」
セレスは少しだけ考え込んだ。
それから、にやりと笑う。
「ま、最悪引きずって帰りゃいいだろ」
「絶対やめてくださいね!?」
「大丈夫だって」
「何が大丈夫なんですか!」
「俺の方が力強ぇし」
「余計に心配です!」
二人の声が、街道に響き渡る。
やがて、森の木々が途切れ、遠くに国境の街並みが見え始めた。
夕暮れの光が建物の屋根を赤く染め、街道を行き交う人々の姿が小さく見える。
イリスは歩きながら、ふと振り返った。
遠くに広がる森。
つい先ほどまで灰色だった場所には、今も鮮やかな緑が広がっている。
その光景を見つめ、イリスは胸元へそっと手を当てた。
「――我が祈りを、命へ」
小さく呟く。
自分でも、どうしてあの言葉が出てきたのか分からない。
けれど、確かに何かが変わった気がした。
祈りは、ただ力を与えるだけのものではない。
もっと別の何か。
まだ、自分の知らない可能性があるのかもしれない。
「おーい、イリス!」
前方から、セレスの声が聞こえた。
「置いてくぞ!」
「あっ!待ってください!」
イリスは慌てて駆け出した。
銀色の髪が夕風に揺れる。
その先には、次の任務が待っている。
魔導帝国ヴァルグリム。
世界有数の魔導技術を誇る国家。
そして、そこに滞在する一人のシスター。
《戒律のシスター・リディア》。
彼女を連れ戻す。
それが、二人に与えられた次の任務だった。
だが。
魔法の研究に没頭する彼女が、なぜ今も帝国に留まり続けているのか。
その本当の理由を。
この時の二人は、まだ知らなかった。




