断罪の拳 2
倒れた怪物の身体が、再び脈打った。
一度。
二度。
そして三度目には、それまでとは比較にならないほど強い振動が大地を伝わってきた。
「……まだ動くんですか?」
イリスが呆然と呟く。
怪物は四本の脚を地面へ突き立て、ゆっくりと巨体を持ち上げた。
砕けた外殻の隙間から灰色の光が漏れ、破損した部分へ生命力が集まり始める。
しかし、その再生は先ほどまでとは違っていた。
表面を修復するだけではない。
腹部から伸びていた根が急激に太くなり、背中の枝が不規則に蠢いている。
まるで、身体そのものを別の形へ作り替えようとしているかのようだった。
「なんか……怒ってません?」
「知らねぇよ」
セレスは肩を回しながら答えた。
その視線は怪物から離れない。
次の瞬間。
怪物の腹部が裂けた。
そこから今までとは比較にならない数の黒い根が溢れ出す。
イリスは反射的に身構えた。
だが、根は二人へ向かってこなかった。
すべてが地面へ突き刺さったのだ。
「……何を?」
イリスが眉を寄せる。
直後。
「まずい!」
セレスが声を荒らげた。
森の奥。
まだ灰色に染まっていない場所から、無数の淡い光が浮かび上がった。
一本の木から。一輪の花から。土の中に眠る種子から。
森を構成するあらゆる生命から、光が抜け落ちていく。
それらは地面を伝い、黒い根へ集まり始めた。
「範囲を広げる気か!」
セレスが駆け出す。
しかし、怪物もそれを許さなかった。
地面から巨大な根が立ち上がり、彼女の進路を塞ぐ。
「邪魔だ!」
拳を振り抜く。
黒い根が砕け散る。
だが、砕けた場所から新たな根が伸び、瞬く間に壁を再生した。
セレスが二本目を蹴り飛ばす。
その間に三本目が生える。
四本目を破壊すれば、五本目が現れる。
周囲から生命力を吸収し続ける限り、怪物の再生能力は衰えない。むしろ、吸収範囲が広がったことで、その速度はさらに増していた。
「チッ!」
セレスが舌打ちする。
その表情から、先ほどまでの余裕が僅かに消えていた。
敵が強いからではない。
このままでは、森そのものが死ぬ。
目の前の怪物を倒せたとしても、周囲の生命がすべて奪われてしまえば、それはシスターとして望む結果ではなかった。
イリスも同じことを考えていた。
倒さなければならない。
だが、ただ殴っているだけでは間に合わない。
何か。
どこか。
必ず弱点があるはずだ。
イリスは迫る根を躱しながら、怪物の身体を観察した。
黒い樹皮。背中から伸びる枝。地中へ突き刺さった根。
そのすべてを、淡い灰色の光が流れている。
根が生命力を吸収するたび、光は怪物の身体へ集まっていく。
最初は腹部。
そこから背中へ。
そして。
「……あれ?」
イリスの視線が止まった。
怪物の胸。
ひび割れた樹皮の奥。
そこだけが、他の部分とは明らかに違う輝きを放っている。
吸収された生命力が、すべてその一点へ集まっているのだ。
「……そういうこと?」
イリスが目を見開く。
根は生命力を吸収するための器官。
枝は外敵を排除するための武器。
外殻は本体を守るための鎧。
ならば。
そのすべてを動かしているものは。
「セレス!」
「あ!?」
「胸です!」
「胸?」
セレスが根を殴り飛ばしながら振り返る。
「吸った生命力が全部そこに集まってます!多分、核みたいなものが!」
セレスの視線が怪物の胸へ向いた。
確かに、そこには周囲とは異なる強い魔力反応が存在している。
外殻の奥。
何重もの組織に守られた中心部。
怪物の生命活動を維持していると思われる場所だった。
「なるほど」
セレスの口元が吊り上がる。
「そこぶっ壊しゃいいんだな?」
「多分!」
「了解!」
「ちょっと!多分ですよ!?」
「十分だ!」
「よくない!」
セレスが再び拳を握る。
「イリス!」
「はい!」
「道開けろ!」
その言葉に、イリスは一瞬だけ目を見開いた。
そして。
笑った。
「もう!人使い荒いんですから!」
イリスが地面を蹴る。
怪物との距離は、およそ三十メートル。
その間には、無数の黒い根が立ちはだかっていた。
一本一本が生き物のように蠢き、近づくものを容赦なく貫こうとしている。
だが、イリスは止まらなかった。
「――我が祈りを、力へ!」
再び祈りを捧げる。
胸元から溢れた光が全身を包み、銀色の髪を淡く照らした。
その光は、先ほどまでとは少し違っていた。
強い。
しかし、ただ強いだけではない。
イリスは自分の身体へ流れ込む力を、これまで以上に意識していた。
足へ。
腕へ。
拳へ。
必要な場所へ、必要なだけ。
セレスが見せてくれた魔力操作。
そのすべてを真似することなど、今のイリスには到底できない。
それでも。
ほんの少しだけなら。
最初の根が迫る。
イリスは右腕へ魔力を集中させた。
「はぁぁっ!」
拳が根へ突き刺さり、黒い外殻が砕け散る。
だが、その直後、右脚の動きが僅かに鈍った。
「……っ!」
魔力を腕へ集めすぎた。
踏み込みが浅くなり、身体の軸がぶれる。二本目の根が横から迫り、イリスは慌てて身体を捻った。
根の先端が脇腹を掠め、魔力膜が大きく削られる。
「くっ……!」
痛みに顔を歪めながら、イリスは地面を蹴って距離を取った。
失敗した。
必要な場所へ力を集めることと、他の場所から力を抜きすぎることは違う。
その違いを、身体で思い知らされた。
脳裏に、先ほどセレスが言っていた言葉が蘇る。
『削られた場所へ必要な分だけ流せ。全部に同じ量ぶち込んでたら無駄が多い』
「……必要な分だけ」
イリスは小さく呟いた。
右腕に集めていた魔力を少しだけ減らす。その分を脚へ戻し、全身を巡る流れを意識する。
セレスのように完璧にはできない。
複数の高位術式を重ねることも、魔力の一滴まで無駄なく扱うことも、今の自分には不可能だ。
けれど。
教わったことを、一つずつ。
「……よし!」
イリスが再び踏み込んだ。
今度は右腕だけではない。踏み込みに必要な力を脚へ残し、拳が根へ触れる瞬間だけ腕への魔力を強める。
破砕音。
一本目の根が砕け散る。
続く二本目を蹴り折り、三本目を両手で掴んだ。
「このっ!」
力任せに引き寄せ、そのまま身体を回転させる。
根の先端が大きくしなり、隣にあった別の根へ激突した。
二本まとめて地面へ叩きつける。
先ほどよりも、身体が動く。
ほんの僅かな違い。
だが、確かに違った。
「まだまだ!」
イリスは一歩踏み込む。
拳を振り抜く。
蹴り上げる。
掴む。
投げる。
一撃ごとに黒い破片が飛び散り、灰色の土が舞い上がる。
それでも、根は無尽蔵に現れ続けた。
再生。
再生。
また再生。
普通ならば、心が折れてもおかしくない光景だった。
どれだけ破壊しても、終わりが見えない。
だが、イリスは諦めなかった。
自分一人で倒す必要はない。
セレスがいる。
だから。
自分は、自分にできることをする。
「セレス!」
「おう!」
「もう少しです!」
「分かってる!」
背後から返ってくる声。
その声に、イリスはさらに力を込めた。
目の前へ迫る最後の根。
今までのものよりも遥かに太く、幾重もの根が絡み合って形成された巨大な壁だった。
イリスは両腕を前へ伸ばす。
正面から受け止めた。
「――っ!」
凄まじい圧力が両腕へかかる。
足元の地面が砕け、靴底が土を抉った。
全身を覆う魔力膜が激しく揺らぎ、接触部分から魔力が吸い取られていく。
それでも。
離さない。
「この……!」
イリスが歯を食いしばる。
祈りの光が強まる。
だが、今度は闇雲に魔力を注ぎ込まなかった。
両腕へ必要な力を集め、足元には踏ん張るための魔力を残す。腰を落とし、身体全体で根の重さを受け止める。
一瞬だけ、怪物の根が動きを止めた。
「どいてくださいっ!!」
叫びとともに、巨大な根を持ち上げた。
そのまま身体を捻り、全力で横へ投げ飛ばす。
轟音。
根の壁が隣の木々へ叩きつけられ、周囲の枝を巻き込みながら崩れ落ちた。
道が開く。
怪物の胸へ続く、一直線の道。
ほんの数秒。
それだけの時間しか保たない道。
だが。
それで十分だった。
「セレス!」
「おう!」
イリスが振り返る。
「今です!」
「上出来!」
その瞬間。
セレスが地面を蹴った。
先ほどまでとは比較にならないほどの魔力が、彼女の全身を駆け巡る。
脚へ。
腰へ。
背中へ。
肩へ。
そして。
右拳へ。
すべての力が、一点へ収束していく。
怪物も気づいた。
胸の奥で灰色の光が激しく脈打ち、周囲に散らばっていた根が一斉に戻ろうとする。
だが、遅い。
セレスはすでに、怪物の眼前へ到達していた。
「――断罪」
静かな声だった。
先ほどまでの荒々しい戦いぶりからは想像もできないほど、落ち着いた声。
しかし、その言葉と同時に放たれた拳には、圧倒的な破壊の意思が込められていた。
怪物の胸を守る外殻が、拳の接近だけで軋み始める。
圧縮された空気が表面を削り、ひび割れた樹皮の隙間から灰色の光が噴き出した。
怪物は最後の抵抗を試みた。
胸の前へ根を集める。
外殻を厚くする。
周囲から生命力を吸い上げ、防御へ回す。
しかし、すべてが間に合わない。
拳が、胸へ叩き込まれる。
その瞬間。
イリスの脳裏に、何かが引っかかった。
「……あ」
何だったか。
大事なこと。
戦う前に、自分はセレスへ何かを頼んだはずだった。
そう。
確か。
「待って!」
「なんだ!」
「セレス!」
「だからなんだ!」
「肉片残してくださいよ!!」
「任せろ!」
「その返事信用できない!!」
次の瞬間。
世界が爆ぜた。
轟音。
いや。
それは、もはや単なる打撃音ではなかった。
圧縮された膨大な魔力が怪物の内部へ流れ込み、中心部で一気に解放される。黒い外殻が内側から砕け、全身を巡っていた灰色の光が激しく明滅した。
一瞬だけ、怪物の身体が内側から透けて見えた。
無数の根。枝。外殻。そして、胸の奥で脈打っていた核らしきもの。
そのすべてが、セレスの拳を中心に発生した衝撃へ呑み込まれていく。
地面が割れた。
周囲の木々が大きくしなり、灰色の土が空高く舞い上がる。衝撃波が円形に広がり、近くに立っていた木々の幹が次々と折れ曲がった。
「きゃぁぁぁぁぁっ!?」
イリスは咄嗟に両腕で顔を庇った。
全身を覆う魔力膜が激しく揺さぶられる。足へ力を込めても、身体が後方へ押されていく。
靴底が地面を削り、数メートルほど滑ったところで、ようやく踏みとどまることができた。
それでも、衝撃は終わらなかった。
怪物が立っていた場所を中心に、凄まじい量の土砂が巻き上がっている。灰色の砂塵が視界を覆い、周囲の景色が完全に見えなくなった。
イリスは目を閉じ、衝撃が収まるのを待つ。
数秒。
いや。
実際には一秒にも満たなかったのかもしれない。
やがて、静寂が戻った。
「…………」
イリスがゆっくり顔を上げる。
土煙が晴れていく。
怪物がいた場所。
そこには。
何もなかった。
「…………」
イリスが目を擦る。
もう一度見る。
いない。
右を見る。
いない。
左を見る。
いない。
地面には巨大な陥没が残されている。
だが。
ない。
樹皮の欠片すら、残っていない。
「…………」
イリスはしばらくその場に立ち尽くしていた。
戦闘は終わった。
怪物は消えた。
灰色の森を生み出していた原因と思われる存在は、確かに排除された。
それ自体は喜ばしいことのはずだった。
だが。
一つだけ。
非常に重要な問題が残っていた。
少し離れた場所。
土煙の中から、セレスが歩いてきた。
黒いグローブについた埃を払い、軽く首を鳴らす。
「ふぅ」
まるで、ちょっとした運動を終えたかのような顔だった。
「セレス」
「おう」
「肉片は?」
「…………」
セレスが止まった。
「肉片」
「…………」
視線が逸れる。
「セレス?」
「…………」
「こっち見てください」
セレスは少しだけ考えるような仕草を見せた。
そして。
ゆっくりと。
拳を高く掲げた。
満面の笑み。
「断罪完了だ」
ガッツポーズ。
「完了じゃないですよぉぉぉぉぉ!!」
イリスの叫びが、静まり返った森へ響き渡った。
その声に返事をする生き物はいない。
怪物が消えても、灰色に染まった森が元へ戻ることはなかった。
一度奪われた生命は戻らない。
木も、草も、花も。
灰色の姿を保ったまま、ただそこに存在している。
けれど、少なくともそれ以上、灰色の領域が広がることはなかった。
二人を覆う魔力が削られる速度も、少しずつ弱まっている。
異変は止まった。
原因は排除した。
少なくとも、二人にはそう見えた。
その遥か下。
光など届かない地中深く。
セレスの拳が大地を揺らした、そのさらに下。
幾重もの土に覆われた暗闇の中で、灰色に染まった一本の細い根が残されていた。
動かない。
生命の気配もない。
ただの残骸。
そう見えた。
だが。
しばらくして。
一度だけ。
それは、確かに脈打った。




