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断罪の拳 1

「イリス!」


無数の黒い根が地面を突き破り、灰色の森を縦横無尽に駆け巡っていた。砕いても、折っても、周囲の生命を奪って再生する。終わりの見えない攻撃を前に、イリスは額に浮かんだ汗を拭う余裕すら失っていた。


「はい!」


「十秒稼げ!」


「十秒!?」


思わず聞き返したイリスの頭上を、槍のように尖った枝が通り過ぎた。銀色の髪が風圧に煽られ、数本の毛先が宙へ舞う。イリスは反射的に身を屈め、足元から突き上がってきた根を蹴り砕いた。


「出来るだろ!」


セレスはそう言いながら後方へ跳躍し、怪物との距離を取った。その表情に、先ほどまで浮かんでいた笑みはない。黒いグローブを締め直し、足の位置を確かめるように地面を踏みしめている。


何をするつもりなのか、イリスには分からなかった。


ただ、分かることもある。


セレスが自分に時間を求めている。


あの、六百十二年もの間、世界の異変と戦い続けてきた《断罪のシスター》が。


「……分かりました!」


イリスは大きく息を吸い込むと、セレスを背にして怪物へ向き直った。


「やります!」


両手を胸元で組み、ほんの一瞬だけ目を閉じる。周囲では黒い根が蠢き、地面の下から絶え間なく振動が伝わってきていた。少しでも判断を誤れば、その鋭い先端が身体を貫くだろう。


それでも、祈りを捧げる瞬間だけは、不思議と恐怖が薄れた。


「――我が祈りを、力へ!」


胸元から淡い光が溢れ、全身へ広がっていく。銀色の髪がふわりと浮き上がり、青い瞳の奥に光が宿った。


身体が軽くなる。筋肉の一つ一つに力が満ち、足の裏から伝わる地面の感触が、普段よりも鮮明になっていく。


だが、それと同時に、周囲の灰色の空気が光を削り取ろうとした。


祈りによって生まれた力と、森そのものが持つ魔力吸収。


二つの力が、イリスの身体の表面でせめぎ合っていた。


「……十秒くらい!」


イリスは拳を握り締める。


「なんとかしてみせます!」


怪物が反応した。


腹部から伸びていた十数本の根が一斉に地面を這い、イリスへ向かって殺到する。先端は鋭く尖り、表面を走る灰色の光が脈動に合わせて明滅していた。


一本目が正面から迫る。


イリスは半歩だけ身体をずらし、根の側面へ拳を叩き込んだ。鈍い破砕音とともに黒い外殻が砕け、勢いを失った根が地面へ転がる。


だが、その破片が落ち切るより早く、二本目が左側から迫っていた。


「っ!」


右脚を軸に身体を回転させ、踵を振り抜く。蹴りを受けた根が折れ曲がり、隣から迫っていた三本目へ衝突した。二本まとめて弾き飛ばした直後、イリスは地面を蹴って後方へ跳躍する。


一瞬遅れて、足元から四本目が突き上がった。


「危なっ……!」


着地した瞬間、今度は背後から風を切る音が聞こえた。


振り返る時間はない。


イリスは上体を強引に捻り、肩越しに迫っていた根を躱した。しかし、完全には避けきれなかった。鋭い先端が右腕の袖を裂き、布の下を覆っていた魔力膜を削り取る。


「くっ……!」


焼けた鉄を押し当てられたような痛みが走った。


慌てて魔力を補充する。だが、その一瞬の意識の乱れを見逃すほど、怪物は甘くなかった。


五本目。


六本目。


さらに七本目。


三方向から迫る根が、逃げ道を塞ぐように交差する。


「このっ!」


イリスは真正面から迫った一本を両手で掴んだ。指先を覆う魔力膜が激しく削られ、触れた場所から力を吸い取られるような不快感が広がっていく。


構わず引き寄せる。


そのまま身体を回転させ、掴んだ根を他の二本へ叩きつけた。


轟音とともに黒い破片が飛び散る。


だが、安心する暇はなかった。


地面へ落ちた破片から細い根が伸び、周囲の草木へ突き刺さっていく。生命力を吸収した破片が膨らみ、失われた部分を再生し始めた。


「もうっ!何回壊せばいいんですか!」


答える声はない。


代わりに、怪物の腹部が大きく脈打った。


ドクン。


その振動に合わせ、さらに多くの根が地中を走り始める。


イリスは歯を食いしばった。


倒す必要はない。


今は、セレスに攻撃を向けさせなければいい。


そう考え、彼女は怪物の注意を引くように大きく地面を蹴った。


「こっちです!」


祈りの光を纏った拳で根を砕きながら、怪物の側面へ回り込む。根がイリスを追って方向を変え、その分だけセレスの周囲から攻撃が減っていった。


作戦は成功している。


けれど。


「セレス!まだですか!」


「あと三秒!」


「長い!」


思わず叫んだ。


たった三秒。


普段なら瞬きを数回する程度の時間だというのに、今のイリスには途方もなく長く感じられた。


右腕の魔力膜が再び削られる。左脚へ流していた強化の力が僅かに乱れ、踏み込みが浅くなった。そのせいで根を砕ききれず、反撃を受けそうになる。


「……っ!」


危うく体勢を崩しかけたところで、イリスは地面へ片手をつき、強引に身体を持ち上げた。


こんなところで倒れている場合ではない。


自分が失敗すれば、セレスに攻撃が向かう。


そう思った瞬間、背後から流れてくる魔力の気配が変わった。


「……え?」


イリスは根を蹴り飛ばしながら、僅かに振り返った。


そして、息を呑んだ。


セレスの身体を、赤みを帯びた魔力が幾重にも取り巻いていた。


それまで薄い膜として全身を覆っていた魔力が、今は肉体の内側へ深く浸透するように流れ込んでいる。右脚から左脚へ、腰から背中へ、肩から腕へ。複雑な経路を描きながら循環する魔力は、どこにも滞ることなく、正確な秩序を保っていた。


身体強化魔法。


それ自体は珍しいものではない。


魔力によって筋力や反応速度を高める術式は、戦闘を生業とする魔術師や騎士の間でも広く知られている。


だが、セレスが行っているのは、そんな単純な強化ではなかった。


筋肉の収縮速度を引き上げ、骨格そのものを強化し、関節へかかる負荷を軽減する。さらに神経伝達を加速させる術式まで組み込まれ、そのすべてを魔力循環の補助術式が支えていた。


一つ一つが独立した高位の身体強化魔法。


それらを、同時に発動させている。


本来ならば、極めて危険な行為だった。


筋力だけを強化すれば、その力に骨が耐えられない。反応速度だけを引き上げれば、意識に肉体が追いつかなくなる。魔力を過剰に流し込めば、肉体そのものが内側から破壊される危険すらある。


複数の強化術式を重ねる場合、必要なのは単純な魔力量ではない。


それぞれの術式が生み出す力を理解し、互いに干渉しないよう調整し続ける、途方もなく精密な魔力操作だった。


しかし、セレスにはその危うさが微塵もなかった。


幾重にも重なった術式は、まるで一つの巨大な魔法陣を構成する歯車のように噛み合い、彼女の肉体を極限まで引き上げている。


どれほど複雑な魔法を同時に使用しているというのに、魔力の流れには僅かな乱れすらない。


「……嘘」


イリスの口から、思わず声が漏れた。


強いことは知っていた。


自分とは比べものにならないほど経験豊富なことも、理解していたつもりだった。


けれど。


ここまでとは。


「三」


セレスが腰を落とした。


その瞬間、全身を巡っていた魔力が一斉に収束を始める。


「二」


怪物が反応した。


背中から伸びる無数の枝が方向を変え、地中を這っていた根までもがセレスへ向かって集まり始める。


イリスへ向けられていた攻撃の一部までが、強引に引き戻されていった。


それは獲物を捕らえようとする動きではなかった。


迫り来る脅威を排除しようとする、生物としての本能に近い反応だった。


「一」


セレスが笑った。


次の瞬間、彼女の足元で大地が悲鳴を上げた。


踏み込みによって圧縮された地面が耐えきれず、蜘蛛の巣状の亀裂を走らせる。遅れて爆ぜた土砂が周囲へ飛び散り、衝撃が空気を震わせた。


イリスには、その動きを目で追うことすらできなかった。


ただ、セレスがいた場所に深い陥没が残り、次に瞬きをした時には、彼女が怪物の眼前へ到達していた。


「行くぞ」


引き絞られた右拳。


その拳へ集約されていたのは、単純な筋力だけではない。


六百十二年という途方もない時間の中で磨き上げられた身体操作。魔力の流れを寸分違わず制御する技術。そして、数え切れないほどの強敵と拳を交えてきた経験。


それらすべてが、たった一つの打撃へと凝縮されていた。


怪物も黙ってはいなかった。


地面を突き破った数十本の根が絡み合い、瞬く間に巨大な防壁を形成する。幾重にも重なった黒い樹皮の表面を灰色の光が走り、吸収した生命力が防御へと注ぎ込まれていった。


そして。


拳と防壁が激突した。


轟音が森を貫いた。


衝突点を中心に空気が圧縮され、次の瞬間には凄まじい衝撃波となって周囲へ解き放たれる。灰色の土が円形に抉れ、近くに立っていた木々の幹が軋みを上げた。


「――っ!」


イリスは咄嗟に腕を交差させ、顔を庇った。


全身を覆う魔力膜が激しく揺さぶられる。衝撃そのものは防げても、足元を伝わってくる振動までは完全に殺しきれない。


だが、それ以上に彼女を驚かせたのは、目の前で起きている光景だった。


「……止めた?」


セレスの拳が、止まっていた。


あのセレスの拳が。


昨日、四メートル近い熊型魔物を数十メートルも吹き飛ばした一撃。それを遥かに上回る魔力を込めた拳が、黒い根の壁によって受け止められていた。


もっとも、防壁も無傷ではない。


拳が触れた場所を中心に亀裂が広がり、内側では無数の根が圧力に耐えきれず砕け続けている。それでも怪物は新たな根を次々と送り込み、破壊された箇所を補強していた。


さらに、怪物の腹部から伸びる根が大きく脈打つ。


周囲に残っていた僅かな草木から淡い緑色の光が抜け落ち、地面を伝って怪物の身体へ流れ込んでいった。吸い上げた生命力は、そのまま防壁の再生へと注ぎ込まれる。


セレスの拳が根を砕く。


怪物が森の生命を奪い、砕かれた場所を修復する。


破壊と再生。


その二つが、恐ろしい速度で拮抗していた。


「へぇ……」


セレスの口元が吊り上がった。


「やるじゃねぇか」


楽しそうだった。


目の前にいるのは、生命を奪い、魔力を喰らい、森そのものを死へ追いやる正体不明の怪物。


それを相手にしてなお、セレスは笑っていた。


しかし、その笑みは決して油断から生まれたものではない。


拳に伝わる抵抗。根が再生する速度。魔力の吸収量。そして、怪物がどこまで自分の攻撃に対応できるのか。


彼女は今、この一瞬で相手の能力を測っていた。


やがて、防壁を構成していた根の一本が限界を迎え、内側から弾け飛んだ。


その直後だった。


怪物が動いた。


拳を受け止めていた根の一部が解け、蛇のようにセレスの右腕へ巻きつく。


「セレス!」


イリスが叫んだ時には、すでに遅かった。


根の表面を灰色の光が走る。


セレスの腕を覆っていた魔力膜が急激に薄くなり、その魔力が根を通じて怪物の身体へ流れ込んでいく。


魔力吸収。


この森を死へ追いやった能力が、ついにセレス自身へ牙を剥いたのだ。


「離れてください!」


イリスが駆け出そうとする。


「来んな!」


鋭い声が飛んだ。


その一言に、イリスの足が止まる。


「でも、このままじゃ……!」


「いいから見てろ」


セレスは逃げようとしなかった。


腕に絡みついた根を振り払うことも、空いた左手で破壊することもしない。ただ、じっと怪物を見据えている。


魔力は吸われ続けていた。


普通の魔術師なら、とうに意識を失っていてもおかしくない量だった。ましてや、この森では立っているだけでも魔力を削られる。吸収を受けながら戦闘用の術式を維持するなど、常識的に考えれば自殺行為に等しい。


だというのに。


「……はは」


セレスが笑った。


「俺から吸うのか?」


彼女の全身を巡る魔力が、変化した。


それまで根によって一方的に奪われていた魔力が、今度はセレス自身の意思によって送り込まれ始めたのだ。


それも、先ほどまでとは比較にならない量で。


怪物の根が大きく脈打った。


一度。


二度。


三度。


魔力を吸収するたび、黒い根の内側を灰色の光が駆け抜けていく。


だが、その光は次第に不規則な明滅へと変わっていった。


根の表面が膨らむ。


硬い樹皮が内側から押し広げられ、細かな亀裂が走り始めた。


怪物は吸収を止めようとした。


しかし、遅い。


セレスはすでに、相手の吸収経路そのものを利用して魔力を流し込んでいた。


怪物が生命力を奪うために作り上げた経路。その流れに逆らうのではなく、流れそのものを利用し、処理しきれないほどの魔力を送り込む。


根は吸収することには長けていた。


だが、吸収したものを無限に蓄えられるわけではない。


内側を走る魔力が限界を超え、外殻のあちこちから灰色の光が漏れ始めた。


「残念だったな」


セレスが左手を右拳へ添える。


口元には、相変わらず獰猛な笑みが浮かんでいた。


「俺の魔力は――」


根が軋む。


亀裂から光が噴き出す。


「ちっと重いぞ」


次の瞬間。


怪物の根が、内側から爆ぜた。


膨大な魔力に耐えきれなくなった根が次々と破裂し、黒い破片を周囲へ撒き散らす。破壊はセレスの腕に絡みついていた部分から防壁全体へと広がり、再生が追いつくよりも早く、その構造を崩壊させていった。


その中心を、セレスの拳が突き抜けた。


防壁が崩壊する。


拳は勢いを失わない。


むしろ、束縛から解放されたことでさらに加速した。


そして、怪物の胴体へ直撃する。


凄まじい衝撃が巨体を貫いた。


五メートルを超える怪物の四肢が地面から離れ、黒い樹皮に覆われた身体が宙へ浮かび上がる。


そのまま後方へ吹き飛び、灰色の木々を次々となぎ倒した。


一本。


二本。


三本。


巨体は地面へ叩きつけられても止まらず、土を深く抉りながら転がり続ける。


ようやく静止した時には、森の中に長い破壊の跡が刻まれていた。


「…………」


イリスは言葉を失っていた。


ただ強いだけではない。


魔法も、身体能力も、戦闘技術も。


そのすべてが、自分とはまるで違う領域にある。


これが六百十二年。


これが《断罪のシスター》。


セレスティア・ローレン。


世界の均衡を守る、九人のシスターの一人。


「……すご」


ようやく漏れた声は、それだけだった。


だが、戦いはまだ終わっていなかった。

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