戒律の試練
帝立魔導研究院の正門をくぐったイリスは、最後にもう一度だけ背後を振り返った。
午後の陽光に照らされた帝都グラン・ヴァルグの大通りには、相変わらず多くの人々が行き交っている。魔力を動力とする車両が滑らかに石畳を走り、その頭上では、幾重にも張り巡らされた空中回廊を研究者や商人たちが忙しなく歩いていた。遠くに聳える巨大な魔導塔の周囲には、ゆっくりと回転する金属製の環が浮かび、都市全体を満たす魔力の流れに合わせて淡い青色の光を放っている。
その景色のどこにも、セレスの姿はなかった。
つい先ほどまで隣にいた頼もしい先輩は、北方王国ノルヴァーンへ向けて旅立ってしまったのだ。
「……よし」
イリスは小さく息を吐き、胸元で拳を握った。
寂しくないと言えば、嘘になる。
シスターになってからの三年間、彼女は多くの任務を経験してきた。しかし、危険な場所へ赴く時には、いつも経験豊富な先輩たちが傍にいた。特にセレスとは行動を共にする機会が多く、その豪快な性格に振り回されながらも、数え切れないほど助けられてきた。
灰色の森で遭遇した怪物との戦いも、そうだった。
あの時、セレスがいなければ、自分はどうなっていただろう。
巨大な根に押し潰されていたかもしれない。魔力を吸い尽くされ、動けなくなっていたかもしれない。
それでも、何もできなかったわけではない。
怪物の弱点を見つけたことも、根を突破するために魔力の使い方を工夫したことも、そして失われた森に再び緑を芽吹かせたことも、すべて自分自身の経験だった。
セレスは言ってくれた。
強くなった、と。
その言葉に恥じないシスターになりたい。
そう思いながら、イリスは研究院の奥へと歩き出した。
磨き上げられた白い床に、規則正しい靴音が響く。廊下の壁面には複雑な魔法文字が刻まれ、天井近くを小さな光球が巡回していた。研究員たちは書類や魔導器具を抱えて行き交い、時折、銀髪の少女に気づいて驚いたように頭を下げる。
帝立魔導研究院。
魔導帝国ヴァルグリムが誇る、世界有数の魔法研究機関。
その地下深くに、九人のシスターの一人が研究室を構えている。
《戒律のシスター・リディア》。
リディア・クロイツ。
在任四百八十七年。
人間でありながら、魔法という学問の深淵に最も近い場所へ辿り着いたとさえ評される、稀代の天才。
そして。
「……おかえりー」
「……相変わらずですね」
研究室の扉を開けたイリスは、思わず苦笑した。
リディアは机の上に積み重なった魔導書の一冊を読みながら、空中に浮かぶ無数の術式を眺めていた。
黒く艶やかな髪が肩から零れ落ち、紫色の瞳が眼鏡の奥で細かな魔法文字を追っている。白と黒を基調としたシスター服の上には研究用の外套が羽織られ、その裾にはいつ付いたのか分からないインクの染みが残っていた。
机の端には、包み紙の開いた菓子がいくつか転がっている。
どうやら、イリスたちが出ている間も研究を続けていたらしい。
「ただいま戻りました!」
「うんうん。セレス、行ったぁ?」
「はい。北方王国へ向かいました」
「そっかぁ」
リディアは小さく頷いた。
そして、読んでいた魔導書をぱたりと閉じる。
「……じゃあ、始めよっかぁ」
「……はい?」
イリスは首を傾げた。
「何をですか?」
「実力確認だよぉ」
「……実力確認?」
「うん。これから一緒に行動するんだし、今のイリスがどれくらい戦えるのか知っておきたいんだよねぇ」
リディアは椅子から立ち上がり、軽く伸びをした。
長時間同じ姿勢で座っていたせいか、背中から小さく骨の鳴る音がする。
「セレスと一緒に、あの灰色の怪物と戦ったんでしょぉ?」
「はい」
「だったら、三年前よりずっと強くなってるはずだよねぇ」
「……そう、だといいんですけど」
イリスは少しだけ視線を逸らした。
実力を確認する。
その言葉自体は、何もおかしくない。
シスターたちはそれぞれ異なる能力を持ち、得意とする戦闘方法も違う。任務で協力する以上、互いに何ができて、何ができないのかを知っておくことは重要だった。
問題は、相手がリディアであるということだった。
「…………」
イリスの脳裏に、三年前の記憶が蘇る。
シスターに任命されたばかりの頃。
まだ自分の魔力を満足に制御することもできなかったイリスに、基礎を教えてくれたのがリディアだった。
『……違うよぉ、イリス』
『えっ?』
『魔力が途中で散ってる。もう一回ねぇ』
『は、はい!』
『……うん。今度は右側に偏ってるねぇ』
『す、すみません!』
『謝らなくていいよぉ。できるまでやればいいんだからぁ』
その言葉は、確かに優しかった。
リディアは怒鳴らない。
失敗した相手を責めることもない。
ただし、できるようになるまで終わらせてくれない。
何度失敗しても、何時間経っても、穏やかな笑顔のまま同じ課題を繰り返させる。
それが、リディアの教育方針だった。
しかも本人には、厳しく指導しているという自覚がほとんどない。
「……リディアさん」
「んー?」
「手加減、してくれますよね?」
リディアはにっこりと笑った。
「もちろんだよぉ」
「……本当ですか?」
「うん。死なない程度にはねぇ」
「怖いです!」
「えー、何でぇ?」
「何でじゃありませんよ!」
イリスが抗議すると、リディアは不思議そうに首を傾げた。
「大丈夫だよぉ。ちゃんと安全には気をつけるからぁ」
「……信用していいんですよね?」
「もちろん」
その笑顔には、悪意の欠片もなかった。
だからこそ、イリスは余計に不安になった。
◆
「……じゃ、行こっかぁ」
リディアが人差し指を立てた。
「え? どこへですか?」
「訓練場だよぉ」
「訓練場って、どこに――」
言い終えるよりも早く、イリスの足元を淡い光が走った。
次の瞬間。
世界が、入れ替わった。
「……え?」
一瞬前まで目の前にあった机も、積み上げられた魔導書も、天井近くを回転していた無数の術式も、すべてが消えていた。
代わりに広がっていたのは、巨大な石造りの空間だった。
高く聳える天井には幾何学模様の魔法陣が刻まれ、そこから放たれる白い光が地下空間全体を照らしている。円形に広がる闘技場の周囲には階段状の観客席が設けられ、そのさらに外側を、幾重もの防御結界が取り囲んでいた。
床には巨大な術式が刻まれている。
その線の一本一本に魔力が流れ、複雑な模様を形成していた。
「……えええええっ!?」
イリスの叫びが、広大な空間に反響した。
「こ、ここは!?」
「研究院の地下闘技場だよぉ」
リディアは何でもないことのように答えた。
「高位魔法の実験とか、戦闘訓練に使う場所なんだぁ」
「いや、そうじゃなくて!」
イリスは慌てて周囲を見回した。
「今、研究室にいましたよね!?」
「うん」
「なのに、どうしてここに!?」
「転移したからぁ」
「転移魔法!?」
「うん」
「今、何もしてませんでしたよね!?」
「指は立てたよぉ」
「そういう意味じゃありません!」
リディアはくすくすと笑った。
転移魔法。
空間の座標を指定し、対象を瞬時に別の場所へ移動させる高位魔法。
その術式は極めて複雑で、移動先の位置だけでなく、空間の歪みや周囲の魔力密度、対象の質量に至るまで正確に計算する必要がある。
僅かな誤差が生じれば、転移先の壁や床と身体が重なってしまう危険すらあるため、通常は何重もの安全術式を組み込まなければならない。
当然、発動までには相応の時間が必要になる。
それを、リディアは指一本で行った。
しかも、自分だけではなくイリスまで同時に。
「……どうやったんですか?」
イリスが呆然と尋ねる。
「んー?」
「術式の構築です! 何も見えませんでした!」
「見えないようにしてるわけじゃないんだけどねぇ」
リディアは少し考えるように視線を上げた。
「魔法って、必要な手順を全部並べればいいってものじゃないんだよぉ」
「……はい?」
「同じ結果になるなら、無駄な過程は省いた方がいいでしょぉ?」
リディアは床に刻まれた魔法陣を指さした。
「例えば、転移魔法を使う時に必要なのは、現在位置の把握、移動先の指定、対象の保護、それから空間の接続と切断。他にも色々あるけどぉ、全部を毎回一から組み立てる必要はないんだよねぇ」
「……そうなんですか?」
「うん。術式の構造を完全に理解していれば、最初から最適な形で成立させられるからぁ」
イリスは必死に理解しようとした。
しかし、理解できたのは、リディアがとんでもないことを言っているという事実だけだった。
「……つまり?」
「慣れれば簡単だよぉ」
「絶対簡単じゃありません!」
「……そう?」
リディアは本気で不思議そうだった。
イリスは深いため息をついた。
灰色の森でセレスが見せた魔法技術も、十分に常識外れだった。
だが、リディアのそれは、さらに別の領域にある。
セレスが複雑な術式を極限まで正確に扱う達人だとすれば、リディアは術式そのものを理解し尽くし、必要な結果へ最短距離で辿り着く研究者だった。
「……さて」
リディアが闘技場の中央へ歩き出した。
その足取りは軽く、これから戦闘訓練を行うとは思えないほど気楽なものだった。
「まずは、結界を確認しよっかぁ」
彼女が小さく指を動かす。
すると、闘技場を囲んでいた魔法文字が一斉に輝き始めた。
床から壁へ。
壁から天井へ。
淡い光が複雑な軌跡を描きながら走り、透明な膜が幾重にも重なっていく。
イリスはその光景を見上げた。
「……すごい結界ですね」
「うん。ここなら多少派手にやっても大丈夫だよぉ」
「……多少?」
「研究院が吹き飛ぶようなことはないからぁ」
「そんなことするつもりなんですか!?」
「しないよぉ」
リディアは笑った。
「……たぶん」
「また、たぶんって言いました!」
◆
闘技場の中央で、二人は向かい合った。
距離は、およそ二十メートル。
身体強化を使用したイリスなら、一瞬で詰められる距離だった。
リディアは相変わらず穏やかな表情を浮かべている。
「……ルールは簡単だよぉ」
「はい!」
「私に一撃でも当てられたら、イリスの勝ち」
「……一撃?」
「うん。拳でも、蹴りでも、魔法でもいいよぉ」
イリスは少しだけ眉を寄せた。
一撃。
たった一撃でいい。
それは一見すると、随分と有利な条件に思えた。
しかし、相手は在任四百八十七年のシスター。
その条件を提示するということは、リディアには一撃すら受けない自信があるのだろう。
「……分かりました」
イリスはゆっくりと拳を握った。
「絶対に当ててみせます!」
「うん。楽しみにしてるねぇ」
リディアが微笑む。
その笑顔を見つめながら、イリスは胸元で両手を組んだ。
そして、祈る。
「――我が祈りを、力へ!」
淡い光が、イリスの身体を包み込んだ。
祈りによって生み出された魔力が全身を巡り、筋肉、骨格、神経へと流れ込んでいく。
視界が鮮明になる。
耳に届く微かな音が、輪郭を持って聞こえる。
足裏から伝わる石床の感触も、空気が肌を撫でる感覚も、普段より遥かに明瞭だった。
だが、今回は以前とは違う。
魔力をただ全身へ流し込むのではない。
足へ。
腰へ。
肩へ。
そして、拳へ。
必要な場所へ、必要な量だけ。
灰色の森でセレスに教わったことを思い出しながら、イリスは魔力の流れを丁寧に整えていった。
「……へぇ」
リディアが小さく呟いた。
「魔力の使い方、上手くなったねぇ」
「……ありがとうございます!」
「うん。三年前とは全然違うよぉ」
その言葉に、イリスの胸が少しだけ温かくなった。
リディアは普段こそ気の抜けた話し方をするが、魔法に関しては誰よりも正確だった。
そんな彼女に成長を認められたことが、素直に嬉しかった。
「……じゃあ」
リディアが笑う。
「始めよっかぁ」
次の瞬間。
イリスは床を蹴った。
石造りの床に細かな亀裂が走る。
身体強化によって引き上げられた脚力が、彼女の身体を弾丸のように前方へ押し出した。
二十メートル。
その距離が、一瞬で縮まる。
イリスは右拳を引いた。
狙うのは、リディアの肩。
本気で殴りつける必要はない。
拳を当てることさえできれば、それで勝ちなのだから。
「……いきます!」
踏み込む。
腰を回す。
拳を振り抜く。
しかし。
「……遅いねぇ」
リディアの姿が、消えた。
「……え?」
拳が空を切った。
確かに、そこにいたはずだった。
だが、今は何もない。
勢い余ったイリスの身体が前方へ流れ、靴底が石床を削る。
「……こっちだよぉ」
背後から声がした。
イリスが振り返る。
そこには、先ほどとまったく変わらない姿勢で立つリディアがいた。
その表情には、焦りも緊張もない。
まるで散歩の途中で知り合いに声をかけたかのような、気楽な笑顔だった。
「……い、今の!」
「んー?」
「転移魔法ですか!?」
「うん」
「ずるくないですか!?」
「魔法使い相手に、何言ってるのぉ?」
リディアはくすくすと笑った。
「……もう一回です!」
「いいよぉ」
イリスは再び床を蹴った。
今度は一直線には向かわない。
左右へ細かく身体を振り、相手の視線を惑わせながら距離を詰める。
セレスとの訓練で教わった動きだった。
右から踏み込む。
左へ切り返す。
そして、拳を振り抜く。
しかし。
「……うん」
リディアが小さく頷いた。
「さっきよりいいねぇ」
その姿が、再び消えた。
「……っ!」
拳が空を切る。
「でもねぇ」
今度は左後方から声が響いた。
「相手の動きを、ちゃんと見ないと駄目だよぉ」
イリスの肩に、軽く何かが触れた。
「……っ!?」
慌てて飛び退く。
リディアは追撃しなかった。
ただ、静かにイリスを見つめている。
「目で追うだけじゃ、魔法使いには勝てないよぉ」
「……目で?」
「うん。私がどこにいるかじゃなくて、次にどこへ行くかを考えるの」
リディアは人差し指を立てた。
「転移魔法だって、何もないところから突然発動してるわけじゃないんだよぉ。どれだけ短くても、魔力の変化はあるからねぇ」
イリスは息を整えながら、その言葉を噛みしめた。
魔力の変化。
それなら、セレスとの訓練でも何度も教わった。
相手の身体だけを見るのではなく、魔力の流れを感じ取る。
攻撃が放たれる前に、その兆候を察知する。
「……分かりました」
イリスはゆっくりと構え直した。
今度は、リディアの姿だけを見ない。
周囲の魔力へ意識を広げる。
空気中に満ちた魔力。
床を流れる結界の力。
そして、リディアの周囲に存在する、極めて静かな魔力の気配。
不思議だった。
セレスの魔力は、強大でありながらも明確な流れを持っていた。
身体のどこへ、どれだけの魔力が送られているのか。
注意深く観察すれば、その一端を感じ取ることができた。
だが、リディアは違う。
魔力が、ほとんど動いていない。
いや。
動いていないのではない。
あまりにも自然に、あまりにも正確に制御されているため、変化として認識しにくいのだ。
「……難しい」
イリスが小さく呟く。
「うん。難しいよぉ」
リディアは笑った。
「でも、できるようにならないとねぇ」
その言葉に、イリスは拳を握り直した。
「……はい!」
再び、床を蹴る。
今度は、攻撃の直前まで魔力の流れを抑える。
そして、踏み込む瞬間に脚へ魔力を集中させた。
身体が加速する。
リディアの瞳が、僅かに細められた。
「……へぇ」
イリスは拳を振り抜く。
その瞬間。
リディアの周囲に、微かな魔力の変化が生じた。
ほんの僅か。
空間の一点へ、魔力が収束するような感覚。
イリスは反射的に身体を捻った。
拳の軌道を変える。
リディアが消える。
だが、イリスは振り返らなかった。
代わりに、右足を軸にして身体を回転させる。
そして。
「……そこっ!」
背後へ向けて、左拳を突き出した。
空気が震える。
拳の先に、確かな手応えが――。
「……おっと」
なかった。
リディアは、イリスの拳から僅か数センチの位置に立っていた。
その表情には、先ほどまでとは違うものが浮かんでいる。
驚き。
そして、興味。
「……へぇ」
リディアが小さく笑った。
「……今の、よかったねぇ」
「……っ!」
イリスは息を呑む。
「転移先、読もうとしたでしょ?」
「……はい!」
「うん。ちゃんと考えて戦えるようになったんだぁ」
リディアは嬉しそうに頷いた。
「セレス、意外とちゃんと教えてるんだねぇ」
「……意外とって」
イリスは思わず苦笑する。
「……でも」
リディアの声が、少しだけ変わった。
「まだまだ、甘いかなぁ」
その瞬間。
リディアが人差し指を軽く動かした。
「……え?」
イリスの周囲に、魔法陣が現れた。
一つ。
二つ。
三つ。
そして、四つ。
それぞれが異なる色の光を放ちながら、空中に浮かび上がる。
赤。
青。
黄。
緑。
炎。
氷。
雷。
風。
四つの属性。
四つの魔法。
それらが、同時に構築されていた。
「……っ!?」
イリスが息を呑む。
通常、異なる属性の魔法を同時に発動させることは容易ではない。
魔力の性質が異なれば、術式の構造も異なる。
複数の魔法を同時に維持しようとすれば、互いの魔力が干渉し、術式が不安定になる危険がある。
まして、四つの属性を同時に扱うなど。
並の魔術師には、想像すらできない領域だった。
しかし。
リディアは、何でもないことのように立っていた。
その表情には、焦りも緊張もない。
ただ、楽しそうな笑みだけが浮かんでいた。
「……さて」
リディアが口を開く。
「今度は、避ける練習もしよっかぁ」
「……え?」
「攻撃するだけじゃ、勝てないからねぇ」
イリスは周囲を見渡した。
四つの魔法陣が、ゆっくりと回転している。
それぞれの中心には、異なる魔力が集まり始めていた。
赤い魔法陣には、燃え盛る炎。
青い魔法陣には、鋭く尖った氷柱。
黄色い魔法陣には、激しく弾ける雷光。
緑色の魔法陣には、渦を巻く風の刃。
「……リ、リディアさん?」
「んー?」
「……これ、全部同時に来るんですか?」
「うん」
「……本当に?」
「うん」
「……手加減は?」
「してるよぉ」
「どこがですか!?」
リディアはくすくすと笑った。
そして。
「……さあ」
紫色の瞳が、イリスを見つめる。
「どこまでできるようになったか、見せてねぇ」
四つの魔法陣が、一斉に輝いた。
炎が唸りを上げる。
氷が空気を裂く。
雷が弾ける。
風が刃となって渦巻く。
それらすべてが、たった一人の少女へ向けて放たれた。
「……っ!」
イリスは咄嗟に床を蹴った。
右へ。
しかし、その先には氷柱が待ち構えていた。
「……えっ!?」
慌てて左へ跳ぶ。
今度は風の刃が進路を塞ぐ。
さらに頭上から雷光が迫り、正面からは火球が迫っていた。
逃げ場がない。
いや、正確には。
逃げようとした先に、必ず別の魔法が配置されている。
「……そんな!」
イリスは歯を食いしばった。
魔法が速いだけではない。
それぞれの攻撃が、互いの隙を補うように配置されている。
炎から逃げれば氷。
氷を避ければ風。
風を突破すれば雷。
一つの魔法を避けた瞬間、次の魔法が待っている。
まるで、戦場そのものがリディアの意思に従っているかのようだった。
「……魔法はねぇ」
リディアの声が響く。
「威力だけじゃないんだよぉ」
彼女は静かに微笑んでいた。
「相手が何をするか考えて、先に準備しておくものなの」
イリスは迫り来る魔法を見据えた。
避けられない。
ならば、どうする。
頭の中に、セレスの言葉が蘇る。
『必要な場所へ、必要な量だけだ』
魔力は無限ではない。
どれだけ強力な身体強化でも、無駄に使えば消耗する。
そして、すべての攻撃を真正面から受け止める必要もない。
「……っ!」
イリスは呼吸を整えた。
四つの魔法。
炎、氷、雷、風。
それぞれの威力と速度を、可能な限り見極める。
炎は正面。
氷は右。
雷は上。
そして、風は左。
最も突破しやすいのは――。
「……そこっ!」
イリスは左腕へ魔力を集中させた。
全身を巡っていた光が一瞬だけ細まり、次の瞬間、左腕を包むように輝く。
風の刃が迫る。
イリスは腕を振り抜いた。
空気が弾ける。
鋭い風の刃が、拳の衝撃によって軌道を逸らされた。
「……っ!」
その僅かな隙間へ、身体を滑り込ませる。
続けて右足へ魔力を集中。
床を蹴る。
氷柱が足元を掠め、背後で雷光が弾けた。
熱風が頬を撫でる。
だが、イリスは止まらない。
一瞬の判断。
一瞬の加速。
そして。
四つの魔法が作り出した包囲網を、突破した。
「……あれぇ?」
リディアが小さく声を漏らした。
その表情には、僅かな驚きが浮かんでいる。
イリスはその隙を逃さなかった。
「……いきます!」
全身の魔力を右拳へ集中させる。
床を蹴り、最後の距離を詰める。
目の前には、リディアがいる。
あと一歩。
あと半歩。
拳が届く。
「……っ!」
イリスは全力で腕を振り抜いた。
しかし。
――ゴンッ!
鈍い音が響いた。
「……え?」
拳が、止まっていた。
リディアの目前。
ほんの数センチの距離。
そこに、何もないはずの空間があった。
だが、イリスの拳は確かに何かへ衝突していた。
透明な壁。
いや、壁というにはあまりにも薄い。
空気そのものが硬質な物体へ変化したかのような、奇妙な感触だった。
「……防御結界!?」
「うん」
リディアが微笑んだ。
「薄くても、ちゃんと構築すれば十分な強度になるんだよぉ」
イリスは拳へさらに力を込めた。
しかし、動かない。
どれだけ魔力を集中させても、その透明な壁には僅かな揺らぎすら生じなかった。
「……うそ」
思わず声が漏れる。
セレスとの訓練で鍛えた拳。
灰色の怪物の根を突破した身体強化。
それらをすべて込めた一撃が、たった数センチの距離を越えられない。
「……くっ!」
イリスは一度距離を取り、再び踏み込もうとした。
だが。
「……はい、そこまでぇ」
リディアが告げた。
その瞬間、周囲に展開されていた魔法陣が消失した。
炎も、氷も、雷も、風も。
最初から存在しなかったかのように、すべてが静かに消えていく。
イリスは足を止めた。
荒い呼吸が、地下闘技場に響く。
「……はぁ……はぁ……」
身体強化の光が、ゆっくりと薄れていった。
全身に疲労が広がる。
大した時間は経っていないはずだった。
それなのに、長時間戦い続けたかのような消耗を感じていた。
一方、リディアは。
「……うん」
穏やかな笑顔のまま、頷いた。
「合格だねぇ」
「……え?」
イリスは顔を上げた。
「……合格?」
「うん」
「……でも、私」
イリスは自分の拳を見つめた。
「一撃も、当てられませんでした」
悔しかった。
確かに成長していると思っていた。
灰色の森での戦いを経験し、セレスから多くのことを教わった。
以前より強くなった自信もあった。
それなのに。
リディアには、指一本触れることすらできなかった。
「……そっかぁ」
リディアは小さく笑った。
「でもねぇ、イリス」
「……はい」
「別に、勝つことが目的じゃないんだよぉ」
「……え?」
「私が見たかったのは、今のイリスがどれくらい考えて戦えるかってこと」
リディアはゆっくりと歩み寄った。
「最初は、ただ真っ直ぐ突っ込んできたよねぇ」
「……はい」
「でも、途中から魔力の流れを観察して、転移先を予測しようとした」
イリスは顔を上げる。
「最後の四属性も、全部避けようとはしなかったでしょぉ?」
「……はい」
「自分が突破できる場所を探して、必要なところにだけ魔力を集中させた」
リディアは嬉しそうに微笑んだ。
「……うん。すっごくよかったよぉ」
その言葉に、イリスは目を瞬かせた。
「……本当、ですか?」
「もちろん」
リディアは頷いた。
「三年前のイリスだったら、たぶん全部正面から受け止めようとしてたと思うんだよねぇ」
「……うっ」
図星だった。
「でも、今は違う」
リディアの紫色の瞳が、穏やかに細められる。
「ちゃんと考えて、ちゃんと判断して、ちゃんと動けてた」
そして。
「……強くなったねぇ、イリス」
その一言に、イリスの胸が温かくなった。
セレスにも言われた言葉。
強くなった。
その実感は、まだ十分ではない。
けれど、少なくとも自分の努力は無駄ではなかったのだ。
「……ありがとうございます!」
イリスは深く頭を下げた。
リディアはくすくすと笑った。
「でも、まだまだ課題はいっぱいあるよぉ」
「……ですよね」
「特に、魔法そのものへの理解が浅いかなぁ」
リディアは空中へ小さな術式を浮かべた。
複雑な魔法文字が円を描き、淡い光を放つ。
「セレスは実戦での動き方とか、身体強化の使い方を教えるのが上手いけどぉ、魔法理論は結構感覚で説明するところがあるからねぇ」
「……そうなんですか?」
「うん。本人はちゃんと理解してるんだけど、それを人に説明するのは別だからぁ」
イリスは少しだけ納得した。
確かに、セレスの教え方は実践的だった。
まずやってみろ。
失敗したら直せ。
そして、もう一度やれ。
理屈よりも、身体で覚えることを重視していた。
「だから、これからは私が教えてあげるねぇ」
「……リディアさんが?」
「うん」
リディアは微笑んだ。
「魔力制御、術式構築、属性干渉、空間認識……基礎から全部やり直そっかぁ」
「……え?」
イリスの表情が固まった。
「……ぜ、全部ですか?」
「うん」
「……基礎から?」
「うん」
「……どれくらい、かかりますか?」
リディアは少し考えた。
そして、にっこりと笑う。
「できるまでだよぉ」
「…………」
イリスの脳裏に、三年前の記憶が蘇った。
何度も繰り返した魔力制御。
何時間も続いた術式構築。
そして、どれだけ失敗しても変わらない、リディアの穏やかな笑顔。
「……セレスぅぅぅ……」
思わず、遠く離れた先輩の名前を呼んでしまった。
「んー? どうしたのぉ?」
「……何でもありません……」
リディアは不思議そうに首を傾げた。
その時だった。
イリスは、ふとあることに気づいた。
「……あれ?」
「んー?」
リディアは机から持ってきた魔導書を開き、何かを確認している。
その姿を見て、イリスの脳裏に先ほどの戦闘が蘇った。
最初の転移魔法。
続いて、四属性の同時発動。
そして、最後に自分の拳を受け止めた防御結界。
そのすべてを、リディアは驚くほど簡単に行っていた。
だが。
何かがおかしい。
「……リディアさん」
「なぁに?」
「……もしかして」
イリスは、リディアの手元を見つめた。
彼女の左手には、分厚い魔導書が握られている。
研究室から転移してきた時も。
戦闘が始まった時も。
そして、四属性の魔法を同時に発動させた時も。
ずっと。
「……もしかして、リディアさん」
「んー?」
「……ずっと、片手しか使ってませんでした?」
リディアはきょとんとした。
「……そうだっけぇ?」
そして、自分の両手を見下ろす。
左手には魔導書。
右手は、何も持っていない。
「……あー」
何かを思い出したように頷いた。
「そういえば、そうだねぇ」
「…………」
イリスは固まった。
転移魔法。
四属性の同時発動。
あの強固な防御結界。
すべて。
右手だけ。
それも、ほとんど指先を動かす程度の動作しかしていなかった。
「……え」
イリスの口から、間の抜けた声が漏れる。
「……ええええええっ!?」
その叫びが、地下闘技場全体に響き渡った。
「ちょ、ちょっと待ってください!?」
「んー?」
「今の戦い、ずっと片手だったんですか!?」
「うん。そうみたいだねぇ」
「そうみたいって!」
リディアは不思議そうに首を傾げた。
「だって、こっちは本を持ってたしぃ」
「……本!?」
「うん」
「……本を持ってたから!?」
「そうだよぉ」
イリスは絶句した。
あれほど必死に戦った。
全力で身体強化を行い、魔力の流れを読み、四属性の包囲網を突破した。
それでも、一撃すら当てられなかった。
その相手は。
最初から最後まで。
片手しか使っていなかったのだ。
「……でも」
リディアが首を傾げる。
「魔法を使うのに、両手って必要なのぉ?」
「…………」
イリスは何も答えられなかった。
目の前の女性は、決して自分の強さを誇示しているわけではない。
手加減していたことを自慢しているわけでもない。
ただ、本当に不思議そうに尋ねているだけだった。
その事実が、何よりも恐ろしかった。
「……リディアさん」
「んー?」
「……やっぱり、すごい人なんですね」
イリスが呟く。
リディアは少しだけ目を丸くした。
そして、いつものように笑った。
「……何言ってるのぉ」
紫色の瞳が、穏やかに細められる。
「私たち、シスターでしょぉ?」
その言葉に、イリスは息を呑んだ。
世界の均衡を守る九人のシスター。
人間も、魔族も、獣人も、妖精も。
そのいずれにも属することなく、ただ世界の均衡のために存在する者たち。
その一人が、今、目の前にいる。
《戒律のシスター・リディア》。
在任四百八十七年。
魔法という学問を極め続けてきた、世界最高峰の魔術師。
イリスは改めて、その存在の大きさを実感していた。
そして同時に。
自分が、まだまだ未熟であることも。
「……よし!」
イリスは拳を握った。
「私、もっと強くなります!」
「うん。いいねぇ」
リディアは嬉しそうに笑った。
「じゃあ、早速始めよっかぁ」
「……え?」
「基礎訓練」
「……今からですか!?」
「うん。時間は大切だからねぇ」
「ちょ、ちょっと待ってください! 私、まだ休憩も――」
「大丈夫だよぉ。最初は魔力の循環からだからぁ」
「……セレスぅぅぅぅぅ!!」
イリスの悲鳴が、再び地下闘技場に響き渡った。
その隣で、リディアは楽しそうに笑っていた。
魔導帝国ヴァルグリム。
帝立魔導研究院。
その地下深くで、新たな師弟関係が始まろうとしていた。
《祈りのシスター・イリス》。
《戒律のシスター・リディア》。
世界の均衡を守る二人のシスター。
彼女たちがこれから向き合う未知の異変は、未だその正体すら明らかになっていない。
だが、その謎へ近づくために。
そして、いつか訪れるかもしれない戦いに備えるために。
イリスは、再び学び始める。
まだ見ぬ世界の脅威へ立ち向かうために。
そして、いつか。
自分の力で、大切なものを守れるようになるために。




