断罪のシスターセレス
朝の街道を、二人のシスターが歩いていた。
昨夜降った雨の名残が草葉の先で朝日を反射し、道の脇に広がる平原には薄い靄が残っている。
遠くには山々が連なっていた。
そのさらに向こう。
人間たちが暮らす土地と、魔族たちが暮らす土地。
二つの領域が接する場所がある。
人間界と魔界の境界。
かつては幾度となく血が流れた場所。
現在では商人たちが互いの領域を行き来し、限られた場所ではあるものの、人間と魔族が同じ市場で品物を売る光景すら珍しいものではなくなった。
だからといって。
長い歴史の中で積み重なったものが、すべて消えたわけではない。
人間を嫌う魔族もいる。
魔族を恐れる人間もいる。
互いに剣を抜く理由など、探そうと思えばいくらでも転がっている。
そんな場所で。
「セレス」
「あ?」
「それ、私のパンですよね?」
「そうだな」
「…………」
「…………」
「なんで食べてるんですか?」
「腹減ったから」
「返してください!」
「もう食った」
「まだ半分残ってるじゃないですか!」
世界の均衡を守る二人のシスターは、パンを巡って争っていた。
イリスがセレスの持つパンへ手を伸ばす。
セレスはひょいと腕を上げた。
「あっ!」
身長百五十八センチのイリス。
身長百七十六センチのセレス。
その差、十八センチ。
「届かない……!」
「諦めろ」
「ずるいです!」
「何がだ」
「身長です!」
「俺に言うな」
「返してください!」
「だから食ったって」
「残ってます!」
イリスがぴょんぴょん跳ねる。
セレスはパンを持った腕を上げたまま、欠伸をした。
「朝っぱらから元気だな、お前」
「誰のせいですか!」
「元気なのはいいことだ」
「話を逸らさないでください!」
結局。
パンはセレスの胃袋へ消えた。
「…………」
「なんだその顔」
「楽しみにしてたのに……」
「村でもらったやつ、まだあるだろ」
「これはこれ!あれはあれです!」
「面倒くせぇ奴だな」
「セレスにだけは言われたくありません!」
そんなやり取りをしながら、二人は街道を進んでいく。
時折、馬車とすれ違った。
荷台いっぱいに穀物を積んだ商人。
武器を腰に下げた冒険者。
大きな荷物を背負った獣人の旅人。
彼らの多くが、二人の修道服に気づくと足を止めた。
中には深々と頭を下げる者もいる。
イリスはそのたびに慌てて頭を下げ返した。
「おはようございます!」
「いちいち返さなくてもいいぞ」
「挨拶されたんだから返すのが普通ですよ」
「首疲れねぇ?」
「疲れません!」
「そうか」
セレスは興味なさそうに欠伸をする。
その横顔を見ながら、イリスは小さく息を吐いた。
そして。
「……人間を守ることでもない、かぁ」
ぽつりと呟く。
「ん?」
「あっ、いえ」
「昨日の話か?」
「……はい」
イリスは歩きながら、自分の手を見る。
マザーの言葉が、ずっと頭に残っていた。
――あなたたちの仕事は、魔物を倒すことではありません。
――人間を守ることでもありません。
――何が起きているのかを見てきなさい。
「やっぱり、よく分からなくて」
「何が」
「だって……困ってる人がいたら助けるじゃないですか」
「お前はな」
「セレスは助けないんですか?」
「場合による」
「またそれ……」
イリスが頬を膨らませる。
「昨日からそればっかりじゃないですか」
「じゃあ聞くな」
「教えてくれないから聞いてるんです!」
セレスが横目でイリスを見る。
少しだけ考えるような間を置いてから。
「イリス」
「はい?」
「腹減ってる奴が二人いる」
「はい」
「パンが一個しかない」
「……はい」
「どうする?」
「半分にします」
「片方が人間で、片方が魔族でも?」
「します」
「片方が人を殺したことのある魔族だったら?」
「え?」
「人間の方は子供が三人いる父親だ。魔族の方は昔、人間を十人殺してる。ただし今は戦争をやめて、家族と静かに暮らしてる」
「…………」
「パン一個じゃなきゃ駄目なんですか?」
「そこ気にすんな」
「だって……」
「ほらな」
セレスが笑った。
「お前はすぐ、全員助けようとする」
「駄目なんですか?」
「駄目とは言ってねぇ」
セレスは前を見る。
「ただ、世界ってのはいつも半分こできるほど綺麗じゃねぇってだけだ」
「…………」
「ま」
セレスがイリスの頭を軽く叩いた。
「三歳児にはまだ早ぇか」
「三歳じゃありません!」
「シスター歴三年」
「分かってます!」
結局。
答えは教えてくれなかった。
◆
昼前。
二人は目的地へ到着した。
人間界側の国境にほど近い、小さな町だった。
高い防壁があるわけでもない。
街道沿いに宿屋や商店が並び、少し離れた場所には畑が広がっている。
一見すれば、どこにでもある地方の町。
だが。
「……少ないですね」
イリスが呟いた。
「ああ」
人が少ない。
店は開いている。
家々から生活の気配もする。
しかし、外を歩いている者が明らかに少なかった。
特に子供がいない。
「怖がってんだろ」
セレスが言う。
「魔物を?」
「多分な」
二人は町へ入った。
やがてシスターだと気づいた住民が、慌てて駆け寄ってくる。
「シ、シスター様!」
年老いた男だった。
「本当に来てくださったんですか!」
「はい!」
イリスが笑顔で答える。
「詳しくお話を聞かせていただけますか?」
「もちろんです!こちらへ!」
二人は町の集会所へ案内された。
そこで聞いた話は、マザーから伝えられたものとほぼ同じだった。
数日前から、周辺で魔物の目撃が急増した。
狼型。
大型の猪。
角を持つ鹿に似た魔物。
さらには、この地域では見たこともない種類まで。
「襲われた人は?」
イリスが尋ねる。
「それが……」
老人が困ったような顔をする。
「ほとんど、おらんのです」
「え?」
「家畜を食われた家はあります。畑を荒らされたところも。だが……人が襲われたという話は、ほとんど聞かんのです」
「…………」
「街道で出くわした商人なんぞ、魔物の方から逃げていったと言っておりました」
イリスが眉を寄せる。
「変ですね……」
「何が?」
隣にいたセレスが尋ねた。
「え?」
「何が変なんだ?」
イリスは少し考える。
「……魔物が増えてるのに、人を襲ってないことです」
「それだけか?」
「えっと……」
イリスは先ほど聞いた話を思い返す。
狼。
猪。
鹿。
見たことのない魔物。
「……種類?」
セレスの口元が僅かに上がった。
「続けろ」
「普通、魔物にも住んでいる場所がありますよね?」
「ああ」
「それなのに、いろんな種類の魔物が同じ時期にここへ来てる」
「そうだな」
「それに……」
イリスの脳裏に昨日の光景が蘇る。
村。
巨大な魔物。
あの時は突然現れた脅威だと思っていた。
けれど。
「昨日の魔物も……」
「ん?」
「あの魔物、本当に村を襲いに来たんでしょうか」
セレスは答えない。
「村には入ってきてました。でも……もしかしたら」
イリスが顔を上げる。
「何かから逃げてた……?」
「三年坊主にしちゃ上出来だ」
「坊主じゃありません!」
「そこかよ」
◆
町で情報を集めた二人は、そのまま近隣の森へ向かった。
最も多く魔物が目撃されている場所。
森へ入ってしばらくは、何も変わったところはなかった。
木漏れ日。
風に揺れる葉。
湿った土の匂い。
木々の隙間を抜けていく風。
「……普通ですね」
イリスが周囲を見る。
「そうだな」
「魔力にも変な感じはありません」
「ああ」
「……本当にここなんですか?」
「間違いねぇよ」
セレスは歩き続ける。
イリスも後を追う。
十分。
二十分。
さらに奥へ。
「…………」
やがて。
イリスが足を止めた。
「セレス」
「あ?」
「……静かすぎません?」
セレスが振り返った。
イリスは周囲を見る。
「鳥がいない」
耳を澄ませる。
「虫の声も……」
ない。
風が葉を揺らす音しか聞こえない。
「やっと気づいたか」
セレスが言った。
「え?」
「森に入ってから、鳥の声聞いたか?」
「……いえ」
「小動物は?」
「見てません」
「魔物は?」
「……一匹も」
イリスの表情が変わる。
セレスはしゃがみ込んだ。
地面を見る。
「こっち来い」
「はい」
イリスも隣へしゃがむ。
「何かあります?」
「ある」
セレスが土を指差した。
「足跡だ」
「……これですか?」
「四つ爪。多分グレイウルフだな」
「よく分かりますね」
「こっちは牙猪」
「え?」
「その横が角鹿」
「…………」
イリスには、ほとんど同じような窪みにしか見えない。
「あと二種類いるな」
「これ全部分かるんですか?」
「大体な」
「どうやって……」
「六百年もやってりゃ嫌でも覚える」
「六百年……」
「正確には六百十二年な」
「そこ細かいんですね」
「大事だろ」
セレスが立ち上がる。
「見ろ」
「何をですか?」
「向きだ」
イリスは地面を見る。
そこで気づいた。
「……全部」
「ああ」
足跡は違う。
大きさも。
形も。
歩幅も。
それなのに。
「同じ方向に向かってる……」
「正確には逆だ」
「え?」
「同じ方向から逃げてる」
イリスが顔を上げた。
セレスの視線は、森の奥へ向いていた。
「行くぞ」
◆
さらに森を進んだ。
途中。
「止まれ」
セレスが突然片腕を出した。
イリスが止まる。
「どうしました?」
「前」
木々の向こう。
何かが動いた。
一匹。
二匹。
三匹。
「グレイウルフ……」
狼型の魔物。
だが三匹ではない。
次々と姿を現す。
十。
二十。
さらに奥にもいる。
「群れ……!」
イリスが構える。
両手を胸元で組もうとする。
「待て」
「でも!」
「見ろ」
狼たちも、二人に気づいていた。
数十の瞳が二人へ向く。
低い唸り声。
イリスが身構える。
だが。
「……え?」
先頭の一匹が後ずさった。
次の瞬間。
群れが一斉に逃げ出した。
「えぇ!?」
戦うどころではない。
我先に。
互いにぶつかりながら。
明らかに何かへ怯えている。
数十匹の群れが、瞬く間に森の向こうへ消えていった。
「…………」
イリスが呆然とする。
そして。
「……私たち、そんなに怖いですかね?」
「お前は知らねぇが、俺は結構怖いぞ」
「そういう話じゃありません!」
「冗談だ」
「セレスが言うと冗談に聞こえないんですよ!」
セレスは笑う。
だが。
すぐにその笑みが消えた。
「こいつらが怖がってんのは、俺らじゃねぇ」
「……ですよね」
「ああ」
セレスが狼たちが来た方向を見る。
「もっと奥だ」
その時だった。
「!」
木が折れる音。
「何か来ます!」
「下がってろ」
木々をなぎ倒しながら。
巨大な影が飛び出した。
「グォォォォォォッ!」
「っ!」
熊に似た魔物だった。
だが、大きさは通常の熊とは比較にならない。
三メートル。
いや、四メートル近い。
全身を黒い体毛に覆われ、額には一本の角。
血走った瞳。
口元から泡を吹いている。
「暴走してる……?」
イリスが両手を組む。
「――我が祈りを」
「イリス」
セレスが前へ出た。
「え?」
「今回は見てろ」
「でも――」
魔物が迫る。
「セレス!」
巨腕が振り上げられた。
人間など一撃で肉塊に変えるであろう腕。
それを前に。
セレスは避けなかった。
構えすらしない。
ただ。
「うるせぇ」
拳を握った。
そして。
殴った。
ただ、それだけだった。
次の瞬間。
耳を割くような轟音。
「――え?」
イリスの銀髪が衝撃波で大きく揺れた。
熊型の魔物が消えた。
いや。
違う。
吹き飛んだのだ。
数十メートル。
木を一本。
二本。
三本。
四本。
次々となぎ倒し。
五本目の大木へ叩きつけられ、ようやく止まった。
「…………」
森が静まり返る。
「…………」
イリスも静まり返る。
「ん?」
セレスが振り返った。
「なんだ」
「…………」
「イリス?」
「……また」
「あ?」
「また地面壊してるじゃないですか!」
セレスの足元。
拳を放った反動だけで地面が陥没していた。
「そこかよ」
「森ですよ!?」
「魔物吹っ飛ばしたことはいいのか?」
「セレスならやると思ってました!」
「なら地面も諦めろ」
「嫌です!」
イリスが倒れた魔物へ走る。
「生きてます!?」
「死んでねぇよ」
「本当ですか?」
「加減した」
「今のが!?」
「結構な」
「…………」
イリスは何も言わないことにした。
倒れた魔物の鼻先へ手を近づける。
「……息してます」
「だから言ったろ」
「セレスの加減って信用できないんですよ」
「酷ぇな」
その時。
「……ん?」
セレスの声色が変わった。
「どうしました?」
「どけ」
イリスが横へずれる。
セレスが魔物の身体を観察する。
そして。
「……なんだ、これ」
「え?」
イリスも見る。
魔物の背中。
黒い体毛の一部が抜け落ちている。
その下。
皮膚が――灰色に変色していた。
「怪我……?」
「違う」
セレスが即答する。
「火傷?」
「違う」
「病気ですか?」
「……分からん」
イリスがセレスを見る。
「分からない?」
「ああ」
短い返事。
それだけなのに。
イリスの胸に、小さな不安が生まれた。
セレスが知らない。
六百十二年。
イリスなど比較にならないほど長い時間、世界を見てきたシスター。
そのセレスが。
「触るなよ」
セレスが言う。
「はい」
「何なのか分からねぇ以上、下手に触れねぇ方がいい」
「……はい」
先ほどまでの空気は消えていた。
セレスが立ち上がる。
森の奥を見る。
「こいつも向こうから来てる」
「じゃあ……」
「ああ」
セレスが歩き出した。
「見に行くぞ」
◆
進むほど。
森は静かになった。
元々ほとんど聞こえなかった生き物の声が、完全に消えた。
風だけが吹いている。
木々は青々としている。
草も生えている。
なのに。
生き物だけがいない。
「……嫌な感じですね」
イリスが小さく呟いた。
「ああ」
セレスも否定しなかった。
さらに進む。
やがて。
「……セレス」
「止まれ」
二人が同時に足を止めた。
森が。
途切れていた。
「…………え?」
イリスが目を見開く。
そこには木がある。
草もある。
花もある。
だが。
色がない。
灰色。
すべてが灰色だった。
枯れているわけではない。
焼けているわけでもない。
腐っているわけでもない。
形はそのまま。
ただ。
そこにあるはずの生命だけが、綺麗に抜き取られたように。
森の一部が死んでいた。
「何……これ……」
イリスが一歩近づく。
「待て」
セレスが肩を掴んだ。
「入るな」
「でも……」
「境目を見ろ」
言われて、イリスが足元を見る。
「……っ」
異常だった。
右側には青々とした草。
左側には灰色の草。
その境界が。
あまりにも綺麗だった。
まるで。
見えない線でも引かれているかのように。
「こんなの……」
イリスが呟く。
「自然に起きるんですか?」
セレスは答えない。
しゃがみ込む。
境界付近の草を見る。
触れない。
ただ、じっと観察する。
「セレス?」
「…………」
イリスは待った。
いつものセレスなら。
何か言う。
冗談を飛ばす。
大したことではないように笑う。
だが。
何も言わない。
やがて。
「イリス」
低い声。
「はい」
「マザーに連絡しろ」
「え?」
「今すぐだ」
イリスが目を見開く。
「そんなに……まずいんですか?」
セレスが立ち上がった。
その顔には。
いつもの笑みはなかった。
「分からねぇ」
「…………」
「だからまずい」
風が吹く。
生きた森の葉が揺れる。
だが。
灰色の森は――揺れなかった。
風が吹いているはずなのに。
葉一枚。
動かない。
イリスの背筋に、冷たいものが走った。
「……これが」
イリスが灰色の森を見る。
「魔物たちが逃げていた理由……?」
「多分な」
「じゃあ、昨日の魔物も……」
「可能性はある」
セレスは灰色の森から視線を逸らさない。
「イリス」
「はい」
「ここから先は勝手に動くな」
その言葉に。
イリスは初めて。
目の前にいる女が、自分より六百年以上長くシスターとして生きてきた存在なのだと。
はっきりと感じた。
《断罪のシスター・セレス》。
普段は酒を飲み。
後輩をからかい。
豪快に笑っている。
だが。
六百十二年。
世界の異変を見続けてきた彼女が。
今。
警戒している。
「分かりました」
イリスは頷いた。
そして。
セレスが静かに告げる。
「こいつは――」
灰色の森。
生命の気配が完全に失われた場所を見据えながら。
「俺ら二人だけで判断していい異常じゃねぇ」
世界の片隅。
誰にも知られぬ森の奥で。
小さな異変は。
確かに。
その姿を現し始めていた。




