祈りのシスターイリス
麦畑を渡る風は、つい先ほどまで穏やかだった。
どこまでも続く黄金色の穂が風に揺れ、その向こうでは子供たちの笑い声が響いていた。
畑仕事を終えた男たちが鍬を担いで家へ戻り、女たちは井戸端で夕食の話をしている。家々の煙突からは細い煙が昇り始め、鼻をくすぐるような焼きたてのパンの匂いが漂っていた。
聖王国セレスティアの西部にある、小さな村。
王都から遠く離れたこの場所に、特別なものなど何もない。
有名な騎士がいるわけでもなければ、珍しい鉱石が採れるわけでもない。
歴史書に名前が残るような出来事が起きたこともなかった。
ただ人々が生まれ、働き、家族を作り、老いていく。
そんな、どこにでもある村だった。
――つい数刻前までは。
「逃げろぉぉぉッ!」
男の絶叫が響いた。
直後。
轟音。
村の入口に建っていた木造家屋が、まるで積み木でも崩すように吹き飛んだ。
砕けた木材が宙を舞う。
土煙が巻き上がる。
地面が揺れ、繋がれていた馬が狂ったように嘶いた。
「母ちゃん!母ちゃん!」
「走りなさい!振り返っちゃ駄目!」
「誰か!誰か騎士様を――!」
「間に合うわけねぇだろ!早く逃げろ!」
平穏だった村は、一瞬にして恐慌に包まれていた。
その中心にいるのは、一頭の魔物。
四足でありながら、その背丈は村の家屋を優に超えている。
黒褐色の体毛の隙間から岩のような外殻が覗き、頭部から伸びる二本の角は大人の男ほどの長さがあった。
巨大な猪にも見える。
だが、猪と呼ぶにはあまりにも大きく、あまりにも禍々しい。
「グォォォォォォォォッ!!」
咆哮だけで窓硝子が割れた。
村の自警団が放った矢など、その皮膚に刺さることすらない。
「くそっ……!」
一人の男が震える手で剣を構える。
逃げ遅れた村人を守るためだった。
しかし。
魔物の視線が男へ向いた瞬間、彼は理解した。
――勝てない。
剣を握っていることさえ馬鹿らしくなるほどの、圧倒的な生命の格差。
魔物が前脚で地面を掻く。
土が舞う。
「……っ」
男の喉が鳴った。
逃げなければ。
頭では分かっている。
だが、足が動かなかった。
次の瞬間。
魔物が突進した。
「う、うわぁぁぁぁぁぁぁぁッ!」
男が目を閉じる。
――その直前だった。
「危ないっ!」
聞こえたのは、場違いなほど澄んだ少女の声だった。
「……え?」
男が目を開く。
目の前に、少女が立っていた。
いつ現れたのか分からない。
銀色の長い髪。
陽光を反射して輝くそれが、風に揺れている。
澄んだ青い瞳。
華奢な身体。
そして何より、この場所にはあまりにも似つかわしくない黒と白の修道服。
「な……」
男の顔から血の気が引いた。
「何やってる!逃げろ嬢ちゃん!」
少女は振り返る。
「大丈夫です!」
「何が大丈夫だ!死ぬぞ!」
「えっと……」
少女は少し困ったように笑った。
そして。
「こう見えて私――結構強いので!」
「は?」
直後。
魔物が少女へ迫った。
巨大な頭部。
そこから伸びる二本の角。
まともに受ければ、人間など原形すら残らない。
「避けろぉぉぉッ!」
男が叫ぶ。
だが少女は避けなかった。
静かに息を吸う。
胸元で両手を組む。
目を閉じる。
そして、小さく祈った。
「――我が祈りを、力へ」
淡い光が少女を包んだ。
次の瞬間。
少女は片手を前へ出した。
轟音。
「――――」
男は声を失った。
少女の小さな掌が。
巨大な魔物の額を――受け止めていた。
「え……?」
少女の足元から地面が抉れていく。
一歩。
二歩。
押される。
だが、それだけだった。
「よ……っと!」
少女が足に力を込める。
ズンッ!という音と共に地面が沈んだ。
そして。
「止まって――くださいっ!」
少女が腕を振った。
「グォッ!?」
巨体が傾く。
十メートルを超える魔物が、たった一人の少女によって横へ投げ飛ばされた。
その身体が地面を転がり、畑を抉りながらようやく止まる。
村に、静寂が訪れた。
「…………」
誰も喋らない。
少女だけが、
「あっ」
と声を漏らした。
畑を見る。
魔物が転がった場所。
そこに植えられていた作物が、見事なまでに潰れていた。
「……ご、ごめんなさい」
誰に謝っているのか分からない。
その声に反応するように、倒れていた魔物が身を起こした。
「グ……ォォォ……!」
「あ」
「嬢ちゃん!まだ生きてるぞ!」
「大丈夫です!」
少女は再び両手を組む。
先ほどよりも強い光が、その身体を包み込んだ。
銀色の髪がふわりと浮かび上がる。
「できれば、大人しくしてくださいね」
魔物が吠える。
「グォォォォォォォッ!」
「……無理そうですね」
少女は困ったように眉を下げた。
そして地面を蹴る。
姿が消えた。
「え?」
男が少女を見失った直後。
少女は既に魔物の眼前にいた。
拳を握る。
「少しだけ――」
腰を捻る。
「眠っていてくださいっ!」
拳が魔物の額へ突き刺さった。
空気そのものが弾けたような音が響く。
巨体が地面へ叩きつけられる。
衝撃が村全体を揺らした。
そして。
「…………」
魔物は動かなくなった。
少女がその鼻先へ近づく。
しゃがみ込む。
そっと手を近づけた。
「……うん」
息をしている。
少女は安堵したように胸を撫で下ろした。
「よかったぁ……」
その声は先ほど巨大な魔物を素手で殴り倒した人物のものとは思えないほど、普通の少女のものだった。
やがて。
「シ……」
誰かが呟いた。
「シスター様だ……」
その言葉が波のように広がっていく。
「シスター様……!」
「シスター様が助けてくださったぞ!」
「助かった……!」
村人たちが集まってくる。
少女は慌てて立ち上がった。
「皆さん、お怪我はありませんか!?」
自分が感謝されるより先に、村人の心配をする。
それを聞いて、張り詰めていたものが切れたのだろう。
泣き出す者。
座り込む者。
互いに抱き合う者。
そんな人々を見ながら、少女はようやく笑った。
「間に合ってよかったです」
その少女の名は、イリス・アルヴェイ。
《祈りのシスター・イリス》。
この世界の均衡を守る九人のシスター。
その末席に加わって、今年で三年。
九人の中では最も新しい――新人シスターである。
◆
「シスター様!これ持っていってくれ!」
「えっ?」
「うちの畑で採れた芋だ!」
「いや、でも……」
「こっちも!」
「えっ?」
「パン!朝焼いたやつだから!」
「いやいやいや!そんな!お気持ちだけで十分ですから!」
「シスター様!」
「はい!?」
「うちの卵も!」
「増えてる!?」
村を出る頃。
イリスの両腕は食料で埋め尽くされていた。
「……どうしてこうなったんでしょう」
腕の中には芋。
パン。
卵。
野菜。
干し肉。
さらには果物まである。
先ほどまで巨大な魔物を殴り倒していた少女の姿とは到底思えない。
「でも……」
イリスは振り返った。
壊れた家々。
抉られた畑。
それでも、村人たちは笑っていた。
これから復旧は大変だろう。
けれど。
誰も死ななかった。
「……よかった」
それだけで十分だった。
人を助ける。
困っている人へ手を差し伸べる。
イリスは、それが好きだった。
だからシスターになった――というわけではない。
そもそも、シスターとは望んだからなれるものではない。
だが。
選ばれた以上。
この力で誰かを助けられるのなら。
それは、とても素敵なことだと思っていた。
「さて!」
イリスは食料を抱え直す。
「帰ろっと!」
◆
シスターたちには、本部と呼ばれる場所がある。
どの国にも属さない。
人間の王も。
魔族の王も。
そこへ命令することはできない。
そこは九人のシスターが帰る場所であり――同時に、彼女たちを束ねるマザーがいる場所でもあった。
巨大な扉が開く。
「ただいま戻りましたー!」
元気な声が広い廊下へ響いた。
返事はない。
「……あれ?」
イリスが首を傾げる。
静かだった。
普段なら誰かしらいる。
もっとも今は、他のシスターたちの多くが各地へ出ている。
最近、世界各地から奇妙な報告が続いていた。
どれも単体なら珍しいとは言えない程度のもの。
魔物の移動。
魔力の乱れ。
精霊の異常行動。
局地的な環境変化。
けれど、それがほぼ同時期に複数の場所で起きている。
そのためシスターたちは、それぞれ調査へ向かっていた。
「セレスもいないのかな……」
「誰がいねぇって?」
「ひゃあっ!?」
真横から声がした。
イリスが飛び上がる。
「セ、セレス!?」
「おう」
壁にもたれかかっていた女が片手を上げる。
長身。
引き締まった身体。
乱雑にまとめられた赤みがかった金色の髪。
修道服を身につけているというのに、清楚という言葉より先に「強そう」という感想が出てくる。
その手には――酒瓶。
《断罪のシスター・セレス》。
イリスより遥か以前から世界を見続けてきたシスターの一人である。
「……また飲んでるんですか?」
「あ?」
セレスが酒瓶を見る。
「飲んでるな」
「任務が来るかもしれないんですよ?」
「来たら行く」
「酔っ払ってるじゃないですか!」
「この程度じゃ酔わねぇよ」
「昨日も同じこと言ってませんでした!?」
「昨日は酔ってた」
「駄目じゃないですか!」
セレスが豪快に笑った。
「相変わらずうるせぇな、新人」
「新人って呼ばないでください!」
イリスが頬を膨らませる。
「私だってもうシスターになって三年ですよ!」
「三年」
「三年です!」
「俺、六百十二年」
「…………」
「新人だろ?」
「…………はい」
勝てなかった。
「分かればよし」
「なんか納得いきません……」
セレスは笑いながらイリスへ近づく。
そして。
「よく帰ったな、新人」
「わっ!ちょっ!」
頭をガシガシと撫でる。
「セレス!髪!髪ぐちゃぐちゃになりますって!」
「怪我は?」
「ありません!」
「本当か?」
「本当です!」
「ならいい」
セレスは手を離す。
たったそれだけ。
だがイリスは知っている。
この人は毎回必ず確認する。
どれだけ簡単な任務でも。
どれだけイリスが成長しても。
帰ってきた時には必ず。
――怪我はないか。
それを聞いてくる。
「それより」
セレスの視線が下がった。
「なんだ、その荷物」
「あっ、これですか?」
イリスが笑う。
「村の皆さんからいただきました!」
「村?」
「はい!大型の魔物が出ていたので、ちょっと助けてきたんです!」
「ほう」
「すっごく大きかったんですよ!」
「何匹だ?」
「一匹です!」
「……一匹?」
「はい!」
セレスはイリスの腕を見る。
芋。
パン。
卵。
野菜。
干し肉。
果物。
「一匹倒しただけで、なんで八百屋みてぇになってんだよ」
「私が聞きたいですよ!」
セレスが笑う。
「いいじゃねぇか。酒のつまみになりそうなのもある」
「あっ!駄目ですよ!」
「なんでだよ」
「村の皆さんからいただいた大切な――って、取らないでください!」
干し肉を抜き取ったセレスをイリスが追いかける。
「一個くらいいいだろ」
「駄目です!」
「ケチ」
「ケチじゃありません!」
「じゃあくれ」
「嫌です!」
「ケチじゃねぇか」
「そういう問題じゃありません!」
二人の声が静かな本部へ響く。
世界の均衡を守るシスター。
そう聞けば、人々はどんな存在を思い浮かべるだろう。
神聖。
高潔。
超然。
人智を超えた、世界の守護者。
少なくとも今、一本の干し肉を巡って廊下を走り回っている二人を想像する者は少ないだろう。
そんな時間が、しばらく続いた。
そして。
「――――」
イリスの足が止まった。
セレスも止まる。
空気が変わった。
誰も触れていないはずの鐘が、本部の奥深くから響いていた。
一度だけ。
低く。
長く。
建物そのものを震わせるような音。
先ほどまで笑っていたセレスの表情から、笑みが消えた。
酒瓶を置く。
「イリス」
「はい」
イリスも、もう笑っていなかった。
二人は同時に歩き出す。
向かう先は一つ。
礼拝堂。
マザーからの伝達だった。
◆
礼拝堂は薄暗かった。
高い天井。
等間隔に並んだ長椅子。
正面には祭壇がある。
イリスとセレスが、その前へ立つ。
「イリス・アルヴェイ」
「セレスティア・ローレン」
二人が名乗る。
「参りました」
静寂。
やがて。
『――二人とも』
声が響いた。
優しい声だった。
若いとも。
老いているとも言えない。
不思議な声。
『急な招集を許してください』
「いえ!」
イリスが答える。
「それで、何かあったんですか?」
『ええ』
短い返答。
『二人に調査をお願いします』
セレスが腕を組む。
「場所は?」
『人間界と魔界。その境界に近い地域です』
イリスの表情が少し変わった。
人間界と魔界の境界。
決して戦争が頻発しているわけではない。
現在、人間と魔族の間には一定の交流すら存在している。
だが、長い歴史の中で積み重なった不信が完全に消えたわけでもない。
小さな火種が、大きな争いへ変わり得る場所。
『数日前から、その一帯で魔物の生息域に異常が確認されています』
「生息域……?」
『本来そこに存在しないはずの魔物が、複数確認されています』
イリスが今日の村を思い出す。
巨大な魔物。
「もしかして……」
『どうしましたか、イリス』
「今日、私が立ち寄った村にも大型の魔物が出ていました」
少しの沈黙。
『場所は?』
イリスが答える。
再び沈黙。
『……無関係とは言い切れませんね』
セレスの目が細くなる。
「他の連中が追ってる異常とも繋がってる可能性があるか?」
『現時点では分かりません』
「了解」
セレスはそれ以上聞かなかった。
『現在、他のシスターたちはそれぞれ別地域の調査を続けています。そのため、あなたたち二人にお願いします』
「分かりました!」
イリスが即答する。
「魔物が人を襲っているなら、私たちで止めます!」
『イリス』
「はい?」
『一つ、覚えておいてください』
優しい声。
だが。
なぜかイリスは背筋を伸ばした。
『あなたたちの仕事は、魔物を倒すことではありません』
「……え?」
『人間を守ることでもありません』
イリスが瞬きをする。
『何が起きているのかを見てきなさい』
「…………」
『そして――必要なことをしてください』
それだけだった。
「必要な……こと」
イリスが小さく呟く。
隣を見る。
セレスは何も言わない。
ただ静かに、マザーの言葉を聞いていた。
『世界の均衡を』
声が遠ざかっていく。
『よろしくお願いします』
静寂。
伝達は終わった。
◆
「セレス!」
本部の廊下を歩きながら、イリスが声を上げた。
「なんだ」
「さっきのマザーの言葉、どういう意味だと思います?」
「どれだよ」
「私たちの仕事は魔物を倒すことでも、人間を守ることでもないって……」
「言葉通りだろ」
「でも……」
イリスは少し考える。
「魔物が人を襲ってたら、助けますよね?」
「状況による」
「え?」
「だから、状況による」
「人が襲われてるんですよ?」
「そうだな」
「じゃあ助けるじゃないですか」
「だからそれを見に行くんだろ」
「…………?」
分からない。
そんな顔をしているイリスを見て、セレスが小さく笑った。
「ま、そのうち分かる」
「そうやってすぐ子供扱いする……」
「三歳だからな」
「シスター歴の話ですよね!?」
「他に何がある」
「分かってますけど!」
二人はそれぞれ準備を整える。
イリスはいつもの修道服。
特別な武器は持たない。
セレスも同じだった。
最後にセレスが手袋を引き締める。
その仕草を見て、イリスも自然と表情を引き締めた。
「準備できました!」
「んじゃ、行くか」
「はい!」
本部の巨大な扉が開く。
外には、夕暮れの空が広がっていた。
赤く染まる地平線。
その遥か先。
人間と魔族。
二つの世界が接する場所で。
何かが起きている。
「セレス」
「あ?」
「困っている人がいたら、ちゃんと助けますからね」
「好きにしろ」
「セレスも助けるんですよ!」
「はいはい」
「もう!」
イリスは頬を膨らませながら、その背中を追った。
人を救うこと。
魔物を倒すこと。
悪を退けること。
それが正しいことだと、イリスは信じている。
そして、それは決して間違いではない。
ただ。
世界は時に。
正しいものと、間違ったもの。
その二つだけでは分けられない。
人間には人間の生きる理由があり。
魔族には魔族の守るべきものがあり。
魔物もまた、その世界で生きている。
誰かにとっての救いが。
別の誰かにとっての破滅になることもある。
そして――。
その狭間に立つ者たちがいる。
人間のためではない。
魔族のためでもない。
神の名のもとに正義を振りかざすためでもない。
ただ、この世界が世界として在り続けるために。
その均衡を守る者たち。
九人のシスター。
これは、その中で最も新しい一人の少女と。
あまりにも長い時を生きる八人のシスターたちが紡ぐ物語。
世界最強のシスターたちは――今日も世界のどこかで、その均衡を守っている。




