動かぬ近衛
皇后が連れ出されると、皇帝は蒼天殿に残る雲水と神官長を見た。
「お前たちの罪が消えたわけではない」
「承知しております。丞相の印を返上いたします」
神官長も自ら地位を退くと申し出た。二人の処分については、改めて裁かれることになった。
「それで、蓮瑛はどこにいる」
「碧砂国に残りました」
「なぜ連れ戻さなかった」
「蓮瑛殿が、御自身で残ると決められたからです」
皇帝の関心は、皇后から蓮瑛の所在へ移っていた。
「香蘭は偽物だった。蓮瑛こそ真の龍の巫女なのであろう」
「左様でございます」
「ならば、皇宮へ戻せ」
「蓮瑛殿は、碧砂国王の妻となることを選ばれました」
天曜の答えは、皇帝の命令を変えなかった。
「お前は求婚したのではなかったか」
「お断りになりました。蓮瑛殿が選ばれたのは、シンシャ陛下です」
「そのような勝手が許されると思うのか」
「陛下は既に、蓮瑛殿を碧砂国王の妃として遣わされました」
皇帝は卓上に置かれたシンシャの国書へ目を向けた。
「龍の巫女は龍華国に属する」
「陛下は国書をもって、その龍の巫女を碧砂国王の妃として遣わされました。碧砂国は国書を受け入れ、蓮瑛殿を保護しております」
「私が命を撤回する」
「一度他国へ渡した国書は、陛下の御意思だけではなかったことにできません」
シンシャからの国書には、蓮瑛を王妃として迎えることが記されていた。
「碧砂国王へ、蓮瑛を返すよう命じよ」
「碧砂国は、龍華国の属国ではございません」
「ならば使者を送り、返還を求めよ」
「拒まれます」
天曜は、シンシャの答えを疑わなかった。
「蓮瑛殿は、龍華国へ戻らないと私へ告げられました。強いて連れ戻そうとすれば、碧砂国との戦になります」
「それで構わぬ」
それまで沈黙を守っていた大将軍が進み出た。
「出兵には反対いたします」
「龍の巫女を取り戻すためだ」
「北方戦役を終えたばかりの軍を、西へ動かすことはできません」
北方遠征を率いた大将軍は、勝利と引き換えに失った兵の数を知っていた。北方の守りを空け、西方へ兵糧を運び続けてまで戦う理由はなかった。
「北方には勝ったのであろう」
「勝ったからといって、失った兵が戻るわけではございません」
「将軍は命じられた戦をするものだ」
「陛下が成立させた婚姻を覆すために兵を出せば、龍華国の国書は諸国から信用を失います」
軍を動かせば、失うものは兵だけではない。
「龍の巫女を奪ったのは碧砂国だ」
「陛下がお送りになったのです」
「国を損なう戦をお止めするのも、大将軍の務めでございます」
大将軍は皇帝の命令を受け入れなかった。
「大将軍も、立天曜に唆されたか」
「戦の是非を判断したまででございます」
皇帝は禁軍の将たちへ、大将軍を退け、西方の軍を動かすよう命じた。
誰も応じなかった。
「聞こえなかったのか」
蒼天殿には、雨の音だけが届いていた。
将たちは持ち場を離れず、近衛も動かなかった。
「すべて、お前が仕組んだことか!」
皇帝は怒りに顔を震わせ、天曜を指さした。
「私が大将軍へ願ったのは、碧砂国への出兵を止めることだけです」
「偽りを申すな!西方の兵を従えて帝都へ入り、禁軍まで取り込んだのであろう」
西方から随行した兵は、皇宮の門前で待っている。天曜が集めた兵ではない。雨の中、自ら護衛を申し出た者たちだった。
「立天曜を捕らえよ」
近衛は動かなかった。
「捕らえよ!」
誰一人、天曜のもとへ進まなかった。
「命令だ」
「承れません」
大将軍の返答に続く声はなかった。それでも、禁軍の将たちは一人も皇帝の命令には従わなかった。
「宮門を閉じよ」
今度は大将軍の命令に、兵たちが応じた。
外で重い扉の閉まる音がした。
「帝都の各軍へ、現在の持ち場を離れぬよう伝えよ。蒼天殿からの使者は、許可なく外へ出すな」
禁軍の将たちが動き出した。
宮中から外へ通じる道が断たれ、玉座へ続く段の前には近衛が並んだ。
「誰の許しを得ている!」
「陛下には、ここでお待ちいただきます」
「私を誰だと思っている」
返事はなかった。
皇帝であることを知らない者など、一人もいない。そのうえで、誰も従わなかった。
出兵だけを止めて、何もなかったことにはできなくなった。ここから先の責任を、天曜は他の者へ押しつけるつもりはなかった。
大将軍が天曜へ目を向けた。
天曜は一歩進み出た。
「陛下。御身は禁軍が預かります」
「天曜!」
皇帝の怒声にも、近衛の列は崩れなかった。
蒼天殿の外では、雨が降り続いていた。




