旅立ちの加護
蓮瑛に二胡を贈った翌朝、天曜は明慧に帰国の支度を命じた。
「もうよろしいのですか」
「ああ。二日後に発つ」
昨日聞いた二胡の音が、まだ耳に残っていた。
蓮瑛は、贈った二胡を大切にすると言った。
これからもあの楽器を弾き、この国で暮らしていくのだろう。天曜がいなくなった後も、彼女の日々は続いていく。
それを確かめることができた。
天曜がさらに留まっても、蓮瑛のためにできることはもうなかった。
帰国の意向を伝えると、シンシャはわずかに意外そうな顔をした。
「王都を見て回るのではなかったのか」
「十分に見せていただきました。これ以上留まれば、龍華国での務めに差し支えます」
帰国の支度は、すでに明慧に進めさせている。二日後には出立できると告げると、シンシャは国境まで護衛をつけることを約束した。
「立将軍を客として迎えた以上、帰路の安全も我が国が引き受けよう」
「お心遣いに感謝いたします」
碧砂国を訪れた目的は、もう果たした。
蓮瑛の無事を確かめ、彼女が望む道を聞いた。その答えを変えさせるつもりはなかった。
「蓮瑛殿を、お願いいたします」
「言われるまでもない」
シンシャの返答に迷いはなかった。
それならば、天曜がここに残る理由はなかった。
出立の日、王宮の門前には、国境まで同行する護衛が待っていた。
天曜と明慧の荷は、碧砂国へ来た時よりも増えている。王都で買い求めた品のほかに、シンシャから龍華国皇帝へ宛てた書状も預かっていた。
見送りには、シンシャと蓮瑛も出てきていた。
「道中の無事を祈っております」
「ありがとうございます。蓮瑛殿も、お健やかに」
次に会う時が来るとしても、蓮瑛はもう碧砂国の王妃になっているだろう。
別れの言葉は、それで終わるはずだった。
「天曜様、お手を」
天曜は求められるまま、右手を差し出した。
蓮瑛の手が、その上に重ねられた。
「天曜様の歩まれる先に、恵みの雨と、暖かな陽の光がありますように」
それは、龍の巫女から授けられる旅立ちの加護だった。
重なっているのは、互いの手だけだった。それでも、離れてしまえば二度と同じように触れることはないのだと分かった。
蓮瑛を守りたかった。
皇宮から救い出し、彼女が穏やかに暮らせる場所を与えたかった。
だが、天曜が望んでいたのは、それだけではなかった。
蓮瑛が二胡を弾く音を聞き、朝夕に言葉を交わし、同じ場所で季節を重ねる。その先の暮らしにも、自分がいたかったのだ。
「ありがたく、頂戴いたします」
蓮瑛の手が離れた。
天曜は馬へ乗り、シンシャと蓮瑛に別れを告げた。
門が開き、一行は王宮を後にした。
王都を出てしばらくしてから、天曜は隣を進む明慧へ言った。
「私は、蓮瑛殿と生きたかったのだな」
「存じております」
あまりにも早い返答だった。
「知っていたのか」
「お気づきでなかったのは、天曜様くらいのものかと」
明慧が冗談を言っているようには思えなかった。
「なぜ教えなかった」
「お伝えしたところで、信じてはくださらなかったでしょう」
その通りだった。
今さら気づいたところで、選び直すものは何もない。
蓮瑛から授けられた加護を携えて、天曜は龍華国へ戻った。
■■■
国境を越えたところで、天曜たちは龍華国の守備隊と合流した。
碧砂国の護衛から引き継ぎを受けた隊長は、天曜へ敬礼した。
「立将軍、御帰還をお待ちしておりました。ここからは我らがお供いたします」
「出迎えだけで十分だ。この先は供の者と戻る」
「せめて次の宿場までは。西方の守備を預かる者として、将軍を護衛もなくお通しするわけにはまいりません」
明慧も反対しなかったため、天曜は守備隊の同行を認めた。
街道を東へ進むうち、それまで晴れていた空が次第に曇り始めた。
やがて、頬に冷たいものが触れた。
雨粒は一つ、また一つと数を増やし、乾ききった街道を濡らしていった。
街道沿いの村から、人々が外へ飛び出してきた。
「雨だ!」
「本当に降っているぞ!」
雨を受けようと両手を広げる者もいれば、その場に膝をついて天へ祈る者もいた。
その中に、天曜の顔を知る者がいた。北方の戦で傷を負い、郷里へ戻った元兵士だった。
「立将軍だ!」
男の声が雨音を貫いた。
「北方の蛮族を退けた、立将軍がお戻りになった!」
「あの立将軍か!」
「立将軍が、雨を連れて帰ってこられたぞ!」
歓声が上がった。
天曜が否定するより早く、その言葉は集まった民の間へ広がっていった。
次の村でも、その次の町でも、雨の中で同じ声が天曜を迎えた。
街道へ出てくる民は増え続けた。行く先々の守備隊は、人々を道の両側へ誘導しながら、帝都までの護衛を申し出た。
天曜は当初、持ち場を離れることを許さなかった。だが、各隊の長が、守備に支障のない数騎だけでもと願い出たため、それ以上は退けなかった。
砦を越えるたび、新たな兵が加わった。
それぞれが所属を示す旗を掲げ、隊列は少しずつ長くなっていった。
帝都へ近づく頃には、わずか二人で碧砂国へ向かった天曜の帰還は、西方諸隊の旗が連なる行軍へと変わっていた。
雨を連れて、立将軍が帰還した。
その噂は、天曜よりも早く帝都へ向かっていた。
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