贈られた二胡
蓮瑛が天曜へ返事をした翌日、天曜は部屋から出てこなかった。
朝、王宮の者が食事を運ぶと、応対に出たのは明慧だった。天曜は体調を崩したわけではなく、今日は誰にも会いたくないとのことだった。
昼になっても、扉は開かなかった。
天曜は龍華国の将軍である。客として迎えているとはいえ、王宮内での動向を把握しないわけにはいかない。報告を受けたシンシャは、無理に部屋から出そうとはせず、望むようにさせた。
日が暮れる頃、明慧が新しい食事を求めて厨房へ現れた。朝と昼に運ばれたものには、ほとんど手がつけられていなかったという。
それでも、その日の夜に下げられた膳は空になっていた。
翌朝、天曜はいつもと変わらぬ姿で部屋から出てきた。
衣服にも髪にも乱れはなく、王宮の者へ挨拶を返す声にも、普段との違いはない。前日を部屋で過ごした男には見えなかった。
天曜はシンシャへの面会を求めた。
「帰国する前に、王都を見て回りたいと思っております」
「王都を?」
「龍華国とは、気候も暮らしも大きく異なります。このまま帰るには惜しい」
「滞在を続けることに異存はない。ただし、王都を出る時には案内の者をつけてもらう」
「承知いたしました」
天曜は、その日のうちに市場へ行きたいと申し出た。案内役を手配させると、明慧を残して先に部屋を出ていった。
「立将軍は、いつ龍華国へ戻るつもりなのだ」
シンシャが尋ねると、明慧は少し考えてから答えた。
「まだ決めておられません」
「国へ戻らなくてよいのか」
「急ぎの任務を帯びて参ったわけではございませんので」
北方から凱旋した天曜は、将軍へ昇進したばかりだった。将軍としての職務に就くより先に、蓮瑛を追って帝都を発っている。
「そうは言っても、いつまでも留まるわけにはいかないだろう」
「平気そうに見えるだけです。あれで、ひどく落ち込んでおられます」
明慧の答えは、あまりに率直だった。
「今すぐ帝都へ戻れば、何もなかったように働き始めるでしょう。部屋へ籠もり続ける方ではございませんが、外へ出たからといって、立ち直ったわけでもございません。ですから、少しくらい遠回りをさせて差し上げてください」
シンシャにも、それ以上帰国を促すことはできなかった。
■■■
王都を見て回るようになって数日後、天曜は龍華国との交易を営む商人を滞在先へ呼んだ。
周徳と名乗った男は龍華国の生まれで、十年ほど前から碧砂国で商いをしているという。頼んでおいた二胡を、細長い箱に収めて二棹持参していた。
蓮瑛には、前もって明慧を通じて面会を申し入れてある。
約束の時刻になると、蓮瑛がメイホアを伴って訪れた。
「二胡をお探しだと伺いました」
「ああ。貴女に選んでいただこうと思いまして」
周徳が二つの箱を開けた。
「どちらも龍華国の工房で作られたものです。こちらは柔らかな音が出ます。もう一方は、音の響きが強うございます」
天曜には、見ただけでは違いが分からなかった。
「どなたかへの贈り物でしょうか」
「貴女への贈り物です」
蓮瑛は、二胡に伸ばしかけた手を止めた。
「私には、いただけません」
「新しい門出の祝いです」
「ですが……」
「求婚の返事とは関係ありません。貴女はこちらで暮らすと決めたのでしょう」
碧砂国へ送られた蓮瑛には、身の回りの品さえほとんど残されていなかった。幼い頃から親しんできた二胡も、皇宮に置いたままのはずだった。
この国でも、好きな時に二胡を弾けるようにしてやりたかった。
「どちらか一棹を選んでください。選んでいただけないのなら、二棹とも差し上げます」
「二棹ともですか」
「私には、どちらがよいのか分かりませんので」
「それでは、かえっていただきすぎてしまいます」
「では、一棹をお選びください」
他に逃げ道がないと分かったのだろう。蓮瑛はようやく二胡へ向き直った。
周徳が調弦を済ませ、初めの一棹を蓮瑛へ渡した。
弓が弦に触れる。静かな音が、異国の客室に流れた。
天曜はその曲を知っていた。蓮瑛がまだ皇宮へ入る前、一度だけ聞かせてもらった曲だった。
短く弾いた後、蓮瑛はもう一方の二胡を受け取った。同じ旋律を奏でても、今度は音が遠くまで伸びるように響いた。
「こちらをいただいてもよろしいでしょうか」
蓮瑛が選んだのは、初めに弾いた方だった。
「もちろんです」
周徳は、選ばれなかった二胡を箱へ戻した。
「お代は、こちらで」
明慧が周徳へ代金を渡した。その下には、折り畳まれた一通の書状が重ねられていた。
「こちらも、お願いいたします」
「承知いたしました」
周徳は代金と書状を懐へ収め、二胡の箱を抱えて退出した。
蓮瑛は贈られた一棹を、もう一度手に取った。
「少しだけ、弾いてもよろしいですか」
「ええ」
先ほどと同じ曲が始まった。
演奏を終えた蓮瑛は、天曜に礼を告げた。
「大切にいたします」
天曜が龍華国へ帰った後も、この二胡は蓮瑛の手元に残る。
それでよかった。
■■■
執務を終えたシンシャは、蓮瑛の部屋へ向かった。
特に用事があったわけではない。蓮瑛が妻になると決まってからは、こうして理由もなく顔を見に行くことが増えていた。
部屋へ続く回廊へ入ると、聞き慣れない音が流れてきた。
メイホアによれば、蓮瑛が中庭で二胡を弾いているという。
「立将軍から贈られたものです。蓮瑛様は、受け取られてから何度も弾いておられます」
求婚を断られた後で、蓮瑛が喜ぶものを選んで贈ったらしい。天曜には、蓮瑛を困らせるつもりなどないのだろう。
分かってはいても、少しばかり面白くなかった。
シンシャが中庭へ出ると、蓮瑛はまだこちらに気づかず、演奏を続けていた。
碧砂国へ来たばかりの頃に比べ、頬には色が戻っている。まだ細身ではあるが、もう触れれば倒れそうな危うさはない。
二胡を弾く蓮瑛は、シンシャがこれまで見たことのないほど楽しそうだった。
その姿から、しばらく目を離すことができなかった。
曲の途中で、蓮瑛がシンシャに気づいた。
音が途切れた。
「陛下。いつからいらしたのですか」
「少し前からだ」
一人で弾いているところを見られるとは思っていなかったのだろう。蓮瑛は二胡を抱えたまま、演奏を再開しなかった。
「お声をかけてくださればよかったのに」
「楽しそうだったので、邪魔をしたくなかった」
皇宮では何をしていても周囲の目を気にしていたという蓮瑛が、今は好きなことに夢中になっている。その姿を、もうしばらく眺めていたかった。
蓮瑛は二胡を構え直したが、弓は動かなかった。
「どうした」
「陛下が見ておられると思うと、少し緊張いたします」
誰もいないと思っていた時のようには弾けないらしい。シンシャには、何を恥ずかしがっているのか分からなかった。
「先ほどまでは弾けていただろう」
「先ほどは、陛下がいらっしゃると知らなかったからです」
だからといって、シンシャに立ち去るつもりはなかった。蓮瑛の方も、本当に聞かれたくないわけではないらしい。
「見ない方がよいのか」
「いいえ。ただ、少し恥ずかしくなってしまいました」
見られていることに慣れてもらうしかない。
「では、慣れてくれ」
「慣れるのですか?」
「これから何度も聞くつもりだからな」
蓮瑛の頬が、先ほどよりも赤くなった。
それでも今度は、最後まで弾いてくれた。




