王の望み
自室へ戻ってからも、蓮瑛の耳には天曜の言葉が残っていた。
天曜は蓮瑛を妻に迎えるために一年を費やし、将軍となった。蓮瑛が帰国を望みさえすれば、皇帝へ改めて許しを求めるという。
「蓮瑛様は、龍華国へお戻りになってしまうのですか?」
メイホアに尋ねられ、蓮瑛は答えに詰まった。
「……まだ、何も決めていません」
「そうですか。よかった」
安堵したあとで、メイホアは自分の言葉が蓮瑛を困らせたことに気づいたらしい。
「申し訳ございません。蓮瑛様がお決めになることなのに」
「いいえ。どうして、よかったと?」
「蓮瑛様がいなくなったら、寂しいですから」
あまりにも素直な答えだった。
龍華国を追われた時、別れを惜しむ者はいなかった。碧砂国へ来てから、まだひと月も経っていないのに。
「ありがとうございます」
蓮瑛は、それ以上の言葉を返せなかった。
メイホアが残ってほしいと思ってくれていることは分かった。
では、シンシャはどうなのだろう。天曜は、蓮瑛を妻に望んでいるとはっきり告げた。一方でシンシャは、蓮瑛自身の望みを聞いて決めると言っただけだった。
自分が龍華国へ帰ると決めたなら、シンシャは引き留めないのだろう。
それが蓮瑛の意思を尊重するためだということは分かっていた。それでも、少しだけ寂しく思った。
■■■
その夜、シンシャは執務室にランフォンを呼んだ。
「立将軍について、どう思う」
「蓮瑛殿を妻に迎えるために戦功を挙げたという話ですか」
「そうだ」
「嘘ではないでしょう」
ランフォンの答えに迷いはなかった。
「将軍となったことも、皇帝に婚姻を願い出たことも確かめようと思えば確かめられます。その場限りの嘘をつく男には見えませんでした」
「蓮瑛を守れると思うか」
「陛下も、そう思われたのではありませんか」
否定はできなかった。
天曜には戦功も身分もあり、蓮瑛を皇宮へ戻さず守ると約束している。
「蓮瑛が立将軍の妻となれば、龍華国へ戻っても以前のような扱いを受けることはないだろう」
「そうでしょうね」
「ならば、悪い話ではない」
「ええ」
ランフォンは同意した。それで話が終わるはずだった。
「陛下は、蓮瑛殿が龍華国へ戻られてもよろしいのですか」
「決めるのは蓮瑛だ」
「それは分かっています」
「ならば、私が口を挟むことではない」
ランフォンはしばらく黙っていた。
「シンシャ」
名を呼ばれ、シンシャは言葉を失った。
王位に就いてから、ランフォンがそう呼んだことは一度もなかった。
ランフォンの母はシンシャの乳母であり、二人は乳兄弟として育った。だが、両親を亡くしたシンシャが王となった日から、ランフォンは二人きりの時でさえ彼を陛下と呼んだ。
最も近しい者が臣下として振る舞うことで、若いシンシャを王たらしめようとしたのだ。
そのランフォンが今、王ではなく、かつて兄弟同然に育った相手に尋ねていた。
「お前自身は、蓮瑛殿に残ってほしいのか」
「だから、それは蓮瑛が――」
「蓮瑛殿がどうしたいかではない。お前がどうしたいのかを聞いている」
シンシャは答えられなかった。
物心がついた頃から、碧砂国は少しずつ砂に呑まれていた。
昨日まで使えた井戸が枯れ、オアシスの周囲にあった集落が一つずつ失われていく。どこへ水を引き、どの土地を守るのか。すべてを救えないのなら、何を諦めるのか。
両親を亡くして王となってから、シンシャは国に必要なものを選び続けてきた。自分が欲しいかどうかを考えたことはない。
妃を迎える時も同じだと思っていた。碧砂国に利をもたらす婚姻を選び、王として必要な後継者を得る。そこへ自分の好悪を持ち込む理由はなかった。
だが、蓮瑛が王宮からいなくなることを考えると、胸の奥が重くなった。
恵みの雨を失うからではない。
蓮瑛が二度と雨を降らせられなくても、ここにいてほしいと思った。
「望んでいいのだろうか」
ようやく口にできたのは、それだけだった。
「蓮瑛に、この国に残ってほしいと」
ランフォンはすぐには答えなかった。
「私が妃に望むと言えば、蓮瑛は従うかもしれない。龍華国の皇帝に命じられた時と同じように、自分の望みを口にせず受け入れるかもしれない」
「だから、何も言わないのか」
「彼女には、自分で決めてほしい」
「自分を望んでいる者がいると知らずに、どうやって選ぶ」
シンシャは黙った。
「立将軍は、蓮瑛殿を妻に望むと伝えた。そのうえで、決めるのは蓮瑛殿だと言った」
「あの男と私では立場が違う。私はこの国の王だ」
「ならば、命令ではないと伝えればいい」
ランフォンの言葉に迷いはなかった。
「妃に望んでいることも、拒まれてもその意思を尊重することも、すべて伝えたうえで蓮瑛殿に選んでもらえ」
「私の言葉で、彼女を迷わせることになる」
「既に二つの道がある。お前が黙っていれば、一方の道がないように見えるだけだ」
蓮瑛が天曜の妻となり、龍華国へ帰る。
彼女自身が望んで選んだ道ならば、祝福すべきだった。だが、シンシャが何も望んでいないと思わせたまま選ばせることは、本当に彼女の意思を尊重したことになるのだろうか。
「シンシャ」
ランフォンはもう一度、名を呼んだ。
「立将軍に譲るつもりなら、黙っていればいい。お前は何を望むんだ」
シンシャは答えなかった。だが、黙って見送るつもりもなかった。




