砂漠に降る雨
「通せ」
入室したメイホアは、シンシャの前で頭を下げた。
「突然のお目通りをお許しください。蓮瑛様のことで、どうしても陛下に申し上げたいことがございます」
「容体が悪くなったのか?」
先ほどまで毒の可能性について話していたため、真っ先にそれを疑った。
「いいえ。お身体は少しずつ回復なさっています。ただ、先日、陛下とお話しになってから、以前にも増して御自分にできることはないかと尋ねるようになりました」
「私と話してから?」
「はい。いつまで今のお部屋を使ってよいのか、身体が回復した後はどこへ行けばよいのかともお尋ねになります。砦のユエリー様へ便りを出して、働かせてもらえないか相談することも考えておられるようです」
シンシャには覚えのない話だった。
「私は王宮から出ていけなどと言っていない。龍華国へ戻る必要もないと伝えたはずだ。望む土地で暮らせるよう、手配するとも」
「ですが、蓮瑛様には、行きたい場所そのものがないのではありませんか?」
メイホアの言葉に、シンシャは答えられなかった。
「妃になる必要はないと申し上げたことも、気にしていらっしゃるようです」
「婚姻を強いるつもりはない。龍華国の都合で、会ったこともない男へ嫁がされたのだ。従う必要などないだろう」
「陛下は、蓮瑛様を婚姻から解放なさったおつもりなのでしょう。ですが蓮瑛様は、妃としても必要とされず、身体が治るまで置いていただいているだけだと受け取っておられるのではないでしょうか」
シンシャには、そのような意味で告げたつもりはなかった。
「私は、蓮瑛殿を追い出すつもりはない」
「いつまでもいてよいとも、お伝えになっていないのでしょう」
ランフォンの指摘はもっともだった。
「ならば、望むだけ王宮に留まってもらえばよい」
「何者としてですか?」
「龍華国から遣わされた客人として扱えばよい」
「その龍華国が、蓮瑛殿を正式な花嫁として送り出していない可能性が出てきたばかりです」
正式な客人として扱えば、龍華国との関係を無視することはできない。いずれ皇帝から身柄を返すよう求められる可能性もある。
「では、我が国に保護を求めた者として――」
「蓮瑛殿は、龍華国を捨てるとおっしゃったのですか?」
「いや」
蓮瑛は自分が追放されたと思っている。しかし、龍華国そのものを憎んでいる様子はなかった。雨が続いたことで民に被害が出たことを、今も気に病んでいるほどだ。
本人の意思を確かめず、シンシャが勝手に亡命者と定めることもできない。
「つまり陛下は、蓮瑛殿を妃にしないことだけをお決めになり、その後のことは何もお考えになっていなかったのですね」
意地の悪い言い方だったが、否定はできなかった。用意した場所へ移してやるだけなら、皇帝に代わってシンシャが蓮瑛の行き先を決めることになる。
「……少なくとも、今すぐ王宮から出すつもりはない」
「それを蓮瑛殿へお伝えになりましたか?」
「いや」
「でしたら、まずはそこからではありませんか」
問いの答えを持っているのは、蓮瑛だけだった。
「メイホア。蓮瑛殿は今どこにいる?」
「先ほど、付き添いの女官と庭園へ向かわれました。王宮のオアシスを見てみたいとおっしゃっていました」
「分かった。話をしてくる」
シンシャは庭園へ向かった。何を言うべきかは、まだ決まっていなかった。
シンシャが中庭へ入ると、葡萄棚の向こうに蓮瑛の姿が見えた。
蓮瑛は泉のほとりに膝をつき、胸の前で両手を重ねていた。
以前とは違い、今日はきちんと髪を結い、水色と青を重ねた衣をまとっている。淡い橙色の差された裾が、石畳の上へ柔らかく広がっていた。
葡萄棚の下には、付き添いの女官が控えていた。シンシャに気づいて頭を下げたが、蓮瑛は目を閉じたまま、祈りを続けている。
シンシャは邪魔をしないよう、その場で待った。
しかし、蓮瑛はいつまで経っても顔を上げなかった。
王宮へ着いたばかりの頃は、身体を起こしていることさえ難しかった。今は一人で中庭まで出られるほど回復しているとはいえ、長く膝をついていてよい身体ではない。
付き添いの女官も心配になったらしく、何度も蓮瑛の様子を窺っていた。やがて、ためらいながら声を掛ける。
「蓮瑛様。そろそろ、お身体を休められた方が……」
それでも蓮瑛は祈りを終えようとしなかった。
「蓮瑛」
シンシャが呼ぶと、蓮瑛はようやく目を開けた。振り返って彼の姿を認めると、驚いたように身を強張らせる。
「陛下……」
「祈りを妨げてすまない。だが、あまり長く続けるのは身体に障る」
「申し訳ございません」
立ち上がろうとする蓮瑛へ、シンシャは急ぐ必要はないと告げた。それでも蓮瑛は衣の裾を整え、自分の力で立ち上がった。
「それほど長く、何を祈っていた?」
「この水が、これからも絶えることなく、皆様を潤してくださいますようにと」
シンシャは泉へ目を向けた。
「雨を願っていたのか?」
「いいえ。私にはもう、雨を降らせる力はございません」
「では、何故この国の水のために?」
「この国へ来てから、皆様にはよくしていただきました」
砦では、倒れていた蓮瑛へ水と食事を与えてくれた。老いた驢馬まで保護し、蓮瑛の願いを聞き入れ王都へ連れてくることを許してくれた。
「これほど水が貴重な国で、私にも驢馬にも、惜しみなく水を分けてくださいました」
蓮瑛は泉へ目を向けた。
「けれど、私にはお返しできるものが何もありません。ですから、せめて祈らせていただきたいと思ったのです」
「龍の巫女ではなくなったと考えているのに?」
「祈ることだけなら、私にも許されると思いました」
その答えに、シンシャは先ほどランフォンに指摘されたことを思い出した。
蓮瑛にとって、何も求められないことは安堵ではない。自分には何の役目もないのだと、そう受け取ってしまうのだろう。
「蓮瑛。先日の話について、伝えておきたいことがある。妃になる必要はないと告げたのは、貴女を王宮から追い出すためではない」
「ですが、身体が回復すれば、いつまでもこちらにお世話になるわけにはまいりません」
どうやら蓮瑛は、王宮にいられるのは療養が必要な間だけだと思っているらしい。
「急いで出ていく必要はない。行き先も、今すぐ決めなくてよい」
「何もお役に立てなくても、でしょうか」
「何かをさせるために、貴女をここへ置くのではない」
「それでは、私は何のためにこちらへ……?」
やはり彼女は、理由もなく与えられる居場所を信じられないようだった。
シンシャも、すぐには答えられなかった。蓮瑛が何を望み、何を恐れているのかさえ、まだほとんど知らない。それなのに、彼女のためだと思い込み、先のことを勝手に決めようとしていた。
「私はまだ、貴女のことをほとんど知らない。貴女も、碧砂国について知らないことばかりだろう」
「……はい」
「ならば、今すぐ答えを出す必要はない。まずはここで暮らし、この国を知ってほしい。私も、貴女のことを知りたい。その後で、貴女がどう生きたいのかを考えればよい」
言葉にしてみて、シンシャ自身もようやく納得した。必要なのは、蓮瑛の行き先を今決めることではない。彼女が自分で選べるようになるまで、結論を急がないことだった。
「私が、ここにいてもよろしいのですか?」
「ああ。少なくとも、役に立たないという理由で、貴女を追い出すことはない」
蓮瑛はしばらく黙っていた。
その時、泉の水面に小さな輪が広がった。
続いて、蓮瑛の頬に一滴の水が落ちる。シンシャの手の甲にも、冷たいものが触れた。
見上げると、青く晴れ渡っていた空に、いつの間にか薄い雲が広がっていた。白い石畳へ、一つ、二つと濃い染みが落ちていく。
「雨……?」
葡萄棚の下で、女官が呆然と呟いた。
やがて水滴は数を増し、乾いた中庭へ静かに降り注ぎ始めた。柔らかな雨が泉の水面を揺らし、葡萄の葉を濡らしていく。
「本当に、雨が……」
蓮瑛の声には喜びがあった。自分の祈りが、この国の恵みになったことを嬉しく思っているのだろう。
しかし、その顔には恐れも浮かんでいた。
「どうした」
「降ってよかったと思います。この国にとって、雨が恵みであることも分かっています。けれど……また、止まらなくなるのではないかと」
龍華国で降り続いた雨を思い出しているのだと、シンシャにも分かった。
「今はまだ、泉が溢れるほどの雨ではない。畑が水に沈むこともないだろう」
「ですが、これから強くなったら……」
「その時は、この国でできることを考える。雨をもたらしたのが貴女であっても、その始末まで一人で負わせる理由にはならない」
それだけで彼女の恐れを拭えるとは思わなかった。シンシャは蓮瑛の過去も、その力についても、知らないことの方が多い。
「貴女が何を恐れているのか、私にはまだすべて分かってはいない。だから、まずは話してほしい。雨のことも、貴女の力のことも、一人で抱え込む必要はない」
回廊の方から歓声が上がった。
庭師達が仕事の手を止め、降り注ぐ雨を受けようと両手を広げている。王宮の使用人達も軒下へ逃げ込むどころか、水甕や桶を抱えて中庭へ駆け込んできた。
付き添いの女官も、掌に溜まった雨水を見て笑っている。
「蓮瑛様、雨です。本当に雨が降っています」
誰も怯えてはいなかった。空を仰ぎ、乾いた大地を潤す雨を喜んでいる。
「私の雨を……喜んでくださるのですか?」
「もちろんだ」
その答えを聞いた蓮瑛の目から、涙が零れた。彼女は泣きながら、ほんのわずかに笑った。
その顔を見て、シンシャは初めて蓮瑛を美しいと思った。整えられた髪でも、水色の衣でもない。雨に濡れ、涙を流しながら浮かべた、頼りないほど小さな笑みから目を離せなかった。
これまで彼女が笑うところを、自分は一度も見たことがなかったのだと気づいた。
彼女がもたらすものは、災いばかりではない。
いつか蓮瑛自身にも、それを信じられるようになってほしいと、シンシャは思った。
続きが気になりましたら、ブックマーク・評価で応援していただけると嬉しいです。




