第2話 偽りの封蝋と三十年目の洗礼台帳
婚約解消の手続きは、その日のうちに公証局の小部屋で行われた。
王宮の応接室ではなく、私物一つ持ち込めない場所を選ぶあたりがエドガーらしい。机の上には離縁届、守秘誓約書、系譜院への立入禁止命令書まで揃っていた。
「ずいぶん準備がいいのね」
「お互いのためだ」
「私のためを考えるなら、偽造証書なんて作らないでしょう」
エドガーは否定しなかった。ただ、美しく整えた筆跡で自分の署名欄を示しただけだ。
「黙っていれば、地方の修道院事務くらいは世話できる。これ以上騒げば、君は反逆の共犯になる」
脅しにしては、ひどく弱かった。私が知っている彼は、もっと確実に人を追い込む。つまり今の彼には焦りがある。
私は婚約解消の欄に署名した。奪われたものは後で取り返せばいい。まず必要なのは証拠だ。
公証局を出ると、系譜院の老書記官ヘルガが路地の陰で待っていた。六十二歳。私に初めて洗礼台帳の扱いを教えてくれた人だ。
「これを持って行きなさい」
差し出されたのは、古い貸出控えの切れ端だった。三十年前の北塔修道院洗礼台帳、搬送先は王宮系譜院ではなく、六年前に再び北塔文書庫へ返還。返還命令書の承認者は、宮務官エドガー・ハルトマン。
「原本を王宮から遠ざけたの?」
「そうみたいね。それと、今朝になって北塔文書庫へ別の閲覧申請も出ていたわ」
「誰の名で?」
「王太子宮内局」
私は紙片を握りしめた。やはり原本がある。あの継承証は、原本を見せられたら終わる偽物だ。
その時、路地の入口に黒い外套が止まった。近衛総長ルーファス・エーレンベルク。三十九歳。無駄を削ぎ落としたような長身の男で、王宮でも「冷徹近衛」と呼ばれている人物だ。
「マルティナ・レーヴェ殿」
低い声が、石畳に落ちる。
「王宮へ戻る前に話がしたい。君を今ここで保護しなければ、今夜中に消される」
穏やかな物言いなのに、冗談の余地はなかった。
私はヘルガから紙片を受け取り、彼を見上げた。
「保護の代わりに、何を望むのですか」
「君の監査眼だ」
風向きが変わる音を、私は確かに聞いた。




