第1話 婚約破棄は継承証の前で
王宮系譜院の閲覧室で、私は王太子レオポルトの継承証を前に息を止めた。
金糸で縁取られた羊皮紙、王家専用の青い封蝋、証人欄に並ぶ高官の署名。見た目だけなら完璧だ。けれど、洗礼記録の書式が違っていた。二十七年前の王族洗礼台帳は「受洗時刻」を鐘の回数で記すのに、この証書だけは平民用の「第三刻」と書かれている。
「どうした、マルティナ」
三十四歳の婚約者エドガー・ハルトマンが、背後から柔らかな声をかけてきた。王宮宮務官としての笑みを浮かべたまま、彼は私の肩越しに証書を覗き込む。
「この継承証、原本と照合したいわ。書式が年次規定と合っていない」
「王太子殿下の書類に難癖をつけるつもりか?」
返ってきた声は、いつもの婚約者のものではなかった。私はゆっくり振り返る。閲覧室の入口には、王太子側近の法務卿補佐と、近衛兵が二人立っていた。
胸の奥が冷たくなる。
「難癖ではありません。系譜監査官として、定められた確認を」
「確認は不要だ」
重い声とともに現れたのは、二十八歳の王太子レオポルト本人だった。整った金髪、非の打ちどころのない王族の立ち姿。だがその視線は、私を人ではなく邪魔な書類のように見ていた。
「マルティナ・レーヴェ。お前が継承証を書き換え、私の血統に疑義をかけようとしたと報告を受けている」
「……何ですって?」
言葉を失う私の前で、法務卿補佐が封の切られた調書を開く。そこには私の筆跡に似せた文字で、継承証の再作成申請が記されていた。
「偽造です」
私はすぐに言い切った。
「私ならこの書式は使わないし、監査印の押し方も逆です。何より、この封蝋は王家の現行印じゃない」
近衛兵がざわつく。青い封蝋には本来あるはずの微細な王冠の欠けがない。旧式の儀礼印だ。十二年前に廃止されたもの。
だがエドガーが、私を庇うどころか一歩離れた。
「残念だ、マルティナ。私も信じたかった」
その一言で、すべてを悟った。
「あなたがやったのね」
「君は仕事に向きすぎた。王宮で生きるには、正しさだけでは足りない」
レオポルトが薄く笑う。
「婚約も解消しておけ。信用のない監査官を王宮に置く理由はない」
閲覧室の空気が凍りついた。九年かけて積み上げた信用も、三年続いた婚約も、一枚の偽造証書の前で切り捨てられた。
それでも私は、証書から目を離さなかった。
「本物の洗礼台帳を出してください。それを見れば、どちらが嘘をついているかすぐにわかります」
レオポルトの目が一瞬だけ揺れた。その小さな反応が、私には何よりの証拠だった。




