ケース2 走りたいんだ、どこまでも
登場人物紹介
主人公:小泉ハル
ケアマネ歴17年。心の中のツッコミは常にフルスロットル。“臭い・汚い・危ない”三拍子そろった案件でも逃げない職業戦士。
利用者:沢木健吾
紙パンツゆるゆる、家はカオス、運転はノロノロ蛇行。でもなぜか憎めない、自由を愛するトラブルメーカー。
家族 :新山香
見た目ゴージャス、中身は意外としっかり者。父のトラブルに振り回されつつも、なんだかんだ協力してくれる“頼れる派手娘”。
――ねぇお母さん、私たち家族って少し変わっていたよね。子供の頃は気づかなかったけれど、大人になると色々見えてきたんだ。
七十代、額がかなり禿げあがってきた爺さんが運転をしています。あり得ないくらいノロノロ。約二十kmの速度です。田舎道ですが、一時停止は止まらず、相変わらずノロノロと目的地に向かっています。後続車には追い抜かれ、脇道からきた車からは、けたたましいクラクションを鳴らされています……。
私の事業所は訪問介護事業所を併設しており、訪問ヘルパーがらみの新規受け入れも少なくありません。訪問介護管理者、稲葉さんから相談を受け一緒にご自宅を訪れることになりました。
七十二歳(男性) 要介護1 糖尿病 戸建てに一人住まい
キーパーソン長女(高速道路で3時間弱に在住)
玄関ドアを開けた瞬間、私の苦手な臭いが漂ってきました。かつて実習でも耐えがたかったこの臭いは、自分のだとさほど気にならないのに、赤ちゃんのだと愛おしさまであるのに、他人のしかも成人のものだと吐きたくなる臭い。居間に通され一足踏み込むと……。
絨毯には無数のしみ、シミ、染み、模様? 茶色や黄色の模様?しみ、シミ、染み?
オレのココロの声
【う〇こジミやんけ~~~(怒)キモッ臭っ!】
(※私は女性ですが、離婚を機に自宅内では子供たちに対して『オレ』と言うようにごく自然になっており、家と外で完璧に使い分けています。)
ふと顔を上げると、居間の奥に仁王立ちの女性の姿が。眼鏡にブランドのワンピース、片手にグッ〇のボストンバッグ、ネイルギラギラ全身ブランド女?何ともこの家に似つかわしくない、いで立ちです。
「はじめまして、長女の新山香です。私も今到着したところなんです」
T市に住む長女の香さんが、今日は契約のためにお父様宅に来てくれました。なんとも対照的な親子です。居間の窓際にセミダブルベッドが置かれており、そこにこれから担当する沢木健吾さんが座っていました。紙パンツにズボンは履かず、上はらくだのシャツ姿です。
この室内状況から、健吾さんは排泄のコントロールがうまくいっておらず、トイレへ行く前に漏らしていることがわかりました。長女の香さんが紙パンツを購入して履くようになったのが最近の話だと。
まずは健吾さんの生活環境を知ること、何が不足していて何を補えば困りごとを解消できるのかを分析します。
*
「健吾さん、こんにちは~」
今日も訪問ヘルパーが健吾さんのお宅を訪問します。買い物をして栄養バランスを考えた調理をして、掃除をします。紙パンツが脱いだまま放置されているので、拾って袋にまとめます。健吾さんが好んで食べている菓子パンの空き袋や、プラスチック容器などもまとめます。紙パンツが汚れていれば、履き替えの準備や声かけをします。
時には絨毯にう〇こがコロンと落ちていれば拾って、きれいに拭きとります。まずは生活環境を整えて、人間らしい生活を行うことからです。足の筋力が弱ってきている健吾さんは、自分が面倒だと思うことはいっさいしません。ですからトイレへも行ったり、行かなかったりです。
お風呂にも入ったり入らなかったり。ケアマネジャーからするとすぐにでもヘルパーによる入浴介助か、デイサービスへの通所を組み立てたいところですが、本人に拒否があるうちは信頼関係が先決です。焦らず徐々に、本人の気持ちを傾けていければ良いと考えていました。
さて健吾さんのお宅には一台の車が駐車されています。なぜか後ろのトランク下にはボコっと凹みがあります。健吾さんご本人の自家用車でした。基本的に面倒だと思うことはしない健吾さんですが、欲望があればすんなり外出もできるのです。『足が弱っていても』です。
人の生活習慣はそう簡単には変えられません。ヘルパーを拒否なく受け入れた健吾さんですが、ヘルパーは四六時中へばりついているわけではありません。一日のほとんどが彼にとっては自由時間です。何をやっているのかまでは監視できません。
介護保険サービスが開始されてから一週間ほど経った頃です、ヘルパーから私に情報が入りました。
「頻度はわからないけれど健吾さん、車を運転して飲食店にいっているみたい」
紙パンツさえも履いたり履かなかったりの健吾さんですが、いざとなったら着替えをして外出しているようです。
次に健吾さんのお宅を訪問した時に私はそれとなく自家用車の話をすることにしました。聞くと健吾さんは長距離は歩けないから、車は便利でラーメン屋や焼き鳥屋へ、夕食を食べにでかけるのだと言います。
「健吾さん、車の運転は不便になっていませんか?」
「俺は運転歴五十年、これまで無事故無違反とはいかないが、ベテランよぉ」
「ラーメン食べによく行くんですか?」
「俺、ラーメン好きなんだぁ、毎日でも食いたいわ」
糖尿病の健吾さんには味の濃い食事は寿命を縮めているようなものです。店の場所や名前を聞き出そうとしましたが、はっきりとはわかりません。
健吾さん宅の訪問のあと、私はその足で健吾さんが言っていた飲食店を探しました。一軒目を訪ねると、健吾さんはその界隈では有名人でした。ラーメン屋の主人は健吾さんがよく行く焼き鳥屋を教えてくれました。焼き鳥屋の女将がスナックを教えてくれ、その後、五件ほどの行きつけの店を知ることができました。
スナックではもしや運転をしてきて、飲酒をしているのかを尋ねました。ただそこはあちらも商売ですから、運転してきているかはわからない、してきていないと思うという回答です。昭和じゃあるまいし、店側も飲酒運転と知っていてお酒を提供しているとは言えません。
私は自分の名刺を渡し、何か気になることがあれば連絡をくれるようにお願いしました。『これは大いに怪しいな』と思いながら、私は次の店、また次の店へとお願いをして回りました。
何事もなく数週間が経った頃です、私はいつものように訪問のため、車で移動をしていました。すると見覚えのある車が前方を走っています。車種や色、ナンバーを見るとそうです、ずばり健吾さんでした。遂に現行犯を目撃できるかと暫くすぐ後ろを走行し、尾行してみました。
ノロノロと時速二十五kmほどの走行です。後続車が私たちを追い越します。一時停止はなんとか止まりました、赤信号もかろうじて止まります。良く言えば安全安全安全運転です。安全運転もこうなると迷惑運転ですが。
そう考えていると健吾さんが運転する車はスッーと左側きわきわに寄って行きます。そう思ったら中央車線に寄って行きます。超スローペースな蛇行運転です。二kmほど後をつけている間、対抗車線の車と極めてスレッスレですれ違う場面もあります。無事自宅に到着し、私は今来たばかりのような素振りで健吾さんに聞きました。
「どこかへ行っていたんですか?」
健吾さんは近所に買い物へ行っていたと、商品もないのに言いました。
「健吾さん、免許証は持ち歩いていますか?見せて下さいよ」
「いや、家に置いてある」
家に入り、免許証を見せてもらいました。期限はまだ先まであります。普段から持ち歩いていない様子です。
【これは困ったことになりそうだなぁ】
私はすぐに健吾さんの自宅を管轄している交番に行きました。診断は受けていないが軽度認知力低下のある高齢者が、免許不携帯で事故になりうる運転をしていること。酒気帯び運転をしている可能性もあることなどを伝えました。
事故が起きる前に現行犯で捕まればまだいいですが、事故を起こしてしまうと健吾さん本人のみならず、相手の人生にも影響を与えてしまい兼ねません。車の特徴やナンバーなどを伝え、巡回時に注意して見てもらえるようにお願いしました。
若い頃から長い間運転をしてきた、特に男性は自家用車に乗れなくなると急に、認知能力が低下したり、うつ症状になったりと目に見えて衰える傾向があります。
活動範囲が狭くなる、楽しみがなくなる、生きがいがなくなる、田舎に暮らす人ほど車に頼らざるを得ない生活ですから、切り替えることは本当に一大事なのです。
それこそきっかけがないと手離すことは難しい、本当に悩ましい問題です。
初冬に入り、これから寒さが厳しくなるという頃、訪問ヘルパーからまたもや情報がありました。
「健吾さんのお宅、ストーブが点かないようです」
すぐに自宅へ行くとストーブが点火しません。調べると灯油タンクが空になっていました。昨年までは健吾さんが自ら灯油の配送を依頼していたのでしょうが、認知能力が低下している今年は依頼ができなくなっていたのです。
普段らくだのシャツと紙パンツで過ごす健吾さんも、さすがに今日はしっかりと服を着て、布団にくるまっていました。初冬とはいえ、夜になると更に寒くなるこの時期にストーブを使えないのは死活問題です。
私はすぐに知り合いのガソリンスタンドへ連絡をし、本日中の配送を頼み込み、長女の香さんに連絡をし、いつもよりも多く生活費を送金して下さるよう依頼をしました。
ケアマネジャーもヘルパーステーションもお金を預かることはできません。銀行のATMも操作が怪しい健吾さんに、娘の香さんは現金書留でお金を送金して下さいます。
香さんは見た目こそ派手ですが、サービス開始からこれまでいつも積極的とはいかなくとも、何かと協力してくださり電話もすぐに出てくれました。
『家族だから当たり前でしょ』と思われるかもしれませんが、そうじゃない家族も多いのです。
皆さんはどう思われますか?『一緒に住んであげればいいのに』という意見ももちろんあると思います。
ですが、我が子だと言ってもそれぞれの生活があります。香さんは身に着けている品から見ても恐らく裕福な生活をしているのでしょう。お父さんはらくだのシャツを着て、きれいとは言えない環境で過ごしています。だからといって香さんも同じようにし〇む〇で買った千九百八十円のTシャツを着るべきでしょうか?
そうではないですよね。親には親の、子には子の生活があるのですから。家庭によって色々な形があって当たり前です。香さんはよくやってくれている方です。
こうして、小さなことは色々あれど健吾さんの生活は徐々にではありますが、以前よりは(介護保険サービスが入る前よりは)マシになっていきました。
その年は年末になっても雪がほとんど降らず、健吾さんはいつものように運転をしているようでした。訪問ヘルパーから、健吾さんが家にいない(車もない)との情報を聞き、私は近所を探すことにしました。自由人ですがこれまで不思議とヘルパーの訪問時間には在宅していた健吾さん。
……一体どこへ行ったのでしょう?
前に行った飲食店へ行ってみました。車は駐車していません。周辺を回ってみました。夕方になり更に寒い時間になってきます。範囲を広げてしばらく探し回っていると、どうみても健吾さんらしき人が、大きな夕日に向かって歩いていました。
「健吾さん!」
なんだかおかしな格好だなぁ。
【ヒェ~、くっせぇ~】
健吾さんはおしっこでパンパンの紙パンツを履いていました。重さで股の部分が垂れ下がっています。一体どうしたのかと聞くと、買い物へ行こうと車を走らせていたところ、急に車が動かなくなり乗り捨ててきたというのです。
「どこに?」
「あっち」と夕日とは反対方向を指差します。
「あっち~?、鍵は?」
「ついてる」
なんとなんと、面倒なことになりました。私は面倒なことが大嫌い。まずは健吾さんを自宅へ連れて行って、日が完全に暮れるまでに車を見つける必要があります。
私は躊躇しました、というのもケアマネジャーが利用者を車に乗せることは禁止されているからです。
訪問ヘルパーだって関わる人たちみんな同じです。同乗させて、事故など起こせば本末転倒です。
『そんなことよりも』このおしっこでパンパンに垂れ下がっている、くっさ~い爺さんを自家用車に乗せること自体、マジで嫌なのです。乗せてはいけないルール云々より、
【こんなの(健吾さん)絶対、乗せたくね~よ!】の方が勝っていました。
しかし、日が暮れるのはもう時間の問題です。十分に考える間もなく、私は後部座席にいつも乗せてある『子供用のレジャーシート』をサッと敷き、くれぐれも健吾さんがシートからはみ出さないように慎重に乗車させました。
こうなったら、ルールなんぞ守っていられるか。ルールなんぞ破る為にある、と息子に教えたこともある私がルールなんぞ、なんぼのもんじゃい!
『break the rules!』です。
それよりこの鼻をつんざくようなアンモニア臭が車中にしみつくことの方が大問題なのです。それほど長くない道のりが私には永遠に感じた一日でした。(この先、乗車させたことはトップシークレットです)
本当に面倒でやっかいな、手間のかかる臭い爺さんです。どこか憎めないキャラがまだ私の理性を保たせていました。
健吾さんの自家用車を見つけた頃は、もう薄暗くなってきた頃でした。健吾さんの知り合いの女性の家の敷地内で、幸い一晩駐車させて下さることになり、私は長女の香さんに連絡をしました。地元で懇意にしている業者がいるかもしれないからです。 香さん計らいのもと、明日午前に車を引き取る手はずになりました。本当に香さんは迅速に対応して下さる有難いご家族です。
これを期に自家用車は自宅に戻さないことになりました。ということは、健吾さんは『今日から足がなくなった』のです……。
ラーメンを食べに行けない、焼き鳥も食べに行けない、買い物へも行けない、いや、実際にはタクシーでは行けるのですが。
健吾さんは今までのように頻回には外出できなくなりました。健吾さんの後ろ姿はどことなく、哀愁が漂っているような…。
車を取り上げられて最初こそ混乱していた健吾さんですが、意外にあっさり生活費のため香さんが送金して下さる現金を、タクシー代として使うことにシフトしていました。
なんとも変わり身の早い健吾さんです。いやいや、タクシー代で生活費がなくなると困るんですよ健吾さん!
どうにか他に目を向けさせなければいけません。自由に外出ができなくなった健吾さんに、なにか楽しみを持ってもらえたら…。ここ数ヶ月、健吾さんと過ごしてみて健吾さんは麻雀が好きなことを知りました。さっそく健吾さんを麻雀で釣って、デイサービスへ通所させる計画を立てました。
最初の出会いから数ヶ月、うんこをだだ漏れし、絨毯がうんこ染みでいっぱいだった健吾さん、あちこちぶつけてボコボコの車をノロノロ運転していた健吾さん、紙パンツがぱんぱんのまま途方もなく歩いていた健吾さん。人は変わるものですね。
今や、デイサービスへ週に二回通い、麻雀を楽しんでいる健吾さんになりました。何とも健康な人間らしい生活になってきました。周りのお婆さまたちも、健吾さんの牌さばきに惚れ惚れしているように見えなくもないです、恰好良いですよ健吾さん!
人の人生など、何が起こるかわかりません。周りからみて『人間らしい生活』が正しい生活なのか。健吾さんにとっては以前の生活も正しい生活だったのでしょう。ですが、高齢の方の暴飲暴食はやはり身体を知らず知らずのうちに蝕みます。定期受診で通院した際に、健吾さんは医師から糖尿病の悪化を告げられます。入院が必要だと。腎臓に負担がかかりこのままでは人工透析もありうると。
こうして健吾さんはあっけなく入院をしました。ここからの動きは早かったです。
長女の香さんが、入院先の医師の勧めで施設入居を勝手に決め、自分の住むT市の自宅付近で施設を探し、健吾さんを入居させる段取りにしたのです。きっかけがないと事態が動かないことは多々あります。少しはマシになった健吾さんの生活も、一体いつまで続けられるのかは誰にもわかりませんでした。
特に糖尿病は食事療法が必須です。回数が少なくなったとはいえラーメンや、焼き鳥などを好きなだけ食べていた健吾さんは、自宅に住んでいる限りやめることはできなかったでしょう。どんなに私たちが注意をしても、完全はないのです。
では、施設に入れば解決できるのか?百%はないです。これから健吾さんは食べる物を制限され、お菓子すら隠し持てないかもしれません。それが健吾さんの幸せなのかは、本人にしかわかりません。
私が同じ立場だったなら、「自由にさせてよ」と思いますが、子や周囲がそうはさせてくれません。
好きな物を我慢して、カロリーや栄養を考えて節制した食事を摂って、食べる楽しみも外出する楽しみも、自由に暮らす楽しみもなくなって、長生きする必要があるのか。人生は奇妙奇怪です。矛盾だらけなのです。
――幸せかどうかは、本人が決める事なのです。
好きなところに自分の足で走れなくなっちゃったね 健吾さん。
一番幸せを感じる場所に走れなくなっちゃたね 健吾さん。
健吾さん 今、幸せですか……。
――お母さん、周囲が思う幸せと、本人の幸せは必ずしも一致しないんだね。人間は単純じゃないって痛感したよ。
【ハルの人間日記 -スピンオフ-】
ハレルヤ
20✖✖年 8月✖✖日
はいっ 終了ーーーーーーーーーーー。
3日前に離婚を決めた。
予定よりも少し早かったけど、きっぱりバシッと決断した。
昨日のアパート探しは楽しかったな。
和美もゆうやんも一緒に行ってくれて
めっちゃくちゃ笑った。
しかしあの床はないだろ。斜めすぎ(笑)
ビー玉 あっちまで転がっていったし、酔うわ。
14年も連れ添ったんだし、もういいだろ
7年も看たんだし、よくやったよ
あたしを褒めてあげよう
あたし がんばった。
お金はないけど、ぜんっぜんないけど、なんとかしよう。
翔と平と3人で、あたしたちなら楽しく暮らせるよ。
もうアイツの顔色窺って暮らさなくてもいいんだし。
あたしは電球も取り換えられるし、家具の組み立ても全部やってきた。
パソコンもプリンターも、全部あたしがセットアップしていたし
運動会の席取りも、旅行の計画もひとりでやってきた。
アイツって何やってたっけ?
しっかし、いなくて困ることがひとつもないな。
あの子たちを絶対に幸せにしよう
一緒に幸せになろう!
それにしても、計画が狂ったな
ケアマネジャーになってまだ1年
あたしまだパートなんだよな
明日、上司に正社員になれないか
聞いてみよ。




