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サバイバル•プラン  作者: Haru
--アナタハドノヨウニ、オイルオツモリデスカ?
1/11

ケース1 毎日が日曜日

登場人物紹介

主人公:小泉ハル

ケアマネ歴17年。冷静な顔で心の中は常にツッコミ満載。老夫婦のカオスな生活に巻き込まれていく。

利用者:竹林三郎

昔気質の頑固じいさん。「自分でできる!」が口癖だが、だいたいできていない。なぜか憎めないタイプ。

   :竹林尚子

脳梗塞の後遺症あり。気分の波が激しく、時々ドラマ級の大騒動を起こす。でも根は素直でかわいいおばあちゃん?

 全くガラじゃない私が介護の世界で、二十数年やってきた。

きっかけは母の『死』だ。


 母の死から九年後、ひょんなことから母の『想い』が猛烈に気になった。

 高校生の私が、死の間際にいる母の下の世話を『当然』として、やったこと。下の世話などできないと拒否した姉。


 果たしてどちらが正しいのか、二人の息子を育てている私の中に、はじめて芽生えた疑問。


「お母さん、お母さんはどうだったの?嫌だった?それとも嬉しかった?」

私は、お母さんの気持ちを未だに探しているんだよ……。


【注意 これはココロの声です】

「あぁ~~しんどっ!めんどっ、腹立つわぁ~」

 この世は矛盾だらけだ。

「くそがぁ~! フギャーッ」

「この、老害どもめ~~~~~~!」 



 まさか、この仕事がこれほどまでに厄介なものだとは、新米の頃の私は知る由もなかったのだ。





 こんにちは、ケアマネジャーの小泉ハルです。 ケアマネって、どんな仕事だと思います? 「なんでも屋」? いやいや、頷けません。


 この仕事の裏側には、あなたが想像もしない『人間のドラマ』があるんです。 笑って、怒って、泣いて、呆れて、そしてまた立ち上がる。 そんな人たちと私は毎日向き合っています。


 興味がなくても大丈夫。 読み終わる頃には、きっとあなたも『ハル・ワールド』の住人になっているはず。

さあ、私の実体験をお話ししましょう。




 私が竹林さんご夫妻に出逢ったきっかけは、地域包括支援センターからの紹介でした。


要介護1 夫 竹林三郎さん(八十五歳)

要介護2 妻 竹林尚子さん(八十三歳)


 ご夫妻は子供がいない二人暮らしの老々介護世帯です。三郎さんは高血圧と、腰痛もち。尚子さんは脳梗塞で左半身に麻痺と認知力低下の後遺症が残っていました。


 やせ細った威勢のいい三郎さんは、頭もしっかりしており、この世帯の鍵を握るキーパーソンです。そんな三郎さんから困りごとを聞きます。


「二人ともこんな状態だから足が弱り、買い物に困っています、また、妻がお風呂に入れなくて困っています」


 家はかなり古い木造二階建て住宅です、聞くと築五十年でした。冬になるとかなり寒く、廊下は雑巾がけをするとスケートリンクのようにツルツルに凍ってしまうほど、断熱がしっかりしていない家屋です。


 冬には氷点下が当たり前のこの土地で、このような住宅に住む高齢者は少なくありません。

 ちなみに三郎さんのお宅は、トイレは汲み取り式便所、通称『ぼっとん便所』でした。この地域でもさすがに希少です。


 数十年前にタイムスリップしたかのような住宅で、身体に不自由を抱えた二人の高齢夫婦が頼る人もなく、ひっそりと暮らしているのです。


 私はさっそく情報収集をし、掃除と買い物に訪問ヘルパーを、尚子さんの入浴のためにデイサービスを組むことにしました。


 また、病院受診に困難があると考え提案した結果、通院する際の『車の乗降介助』も利用する事になりました。経済面を考慮し、最低限の組み立てです。


 三郎さんは「自分でできますから」がモットーの方です。

 周りから見れば不十分に感じるかもしれませんが、できることは自分でやる、ということは最も大切なことで、その能力を失わないためにもやれる範囲で実施する、ということに異論はありません。


 あくまでも『危険がなければ』です。


 介護保険のサービス利用を開始するまでには、関わる全てのサービス事業所と契約が必要です『担当者会議』といってケアプランを立案した上で関わる人みなで話し合いの場を設ける必要もあります。 


 いくつかの段階を経て初めてサービスが開始されるのです。

(※急を要する場合は別手段もあります。)

 

 三郎さんはいつも忙しそうにしている私を気遣ってか、話し合いの日程は私に任せるとおっしゃってくれました。


「私たちは『毎日が日曜日』のようなものですから」と、朗らかに笑って。



 介護保険が速やかに開始されてから、しばらくは何事もなく経過しました。

『何事もなく』と言っても、尚子さんのデイサービスに通いたくない病は時折、発症しました。

 

 そして時には夫婦喧嘩をし、尚子さんが動きの悪い左半身を引きずりながら、隣家に這いずって助けを求めたこともありました。


 ヒートアップした夫婦喧嘩を諫めるために、一時的に尚子さんにショートステイに宿泊して頂いたこともありました。


 飲酒が過剰になると三郎さんはべらんめえ口調になり、普段ではとらない"ややこしい"態度を他人にも見せることがありました。

その度に、しらふに戻れば反省しかりです。


 そんな様々な面を見せてくれる竹林さんご夫妻ですが、どこか憎めない二人は、関わるスタッフ達からも嫌われるようなことはありませんでした。


 


 三郎さんが胃の病で入院した時には、尚子さんの姪っ子が自宅で面倒を看てくれたこともありました。


 私はショートステイを勧めましたが、尚子さんのたっての願いで姪っ子快諾のもと、二週間看てくれたのです。


 三郎さんは胃の病を発症してからは偏った食事が目立つようになり、元々痩身だった身体が更にやせ、自転車で煙草を買いに行く事もままならなくなっていきました。





 出会いから1年半ほどが経った頃、訪問ヘルパーから私に気になる情報が入りました。


 三郎さんが数日前から咳をしていて、それも激しく咳き込む場面もあり、今日は発熱していたというのです。ご飯もあまり食べていないようだと。

 

 私の居宅介護支援事業所(ケアマネジャーの事業所)は訪問介護事業所とデイサービスが一体になっており、逐一ヘルパーから情報が入るシステムになっていましたから最新の情報を聞き、私はすぐに空き時間を見つけて竹林さん宅へ訪問しました。


 三郎さんはヘビースモーカーですが咳をすることは珍しく、発熱もあることから「一緒に病院へ行きましょう」と誘いました。


 自分の意思がはっきりしている三郎さんは余程のことがない限り他人に頼りません。この日は重々に断られました。


「明日も熱が続くようであれば必ず病院へ行きましょう」


 

 約束した次の日、自宅へ行ってみるとやはり熱は下がっておらず、尚子さんの通院もあったため、三郎さんは病院受診をしぶしぶ承諾してくれました。


 通院のために車の乗降介助をするヘルパーの迎えのもと、夫婦は病院へ。

私は後ろから追走しました。


 かかりつけの内科の診断では「総合病院で診てもらうように」と言われ、尚子さんを自宅に置いてから総合病院を受診しました。


 検査結果はなんと『肺結核疑い』です。

「肺結核?!」


 驚きでしかなかったです。結核菌を保菌している人はこれまでもいましたが、発症した人と至近距離でかかわったことは、はじめてだったからです。


 三郎さんは喫煙者ですが、これまで痰を吐いていたことも、咳をすることもなかったため、疑ったこともなかったのです。


 すぐに総合病院から結核隔離病棟を持つ専門病院へ移動が決まりました。


 病院から言われたのはこの場合、家族送迎が普通であり、民間タクシーなども使えないということです。ではどうすれば良いの?診断した医師は軽く言いました。


「ケアマネジャーさんが連れて行ったら?」


 私は普段、仕事中は冷静に振る舞います。ですが心の中では汚い言葉を吐くことで、ストレス解消を担っているという、ごく普通の人間です。


 医師からの「ケアマネジャーさんが連れて行ったら?」の一言に、顔は平静を装っていましたが、内心は……。


【はぁ?ふざけとんのか! オレに感染するリスクがあるやないかい!】です。

(※私は女性ですが、離婚を機に自宅内では子供たちに対して『オレ』と言うようにごく自然になっており、家と外で完璧に使い分けています。)


 すったもんだはありませんでしたが、上司に苦汁の了承をもらい晴れて本人を自家用車に乗せて、5㎞ほどの道のりを走行することになりました。


 軽自動車の中は狭く、9月下旬肌寒くなってきた夕方です。全ての窓は全開で、三郎さんと私と高性能だと言われているN95マスクだけが頼りの(内心怒りと不安の)移動となりました。




 三郎さんが入院している間、尚子さんは当然ショートステイに行くしかないと思っていました。


 その矢先に、以前三郎さんの入院中に面倒を看てくれた姪っ子が再度、自宅で尚子さんを看ると名乗り出たのです。

 

 訪問ヘルパーも全てキャンセル、デイサービスへも行かない、ほぼ二人だけの生活になりました。それは私たちを寄せ付けないかのように、バリアを張っているように感じられました。


 尚子さんもまた、姪っ子の言いなりになっているかのようで、私たちを遠ざけます。


 しかし、生活が始まって3週間あたりだったでしょうか、突然この姪っ子が出て行ってしまいました。


 尚子さんは脳梗塞の後遺症から、脳血管性認知症でもあるため正確な判断能力には欠ける部分があります。


 姪っ子が面倒を看てくれる状況に感謝の気持ちから、お小遣いを渡していたようでまさに 『金の切れ目が縁の切れ目』で、姪っ子はお金のなくなった尚子さんから逃げてしまったのです。


 夏でも毛糸の帽子を被り、初秋には指開き手袋。初めからどこかうさん臭さがありましたが、尚子さんの気持ちを考え距離を置いて見守っていました。

 実の娘ではないので、金が切れると本当に縁も切れてしまうのかもしれません。


 姪っ子に逃げられた尚子さんはどんなに説得しても「ショートステイには行きたくない」と言います。暫く訪問ヘルパーを毎日投入して日々の生活を何とかやり過ごしました。



 デイサービスも再開しますが朝、デイサービス事業所から「本人が行きたくないと言っている」との情報があり、私が自宅へ行き、本人を起こして食事を食べさせることもありました。


 その時々によって歩けないこともあるため、上体を持って下肢を引きずり、隣の部屋に移動介助をすることも。


 基本的に自由奔放な尚子さんは脳血管性認知症も加わって、人としてあり得ないほどわがままぶりを見せる面もあります。表の私は、

「大丈夫ですか?無理しないでね」と微笑みますが、


ココロのオレは、

【ふざけんな、ババアが! くそ重いんだよ!】です。


 表面的にはケアマネジャーは現場で介護をすることはありません。それはそれぞれ『役割』というものがあるからです。

 訪問ヘルパーの役割、デイサービスの役割、ショートステイの役割。


 ただ、それぞれの役割にあてはまらないグレーゾーンの多いこと多いこと。『生活をする』ということは、四角四面にはあてはまらないことが、多様にあるのです。そのグレーゾーンを埋める人が、必ず必要になる場面があります。


(デハソレハイッタイ、ドナタガニナウノデスカ?〉


 多くのケアマネジャーはこの現実に大いに頭を悩ませているのです。

 


 ところで周囲で結核患者が出た場合、みなさんはどのような対処をするかご存じですか?これが在宅での介護現場で起こることなど稀であることは確かです。


 当時私の周りにもこのような経験をした人はいませんでした。

 

速やかに医療機関から保健所へ連絡がいき、三郎さんに係わった人々をリストアップした上で、濃厚接触者と認められた私を含めた八人は保健所に呼ばれ、血液検査をし、感染(保菌)していないか八週間結果を待ちました。


 人生で何番目かに長い八週間。


 みんな家族がいる、中にはガンサバイバーの方もいました。私だって子供と三人で暮らしているのに、私が保菌者になったらどうするの?若いうちは大丈夫でも、免疫力が低下した時や生涯で発症するリスクは高まるでしょ?


 絶対に保菌したくない、絶対に、絶対に……。

みんなの願いでした。




 ……結果、願いは通じ誰一人として感染することはありませんでした。


 ありがとう三郎さん、いや三郎さんにありがとうじゃないな、三郎さんのせいでこんな目に?いやこの仕事をしている以上、このようなことは起こり得るのだと良い教訓になりました。


 コロナ感染があった今の時代じゃ、感染対策は当たり前のものになりましたが、当時は常時のマスク着用や、手指消毒は必須ではなかったので、何でも学びだと実感した出来事でした。




 三郎さんが入院してから二か月ほどが経ったある日、私は病院に呼び出されました。


 内容は『退院後の生活について』です。日常を生きる我々にとって入院期間中よりも、当然退院後の生活をどう過ごすかが大切になってきます。


 肺結核の場合、排菌が完全に陰性になれば退院ですが、その後一般的に6か月~9か月は完璧な内服治療が必要です。


 病院スタッフから「三郎さんは退院してから自宅で奥様と二人で生活できますか?」と問われ、私の答えは強く「NO」でした。


 これまで飲酒も喫煙も辞められない、食事も満足に摂れない、運動不足と栄養不足と自由しかない『毎日が日曜日』の不足だらけの三郎さんに、できるわけがないのです。


 規則正しい生活という、誰もが心がけている生活習慣など。


 私はわかっていました、1年半の付き合いで彼がどれだけ若い頃から自堕落で、自由奔放な生活を夫婦でしてきたかを。


 必要な預金もせずお金を湯水のように使い、着の身着のままで生活をしてきたかを!(言い過ぎ?)


 諸々の事情からもちろん三郎さんの意見も聞きながら、施設入居が現実的になります。


「三郎さん、自宅で尚子さんと生活できると思いますか?」

「無理です。私は満足に歩けないし体力もない、尚子の介護をすることなどできません」



 簡単に『施設』と言っても様々な施設があります。三郎さんの現状で入居が可能な施設、介護面で条件を満たす施設、何より経済面をクリアできる施設、尚子さんをどうするか……。


 問題は山積していました。しかも三郎さんは体力がない上に入院中です。


 姪っ子は金の切れ目は縁の切れ目で雲隠れしましたし、三郎さんの兄弟は遠方の妹さんと、市内にいる弟さん。


 こちらも要介護者で、キーパーソンはできないと以前に断られています。しかも断られた最大の理由は、三郎さん夫妻の若い頃からの自由奔放な生活態度が主な原因で、兄弟仲は良好とはいえませんでした。


「小泉さんに全部任せるから、信用しているから小泉さんのいいようにしてくれて構わないから」




 私はフィクションの映画やドラマを観て、時にはバラエティを観ても号泣します。

 ノンフィクションの小説もドキュメンタリーも大好物です。『涙活』なる言葉がでてきた時には「それそれ!」と大いに共感しました。


 私は自分の死生観をしっかりと持っています。


 高齢者に関わる仕事を長年していて、お別れすることも数知れず。中には五十代でお別れするケースもあります。


 ですが私はお別れとなった時に泣いたことがほとんどありません。

 なぜなら、病を持ちながら苦しい中でも毎日を生き、年々老いて行く我が身を受け入れながら、日々過ごしてきた彼らがどんなに頑張って生きてきたか。


 わがままに自由に生きていたとしても、時に弱音を吐露し、「お迎えを待っている」と発言してきたかを知っているから。


「よくがんばりましたね。もうこの世ではお役目を果たしましたね」という気持ちしかないのです。彼らの晴れ晴れとした顔で映る遺影を見ると、涙はいっさいでてきません。


 私自身の両親が五十代で亡くなっていることも関係していると思います。七十代、八十代、九十代、そこまで長生きできたのだから『儲けもの』という考え方なのです。




 三郎さんと話した帰り道、私はいつものように次のお宅訪問に向かっていました。先ほど三郎さんと話した内容をひとつひとつ思い返しながら。


 閉鎖された病室でN95マスクを着用して、少し離れたところから見た三郎さんの表情を。


 淋しそうだけど、私を信頼してくれているとわかる眼差しを。車を運転する私の視界はだんだんとぼやけていきました。



 三郎さんと尚子さんのこれまでの生活を思い返し

子に恵まれず夫婦二人で歩んできた人生を想像し

これから二人の生活をどうしなければいけないかをイメージし

 

答えがわかっている道のりを辿っていかなければいけないことを想うと、私の目からはぼろぼろと大粒の涙が溢れてきました。もう前も見えなくなるくらいに。



 離婚した時だって泣かなかった。

職場ではクールビューティと言われている。

リアル日常では決して泣かない私が、です。



「あぁふざけんなよ、なんであたしがそこまでしなきゃいけないの!ケアマネジャーの仕事じゃないだろ!そんな選択までしなきゃいけないのかよ!」


 私は怒鳴るように、車中で叫んでいました。



 これから夫婦の人生は百八十度変わってしまう、もう二度と一緒に生活することはないかもしれない。


 他人の人生をここまで左右することは、これまで経験がありませんでした。


 判断する人がいない、決定する人がいない、相談する人がいない、孤独な夫婦に残された選択肢は、

  『私だけ』 になったのです。


 その重圧に押しつぶされないように、私はハンドルをただただ握っていました。





 二人の生活の場が整えば、三郎さんの退院日が決まります。早急に手配する必要がありました。


 まず尚子さんと生活保護の申請に役所へ行きました。役所では生活歴から病歴、親戚関係などこと細かに聞かれます、脳血管性認知症を患う尚子さんには本当に大変な作業でした。


 三郎さんからの聞き取りも含め、無事に申請は進みました。


 三郎さんは最低限生活できるほどの年金取得者ですが、尚子さんは違います。夫婦の片一方が保護を受ける場合、世帯分離という方法があります。この場合、自治体の判断によって同一施設への入居ができない場合があります。


 こうして三郎さん夫妻は経済上の問題から、夫婦別々の施設への入居が必須となりました。三郎さんに関しては見学に連れて行けるわけでもなく、条件を最低限満たす場所を探す方法しかないのです。


 もっとお金があれば選択肢が増えるのに。世の中お金だと思い知らされる現実です。




 それぞれの行き先が決まり、入居までの数週間で二人の住処である、築五十年の住宅を引き払う必要がありました。


 賃貸なので大家に引き渡すだけなのですが、これが大変です。数十年暮らしてきたこの家には二人が溜め込んできた多くの荷物と、仏壇もあります。今はもう使用していない二階には大きなタンスもあります。


 業者からの相見積もりを数件とり、安くて丁寧で迅速な業者に依頼します。


 幸い三郎さんの遠方に住んでいる妹さんが、まとまったお金を三郎さんに送金して下さいました。


 こういう時にこのような行動がとれる妹さんは本当に素晴らしいと思います。私はこの時に初めて妹さんと連絡をとったのですが、慌てることなく、誠実に向き合ってくださいました。


 このお金がなければ三郎さんの施設入居の前払い金なども、支払えなかったのですから。

 


 三郎さん不在の中、ライフラインを停止する作業も、各々へ転居を伝える作業も全て尚子さんと私が担わなければいけません。


 身内でもなんでもない私が手続きを行うには、尚子さんが隣にいて証明して下さるだけでも助かるのです。




 こうして三郎さんはじきに退院し、二人は別々の場所で生きていくことになりました。


 三郎さんは治療がまだ続きましたが、まじめに治療に専念しました!? しました、のなら良かったのですが……。


 時には隠れて飲酒をし、時には隠れて

喫煙をするなど、やはり長年染み付いた生活習慣を容易に変えられるわけもなく、度々『オイタ』を繰り返しながらも日々を過ごしていました。


 一定期間の内服治療が終わってからは、尚子さんと同じショートステイを数日間組み、一緒に過ごすこともありました。



 ちなみに尚子さんのケアマネジャーは、施設入居と同時に別事業所の若い女性ケアマネジャーに交代しました。


 三郎さんが不在の中、尚子さんと私が一緒にいる時間が濃厚になると、尚子さんは私が『お金を持って行った』と思い込むことがありました。


 あまりに距離が近くなり過ぎるとお互いに悪影響が生じる場合があるのです。


 私はいつでも身の潔白を示せるよう、身を守る術を徹底していますが、尚子さんには思い込んでしまう疾患がありますから、自分の身を守る上でも、ケアマネジャーの交代は妥当だったのです。


 仕事の範疇を超えて様々なことに対処しても、尽くしても、報われないことはあるのです。リアル涙を流さない冷徹な私にとってはそんなに、たいしたことではありません。


 ですから、尚子さん担当のケアマネジャーと連携して、二人一緒に過ごせる時間を設けたり、互いの近況を(本人承諾のもと)伝えあったりしていました。





 月日が流れ、このまま穏やかに二人の生活が経過すると思われた矢先、三郎さんに消化器系の悪性腫瘍が見つかりました。


 三郎さんも八十代後半です、いつお迎えがきてもおかしくない年齢です。


 施設へ入居して間もなく、妹さんから送金されたお金が底をつく前に、三郎さんは自らが亡くなった後の『後始末』について、ある業者と契約を結びました。


ごく簡単な火葬と、遺品整理とお骨のこと。


 尚子さんは生活保護を受けていますから、最低限は公費で賄ってくれますが、引き取り先のいない三郎さんはそうは行きません。


 これ以上妹さんにも迷惑をかけたくない想いもありました。三郎さんは今後訪れるであろう未来を見据えて、私と相談した上できっちりと人生の後始末までもを、ぬかりなく準備したのです。




 いつものように入院先におむつを購入して持って行きました。家族がいる方は普通に家族が担う役割です。


 三郎さんには担ってくれる人はいないので、私がやるしかありません。自費のヘルパーに依頼することももちろんできますが、何でもお金がかかります。


 余裕があるなら良いですが、そうでない場合は一体どうすれば良いのでしょうか。


―そこまでケアマネジャーがする必要はない、してはいけないー

わかっていますよ、そんなことは。私が一番重々わかっています。


 ケアマネジャーは公平でなければいけない、相手のためにも何より自分のためにも、やり過ぎは首を絞めるだけ。


 もし小泉以外の担当に交代する時がきたら、やり過ぎた結果どうなると思っているの?


 そんな声がしっかり聞こえてきそうです。


 私だって一線を超えたいわけじゃない、でもやらざるを得ない場面があるのです。


 経験のあるケアマネジャーの方はわかって下さると思います。大なり小なり、このようなことは実際に起こっているのですから。声を大にして訴えたいと思います。


「誰も望んではいません。」

 

 人の人生とは、生活するということは、マニュアル通りには、いかんせん行かないものなのです。






……三郎さんはその後、数週間でお亡くなりになりました。


 胃を切除してから、長い肺結核の治療を経てそれでもがんばって生きて生きて。今度は癌が発症して、思えば私が携わってから闘病の連続でした。


 手放しに『善い人』とは言えないけれど、関わった人たちみんな、三郎さんを嫌いじゃなかったよ。


【自分の身内だったら絶対に、嫌だけどね。】


 あなた達は私がこの仕事を続ける限り、絶対に忘れられないご夫妻です、絶対に。





 三郎さんが亡くなった数週間後、尚子さんに面会に行きました。この頃、尚子さんは要介護4になっており、特別養護老人ホームに入所していました。

ますます認知能力も低下しています。


「尚子さん、私のことわかる?久しぶりだね」

「わかるさぁ、あんたには世話になったものね、元気だったかい?」


 たったそれだけでしたが、私は少し救われたような気がしました。三郎さんはともかく、尚子さんは夫婦二人を引き離した私を良く思っていないだろうと、心のどこかで感じていました。


 もちろん認知症ですから、話を合わせただけなのかもしれません。ですがその何気ない言葉に救われる瞬間があります。


 だから私は、この仕事を辞めたい、と思ったことがないのかもしれません。




 三郎さんの最期の入院先、病室に面会に来たわたし。


「三郎さん、私、次来るのは来週かもしれません、ちょっと都合がつかなくて」


「いいんですいつでも、小泉さんは忙しいんですから。


私は『毎日が日曜日』なので、いつでもいいんですよ」




出逢った頃より痩せた姿で、ニカッと笑う(ところどころ歯がない)三郎さんの姿が、そこにありました。




――お母さん、私のケアマネジャーとしての信念を、教えてくれたご夫婦だったよ……。


【ハルの人間日記 -スピンオフ-】


お母さん

19✖✖年 12月✖✖日


今朝 お母さんが死んじゃった。

もう泣き疲れたな

お母さんの傍らで必死に名前を呼ぶ

おじいちゃんの方が、心配になったわ

お通夜は明日

ひっきりなしに人が来て、疲れた。

茂兄に

「おまえは暇なんだから、下に行って人が来ないか見とけ」

って言われて、悲しくなった。


お母さん、どうしてあたしを置いていくの?

お姉ちゃんも兄ちゃんたちもみんな、夫や妻や婚約者がいて

あたし、ひとりぼっちになっちゃったよ

お母さん、眠れないよ

これからどうなるのか考えると怖くなる


お母さん、あたしも連れて行ってよ

2年前にお父さんも死んじゃって

あたしまだ高校生だよ

こんなことってある?

お母さん ねぇお母さん


♦♢♦♢♦♢♦♢♦♢♦♢♦♢♦♢♦♢♦♢♦♢


19✖✖年 2月✖✖日


お母さん あたしもうすぐ高校卒業だよ。

華ちゃんと2人で計画していた、卒業旅行に行こうと思うの

お母さんの49日もまだなのに

いいのかな?

泣いてばかりもいられないから、行ってもいいよね


茂兄は反対していたけど、あんな奴

どうでもいいわ

小学生の頃から、テレビ権利も

奪われ続け

この辺で決着をつけねばならん

2泊3日の旅行だよ

T市まで特急で3時間

あの店にも、この店にも行きたいな


お母さん

あたし、すっごく練習したんだよ

40パターンくらいは習得したかな

パラパラ 上手に踊れるかな

お立ち台ではっちゃけてくるからね

天国から 見守っててね。

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