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3-3 魔法共有(非互換)/異境譚 始

英文がエキサイティングしてる? いいえ、グー○ルです。仕方ないね。

 肩に鞄を提げ、手には刀の輸送ケースを持って帰路に着く。

 鞄もケースも、重さとしては大したことはないのだが、嵩張るので歩く上では煩わしい。

 左右に並ぶ家々の合間に見える山間に、気晴らしに視線を向ける。

 茜色の空を、山陰に隠れ始めた夕日を背景に鴉の編隊が飛んでいく。

 鴉の鳴き声が聞こえるかと耳を澄ましてみるが、流石に距離がありすぎて聞こえない。

 聞こえるのは左右に立ち並ぶ家々の微かな生活音くらいのもので、車の騒音も雑踏も聞こえなかった。

 この適度な静けさは悪くない。

 両親祖父母姉四人に自分と弟の八人家族である我が家は、どうしたって騒がしい。

 その騒々しさは嫌いではないのだけれど――愛おしいものだけれど――静けさに浸りたい時もあった。

 無作法とは思うが、石野森さんからお使いの駄賃にと貰った荻の月をポケットから取り出して口にする。

 美味い。荻の月は地方土産としては有名なものであるが、数ある銘菓の中でも頭一つ抜けた完成度だと思う。

 ああ、そういえば田野伊原と日暮塚はどうしたろう。

 あのまま獅子屋へ行ったのか。

 思えば二人には随分と気を使わせてしまった。

 日暮塚が下手な芝居に上手く乗ってくれて、田野伊原が道化を演じてくれたから、あの場は上手く回ったのだ。

 どちらかが乗ってくれなければ、あの場の気まずい空気は更に深みを増しただろう。

 俺は人付き合いが多いほうでも、得意でもない。正直、苦手だ。

 人と関わる事自体を煩わしく感じて、悪癖ではあるが、特に何も考えずにその場のノリと勢いで場を流そうとしてしまう。

 鉄を打つことに喜びを感じ、剣を振るうことに安らぎを覚える。

 そんな根暗…………いや、待て。客観視すると、これは根暗に失礼な奇人変人の類じゃないか、俺。

 帰ったら祖父に相談しよう。

 姉は駄目だ。それでもいいじゃん、という普段の横柄さとは似ても似つかない肯定しか帰ってこない。

 まあ兎に角。

 今回も例によって、殆どが勢いだった。

 ただ人付き合いが苦手な俺でも、楽しく思えた。

 二人はどうだったろう。楽しく感じていたなら喜ばしい。

 まあ次があれば、それもわかるだろう。あればだが。

 あればいいな、などと考えていると―――――風景が入れ替わった。


「――――――――?」


 ?

 止める事も思いつかなかった足が柔らかな土の地面を踏みしめる。

 制服のズボンを茂みがする感触に、目の前に迫った細い木に足を止めて、そのまま周囲を見回した。



 木、木、木、木、木。



 前兆も無ければ予兆も無く、気がつくと森の中に立っていた。

 茫洋と首を傾げる。

 何もかもに前触れがなくて、何もかもが突然すぎて、驚くという反応すら起こらない。

 紙芝居のページを入れ替えるように、人形劇の背景を入れ替えるように、自分以外の何もかもが入れ替わった。


「―――」


 言葉もない。何が起こったのか理解が及ばない。

 五感は何一つとして応じなかった。本能は危険を訴えなかった。理性は異常を察しなかった。

 理性も感情も状況に対して反応できず、現状に対する思考すら始められない。

 忘我とはまさにこのこと。ただただ何もできずに立ち尽くすばかり。

 どれだけ立ち尽くして居ただろう。


「…………寒いな」


 不意に湧き上がった感想に我に返った。

 別に寒さを感じたわけではない。制服は冬服で、肌に感じる空気は暑くもなく寒くもない。

 少なくとも暑さを感じる状況ではないのに、それでも心は言い知れぬ寒さのようなものを感じ取った。

 それが何なのかは解らないが。


「――――何処だよ、ここは?」


 改めて周囲を見回していく。

 乱立する木々の背は小さく、並ぶ感覚は短い、茂みや薮などが合間合間を埋めていて見通しは非常に悪かった。

 地面は柔らかいが足を取られる程ではないが、しかし木の根が所々に突き出していて、動きを制限されそうだった。

 ここがどこかが解らないが、夜の森で無いだけ――――


「まて、なんで。そもそも今は夕方だったろう?」


 反射的に空を仰げば、葉の茂った木々の合間から見える空は曇っているのか、どんよりと明るかった。

 正確な時間はわからないが、それでも夕方じゃないのは確かだし、そもそも今は冬だったというのに立ち並ぶ木々は夏の姿だ。

 いや、おかしいのはそれだけじゃない。一つの異常さに気がつくとそれ以外にも目が付いた。

 息を吸えば否応なしに嗅ぎ取れる筈の、緑の匂い、木々の香りはおろか、土の匂いすら感じない。

 更には虫の羽音も、鳥の鳴き声も、木々のさざめきすらも聞き取れない。

 例えコンクリートジャングルと呼ばれる街の中であろうとも、当たり前に存在する命の息吹を、この森からは感じない。

 夏の森を切り取って剥製にしたかのような、紙粘土と石膏で作られた精巧な作り物の森の中に居るような感覚に、警戒心が否応なしに高まっていく。

 幸いなのは状況が現実離れしすぎていて、驚くを通り越して冷静になっていることだろう。

 いやもしかしたら、焦っている自覚が無いだけなのかもしれないが、それでも冷静さを保つことはできている。


「神隠しで、地球の反対にでも放り出されたか?」


 余裕を作るために冗談めかして呟いて、念のため肩に提げていた鞄を落とす。

 次いで空いた手で胸ポケットを軽く叩いて、運搬ケースの鍵を確認する。

 ある。無くしてない。少なくとも武器になるものが手元にあることに安堵の息を吐く。


「まずは、どうする? …………どうすればいい?」


 遭難時の鉄則を思い出す。

 山ならば山頂を目指して移動し、そうでないならばその場から動かない。

 風は無く傾斜のない地面から察するにここは平地にある森だろう。

 山ならば山頂から人里を見つけて下るという手があったのだが、それは使えない。

 そして動かないというのは論外だ。単純に捜索と救助を期待できない。

 住宅地から居なくなった人間を探すのに、幸運に即日捜索隊が組まれたとしても、この森に居ると特定して捜索するなどありえない話。

 なので、俺は自力でこの森から脱出して人里へ向かわねばならないのだ。

 

「………荻の月を食べたのは失敗だったな」


 あれは貴重な食料だった。餓死が一週間は伸びるくらいに。

 後悔しても仕方ないのだが、今後があるなら携帯食料を常にストックしておこう。

 大阪の人は常に飴を持ち歩くというが、それはきっとこういう時のために違いない。


「まずはまあ、木登りか」


 得意ではないが仕方が無い。

 まずは少しでも見渡せる場所から、進むべき方角と目標を見出さなければ。

 そして運搬ケースを手近な木に立てかけ様とした時だった。

 がさがさ、と薮を掻き分ける音が聞こえたのは。

 静かの森に、その音は良く響く。音源との距離は2、30mはあるようだった。

 どうしたものか……。

 念のため、ケースの鍵だけを開けておく。

 音の主が人間だった場合、ケースに入ってない刀を持っていては要らぬ警戒をされるだろうから、取り出さないで置く。

 ここまで露骨に音を出しているので流石に無いとは思うが、怖いのは大型の肉食獣か中型でも野犬のように群れる相手だった場合だ。

 例え抜いたとしても、この森では木々の感覚が狭く背も低いので、俺だと刀を自在と振り回すのに技量が足りない。

 野犬なら中型犬までなら素手で何とか。大型犬でも抜けば何とか。

 だが、小型犬であっても複数なら抜いても傷を負うのは免れない。中型犬以上が複数なら語るまでも無いだろう。

 そして……トラのような単独で行動する大型の猫科肉食獣だった場合、抜いてもほぼ確実に死ぬ自信がある。

 群れなら数匹撃退すれば退いてくれる場合がある。そうでなくても割りに合わないとなれば退くのが野生の獣だ。

 この小回りも見通しも効かない森の中では、トラに有利すぎて割りにあわないと思わせるのは無理だろう。

 もしも相対するのなら、刀を使い潰し、更に相打つ覚悟が居るだろう。

 音が近づいてきた。深呼吸を一つ。体から力を抜いて、茂みからの飛び掛りを回避するために全身から力を抜いておく。

 がさっ、と一際大きな音を立てて飛び出してきた、それに運搬ケースを叩きつけて怯ませようとし―――た体を押し止める。

 目に入ったのは、短く切りそろえられた赤茶交じりの金色の髪、興奮に血走った碧眼、頭二つ三つは高い長身に白い肌。


「は?」


「What?」


 そして聞き慣れないが知っている言語。

 薮から勢いよく飛び出してきたのは、野犬でもなければポケットに入るモンスターでもない。

 無精ヒゲにヨレヨレのシャツとスラックスが妙に似合う、三十代後半の欧米系の男性だった。

 人間、それも現実的な存在に安心したのか、緊張していた心が緩んだ。

 ヤバい、どうしよう。俺、英語の成績は中学から軒並み1か2で、姉が面倒を見てくれる中間と期末以外は補習の常連だよ。


「Japanese!?」


「イ、イエス?」


 そうだよ、日本人だよ。

 パチもんじゃないよ。

 メイドインジャパンだよ。


「Curse it!!

 Oh shit! Bring arrived,escape!!」


 男性が早口で捲くし立てるが、何を言っているのか全く解らない。

 何となく解るのは、焦っていることくらいだ。

 そのまま彼は俺の傍らを早足で通り過ぎ。


「Stop zoning out and come on!

 Come!! If yuo forsake you, but would sorry does not stand in that Japanese!」


 俺が動かないのを見て取ると、叫ぶように言って手を掴んで引きずるようにして走り出した。

 状況がわからない。茂みやら薮やらを掻き分けながら、とりあえず走る速度を上げて着いていく。

 歩幅の差はあるが、足自体は俺のほうが早いようで、着いていくことに問題は無い。

 併走状態になったことに気がついたのか、男は掴んでいた手を離した。

 男は時折、足を止めることなく背後を振り返っては、安堵したようにして息を吐く。

 何かから逃げている?

 それなら血走った目や、焦りようから、そうとう恐ろしいものだと思うのだが、それが何なのか。

 欧米人が必死で逃げる相手というと、ジェイソンくらいしか思い浮かばない。海辺なら鮫。

 自分の想像力の貧困さが嫌になる。

 とりあえず、訊ねるだけ訊ねてみよう。えーと…………。


「アイ アンド ユー あー……エスケープ、フロム ワット?」


 男が、足を止めないままに何を言っているんだコイツ、みたいな目でジロリと見る。

 発音か、文法か、下手をすれば単語が間違っているのか、今ひとつ通じている気がしない。

 今更ながらもっと真面目に英語の授業を受けておくんだったと後悔する。

 それでも質問の意図を汲み取ってくれたのか、男は怒鳴るようにではあるが答えてくれた。


「It'from the murderer bear Damm!!」


 えー、と、聞き取れた単語からするに、マーダーベア……人殺し熊?

 要するに、この男は熊から逃げてきて、そして今は一緒に熊から逃げているという事だろうか。

 …………………いや、無理だろ。

 熊はあの巨体で平地なら時速4,50キロくらいの速度で走るのだ。

 森の薮なんて障害物にもならないし、犬以上の嗅覚を誤魔化すのは無理がある

 熊が苦手な下り坂を駆け抜ける以外には、人の足で逃げ切るのは不可能だ。


「Bear that Damm is,not the order to eat the us I was been struk to kill!!

 Most within you do not know alsotranslation has been killed.

 Because that Japanese threw himself at me, I do it done to death I should」


 ? ? ?

 たぶん、何があったのか説明してくれているとは思うのだが、早口すぎるのと知らない単語が多すぎて理解できない。

 僅かに聞き取れた、キルなどの単語からするに、何人もが殺されたという事だろうか?

 熊は一度、襲った獲物を執念深く狙う性質がある。

 例えば人間のリュックから食料を得た熊は、人間を襲ってもリュックの中にある食べ物にのみ興味を示し、死んだ人間を食べることは無いらしい。

 人間が襲われたということは、今、追いかけてきているであろう熊は人を襲うことを覚えた熊だということだ。

 人間を襲うことを覚えた熊は、執拗に人間を狙うようになる。

 それこそ今、目の前で咀嚼中の人間が居ようとも、それを捨て置いて逃げている相手を追いかける程に執念深く。


 ―――――ォォォォォォォォオン


 地を這うような重みを持った咆哮に、びくり、と男が顔を青ざめさせ身を震わせる。

 正確な距離はわからないが、遠くはない。追ってきているのならば早々に追いつかれる距離だろう。

 手に持ったままの運搬ケースを一瞥した。この中には、祖父の愛刀が納められている。

 森から抜ければ、小指の先程度ではあるが勝機はあるのだ。

 ただその為に、僅か五年程度の年月ながら練り上げた一芸がある。

 そして少しばかり先を行く男の背中を見た。

 お互いに名前も知らないが、彼は俺を見捨てようとはしなかった。

 俺を見捨てて囮にすれば、もしかしたら森を抜けて人里に辿り着けたかも知れなかったのに。

 彼がそれを選ばなかったおかげで、俺は最低限の心構えを持つ猶予を得て、成す術もなく殺される事態だけは免れた。

 ……………この恩義には報いないと。


「あー、フォレストイズエスケープ。オンフィールド、えー、ノーストップゴー?」


 森から逃げた先で何があっても止まらずに。

 まあうん、言うまでもなく止まらないだろうし、そもそも伝わってもいないだろう。

 でも、それでも言っておこうと思ったのだ。


「You will not know what you are doing but I say.

 Agter that Damm Comes I will be decoy.

You're's aChild,just me my turn came.

 ……So,Escape does not care How nice」


 ? 彼が何を言っているのか解らないけれど、止まらずに、振り返らずに駆け抜けてくれることを願っている。

 お互いに言葉が通じるのなら、もっとやりようもあったのだろうけれど、言ったところでしょうがない。

 熊に追いつかれる前に、開けた場所に出れれば良いのだが。


 ―――――ォォォォォォォォオン


 再度の咆哮。かなり近い。

 しかし何だ? 違和感がある。

 追い立てるにしても、態々叫ぶ意味が解らない。

 焦らせて体力を消耗させようとしているのか、それとも位置を知らせて追い込もうとしているのか?

 熊にそんな狩りをする習性があったろうか?

 幼い頃に襲われて以来、骨格の作りからあれこれと調べてきたが、そんな習性があるという記憶は無い。

 熊は自らの傷をヨモギなどを使って手当てするくらいに賢い動物だ。

 もしかしたら経験を積んで、そういった狩りの仕方を自力で身に着けたのかもしれない。

 そんなことを考えていると、木々の向こうに森の出口が見えた。


「Hurry up」


 これくらいは解る。急げと彼は言っている。

 火事場の馬鹿力か、男の息は上がり始めていたけれど、それでも速度を速めていく。

 俺もそろそろ息が乱れ始めているが、彼に比べれば、走った距離の差だけ比べれば余力が残っている。

 彼に続いて森を飛び出して前にした異様な風景に、二人して目を奪われて、俺と男の足が思わず止まった。

 4、5m先に蠢く霧の壁のようなものが聳え立っている。

 いや、壁というよりは膜だろう。視線を頭上へと上げていけば、霧の膜はドーム状になって空を、森を覆っている。

 ぼんやりと薄暗いのは空が曇っているからだと思っていたが、どうやらこの霧の膜が陽光を遮っているようだった。

 振り返った男に男に釣られるように背後へと視線を向けて、熊が居ないことを確認する。

 そして、どちらともなく慎重に霧の膜へと近づいてく。

 急がなくてはならないのはわかっている。

 だが、何も考えずに霧の膜に飛び込むのは、幾らなんでも無謀がすぎるだろう。

 霧の膜に危険がないとは限らないし、例え無害でも、見通せない膜の向こう側が崖であるという可能性だってあるのだから。

 目の前まで移動してみると、風に吹かれる霧のように、絶え間なく動く霧が膜状になっているのがわかる。

 男がどこに持っていたのか、小口径のリボルバーを取り出して霧の膜を突っ突き始めた。

 それはシャボン玉のように割れることは無く、すっ、と短い銃身が差し込まれ、彼は驚いたように目を見張って反射的に引き戻すも傷一つ無い。

 俺も習うように、ケースの端を持って奥へと押し込んでみる。

 抵抗はない。ついでに地面を叩いてみると感触と僅かな音が返った。地面はあるようだ。

 そして引き戻してケースを見ると、溶けたり傷ついたりするどころか、そもそも霧に触れたのに水分自体が付いている様子もない。

 これは、霧のように見えるだけで霧ではないのだろうか?

 男と顔を見合わせお互いに頷き、息を飲んで霧の膜に踏み込もうとした時。


 背後で、どとっ、と重いものが軽々しく走る音がした。


 背筋が冷える。蠢く霧の壁に意識を奪われて、背後への、熊への警戒を怠った。

 熊の足ならば、森の切れ間から自分達のところまで一秒とかからない。

 己の手落ちを内心で罵倒する。

 森から抜けた時、まず自分がすべきはケースから刀を取り出すことで、そして忘れてならないのは熊への警戒を怠らないことだったのに。

 せめてケースを鼻面に叩きつけて僅かでも怯ませようと振り返ろうとしたその瞬間―――男に胸座を掴み上げられた。


「何―――」

 

 を、と言い切る余地もない。

 そのまま男が一転して背後へ振り返る勢いのまま、霧の膜へと投げ飛ばされた。


「Go Escape!」


 地面に転がる寸前に、霧の膜の向こうからそんな声が投げかけられる。

 受身を取って余った勢いを利用して立ち上がり、霧の膜の中とは違う晴天の明るさに反射的に目が細まった。

 頬を撫でる風、草の香りに霧の向こう側の異常さを再度、強く認識する。

 そして響く二度の銃声。

 銃には詳しくないが、あの程度の銃で熊を仕留めるのは至難の業だということくらいは解る。

 例え毛皮を貫けても、その奥の筋肉に止められて内臓まで届かない。

 小口径の銃で仕留めるのなら、頭蓋の曲面に弾かれないよう正確に眉間を打ち抜くか、眼球から脳を打ち抜く以外に手立ては無い。

 それだって確実ではない。脳の損傷が少なければそのまま襲ってくるし、心臓を打ち抜かれようとも暫くは暴れるのだ。

 けれど、きっと、そんなことは彼だって解っているだろう。


 俺が意味を成さない言葉で彼に止まらないよう告げたように。

 ―――-―彼もこちらが解らない言葉で俺を逃がすと告げていたのだ。


 銃声。


 行動に迷う。

 霧の向こうにもう一度、飛び込むべきか? それをしていいのか?

 彼は、あの男は、死ぬ覚悟を以って俺を逃がしたのだ。

 霧の向こうに戻るということは、その覚悟を踏み躙るということで、それは断じて許される行為ではない。

 判断を惑う。

 一秒、この場に留まる毎に彼の行いが無為になっていく。彼の命が無駄に散る可能性が高まっていく。

 だが、この手の内には、寸毫ながらも勝利の可能性が存在している。

 しかし同時に、頭の冷静な部分が戻るべきではないと告げていた。

 霧の向こう側の状況が見て取れない以上、戻ることは自殺行為で、勝利の手段を生かせず終わりかねないと。


 歯を食い縛る。ケースのロックを外す。銃声。中から刀を引っ張り出す。

 そして、わざと音を立てるようにしてケースを捨てた。


 熊に限らず、獣は逃げる相手を追いかける習性がある。

 霧は視界を通さない。だが、銃声が聞こえているのなら。

 身を翻す。霧に背中を見せてわざと足音を立てるようにして走った。


「Wait……!」


 搾り出すような叫びが微かに聞こえた。ああ、まだ生きている。

 そして離れすぎず位置で足を止めて、再び身を翻す。銃声。

 刀を鞘から引き抜けば、二尺三寸―――優美な三本杉の波紋が特徴的な、中反りの刀身が露になった。

 祖父が戦場にまで持ち込んだ孫六兼元。

 武器で技量の不足を補わないとならないのは恥かしい限りだが、そうも言ってはいられない。

 鞘を手放すのに合わせるようにして、霧の膜の中から大熊がのそりと姿を現した。

 体長は2m弱。首元に模様は無い。印象としては小柄なヒグマ。

 かつて兄さん越しに目にしたツキノワグマよりも大きい筈なのに、小さく感じるのは俺が成長したからか。

 距離は5m。遠すぎる。

 構えなく距離を詰める。熊が首を傾げる。4m。距離が詰まって地面に着いた左前足が血に濡れているのが見えた。

 致命傷を負ったと決まったわけじゃない。

 刀を警戒してか熊が推し量るように、弧を描くように移動する。関係ない。距離を詰める。3m。

 後、最低でも2mの距離、理想を言うなら1.3mまで縮めたい。


「………why?」


 掠れるような声に、熊から視線を外さないように注意しながら、声の主を視線に収めた。

 腹を真っ赤に染め上げて、腸を溢さないようにか、腹を押さえながら這うように霧の膜から男が姿を現している。

 ――――己の愚かさに死にたくなったのを、歯を食い縛って堪えた。

 構える。両手で握った柄は顔の右横、柄の端を握った手が眉間の高さになるように。そして切っ先は天を突くように。

 距離が詰まる。2m。更に一歩前に出る。1.3m。足を止める。目の前には小山のような熊の姿。吐き出す息が煙っているのが見えた。

 熊にとって噛み付くには遠く、四足のままでは爪で薙ぐにしても僅かに足りない距離。

 そうして熊は立ち上がり。









 ここに、幽かな勝機を俺は得た。

 熊を相手にして恐れるべきは、四足の状態からの体当たりであり、圧し掛かりであり、爪での薙ぎ払いであり、噛み付きだ。

 先述の四つの何れかを攻撃の手段として取られた時点で俺の敗北は確定する。

 四足の場合、体勢の関係から背中を打つことになるのだが、頑強な毛皮、強靭な背筋、強固な肩甲骨を断ち切って致命傷を与える技量が俺には無い。

 体当たりや圧し掛かりの場合、カウンターで頭をカチ割るという手もあるが、頭を勝ち割っても即死しない可能性があるから意味がない。

 例え即死させても、正面から合わせるという関係上、時速50kmで突っ込んでくる熊の巨体に成すすべも無く押し潰されて死ぬだろう。

 そう、故に。勝機を得るためには、熊が立ち上がる距離まで詰めなければならなかった。

 噛むにも爪で裂くにも僅かに遠い位置まで詰めてしまえば、切っ先を天に向け、こちらの体が大きく見える関係上、本能的に熊は立ち上がる。

 立ち上がってからの狙いは解っている。立ち上がった熊は、習性か、単に身長差の問題か、総じて頭を狙うという。

 そして振るわれるのは高い確率で利き腕である左腕だ。

 場合によっては両手を天に掲げてから倒れみつつの一撃もあるらしいが、そちらは考慮しない。

 それだった場合、死ぬしかないからするだけ意味がない。

 まあ動作から判別がつくので、上手くいけば避けることもできるだろう程度でいい。

 勝機以外を全てを切り捨てて、命を賭さねば熊という獣には届かない。

 故に後は、全身全霊の一撃を、確かな瞬間に、最も弱いと断じた位置に打ち込むだけ。

 熊の唸りが耳朶を打つ。息を吸う。熊が左腕を持ち上げる。息を留める。

 熊の体が僅かに傾ぐ。上げられた左腕が振るわれる。


「―――――カッ!!」


 気勢と共に踏み込み、熊の肩と腕が一直線に鳴った瞬間に、一刀を叩き込む!!

 狙うは一点。左腕の付け根。肩と腕の狭間である。


 狙いは確かに。

 研がれたばかりの刃は、ぞぶり、と頑丈な毛皮を裂いて肉に達する。

 ぷつりぷつり、と肉を断っていく感触が刀身を通じて伝わってきた。

 ぶちり、と肩と腕を繋ぐ腱を切り裂き―――――


「ァァァァア――――ッ!!」


 振りぬく勢いのままに、前に飛び出して転がった。

 重々しい、ズズン、という音。そして、どさり、と何かが落ちる音。

 刀を肩担ぎに構えなおして振り返る。


「!? グォ、オッ!?」


 びちゃびちゃ、と肩から血を噴出させながら、バランスを崩しもがく熊と、ぽつりと地面に落ちた熊の腕。

 僅か十年の鍛錬と内五年の妄執は、なるほど熊に届いたようだった。

 熊の肩に関節はない。ただ強靭な筋肉と腱で支えているだけなのだ。

 腕で相手に打ちかかる時の理屈は、ヌンチャクのそれと同じもの。

 振り回して筋力に遠心力と重量を上乗せして相手に打撃を叩き込む。

 それによって人間がまともに受ければ、首を千切り飛ばす威力を発生させるのだ。

 故にこそ、刀で熊を討つのならば、距離を縮め、あえて立ち上がらせて、腕による一撃を誘発させる以外にはないと調べに調べて結論した。

 最も伸びきる、腕と肩が一直線になった瞬間ならば、一撃を叩き込めば落とせるとそう信じて実行して成就した。

 だが、まだ熊は死んでいない。死んでいない以上は、まだこちらが命を落とす危険が高いということだ。

 切り落とした左腕側から回り込む。熊はまだ混乱し、もがいている。

 見れば筋肉が収縮したのか、肩からの血が少なくなっていた。

 まだ足りない。混乱している内に更なる一撃を叩き込む。首を落とす一撃ではない。

 頚動脈を裂く一刀だ。熊の首は筋肉の塊で、下手に打ち込めば途中で止まりかねない。

 それに骨に刃が当たっては、刃が欠けてしまうだろう。

 熊の腕を容易く落とせたのは、あくまでも肩に関節が無いからだ。


「グルォォォ―――ッ!」


 憤怒と共に、残った腕をなぎ払う。背後へ飛んで避ける。熊の首から夥しい血が流れる。

 …………人間ならもう死んでてもおかしくは無いんだが。

 熊が残った足で突撃してくる。失われた腕側に横っ飛びに避ける。熊がバランスを崩して地面を転がった。

 腕を落とした、首を裂いた。それでもまだ、不利なのはこちらだった。

 一撃でも受ければ、こちらは致命傷。暴れ狂う熊が命を落とすまで、避け続けなければならない。


 だがそれでも、腕を失ってバランスを崩した熊から逃げ続けるのは、そう難しいことではなく。




 *




 都合三分で、熊は死んだ。

 なぜか、熊の遺体と撒き散らしたとてつもない量の血がシュウシュウと煙いている。

 ………あれは、本当に熊だったのか?

 念のために刀身を見るが、血脂に曇っているだけで、特に劣化した様子は見られない。

 酸性の血という訳ではないようだった。まあ、いい。今はいい。今は、それよりも。

 鞘の位置は遠い。取りに行く時間は無い。手入れ用の器具が入った運搬ケースも同じだ。

 今は、血払いだけを済ませて、男の元に駆け寄った。

 もう生きてはいまい。それでも、言うべきことがあると思ったのだ。

 

「I could see you are SAMURAI………」


 驚くべきことに、まだ息があった。

 その声は掠れ掠れで上手く聞き取れない。

 うつ伏せている彼を抱き起こすようにして、仰向けに横たえる。

 血の臭いに混じる糞便の臭気は、腸が裂けている証だろう。


「ごめんなさい……」


 せめてもう少し、言葉が通じればアナタは死ななくて済んだかも知れない。

 もっと上手く立ち回れたかもしれない。

 機会はあったのだ。言葉を覚える機会は。それを自分はちゃんと生かせなかった。

 学校の勉強は、人生において全てが役立つものではないけれど、それでも。

 いつか、もしもの為にあるもので、役に立たないと思っても備えとして覚えておくべきだったのだ。

 それを、それを怠った結果が今だった。


「Don't cry, laugh. You overcame that.」


 震え掠れる声は弱々しく、今にも消え去ってしまいそう。

 森を抜けて霧の膜に足を止めた時、俺はまずケースから刀を取り出して、背後を意識しておくべきだった。

 戦うことを覚悟していたのに、その心構えが足りていなかった。


「アナタが時間を稼いでくれなければ、あれを斃すことはできなかった。

 俺が生きてるのはアナタのおかげです、ありがとう」


「Do not know what to say what」


 この結果は、己の未熟ゆえのもの。

 未熟のツケを、自らの命ではなく彼の命で支払わせた。

 何と、どう詫びればいいのだろう。


「Do I wish I had learned Japanese…….

 arigatou it can be seen」


 ハッ、と最後に、どこか皮肉げな笑みを浮かべて、彼は息を引き取った。

 その顔は穏やかで、清々しくすらあって、悔いが無いことが解って少しだけ救われた。

 目を瞑って黙祷を捧げる。気がつけば、涙が流れていた。

 背後からガヤガヤと人が近づいてくる気配がする。

 熊の咆哮に近隣の人が集まってきたのだろうか? 解らない、解らないけれど。

 ただ静かに、今は彼の冥福を祈り続けた。



 ――――――この心は、此処に一つの後悔を遺している。


真面目な話、刀で熊を倒せるのかって?

昔、鯖裂き包丁でヒグマを屠ったリアルチートがいたからいけるいける。


1/30 英文に指摘があったため修正。

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