3-2 魔法共有(非互換)/故郷譚 終
投稿一回当たり八千文字……頻度に対して量が少ないのは問題だ。
秋空が澄んでいたのを覚えている。
それは双子の弟と、遊びに来ていた本家の兄貴分と共に、山菜を取りに近所の山へと足を踏み入れた日のこと。
―――この日、あの背中を、俺は生涯、忘れない。
この日、あの背中を知っているからこそ、あの時、俺は剣を奮うことを選んだのだ。
「睦月、小歳、俯いて振り返らず、ゆっくりと背後に下がれ。
間違っても背中は見せるな、そして目も合わせるな」
それは静かな、しかし確かな緊張を孕んだ声。
恐れ、脅えている訳ではないが、声を聞いただけで解るほどの警戒を含んでいた。
幼い頃から付き合いだが、そんな声を聞くのは初めての事で、子供心に驚いたのを覚えている。
―――振り返れば、驚くべきはそこではない。
そのことに気がつくのは、自分が同じ状況になってからではあるのだが。
若干十六歳にして奥伝までを修め、家でまともに打ち合えるのは戦場帰りの祖父だけという天凛の剣術家。
祖父と並んで自分と弟の憧れそのもの。姉ばかりの自分と弟が兄と慕う、自分と弟が共通して持つ、強い者の姿の一つ。
けれど、そんな人が緊張するのも、警戒するのも当然といえば当然だ。
自分と弟を守るようにして立ちふさがった兄さんの向こう側には、四足の巨大な毛玉がある。
遠くから見れば見れば、鉄柵越しに見れば愛嬌がある外見。
頭から尻尾の先まで真っ黒で、胸元にだけ入った白い月のような模様。
それが何と呼ばれる獣かなんて、山裾で暮らしていて知らないわけがない。
熊。それも恐らくは、ツキノワグマの中では大型の。
その姿を見た瞬間に、息を飲むことすらできずに体は凍り付いていた。
声をかけて貰わなかったら、動くどころか何かを考えることもできなかったろう。
息を飲んで、言われたとおりに俯いて、隣に居る弟の手を掴んで強く握りしめる。
弟も緊張に身動きが取れなかったのか、身じろぐように体を震わせて、応じるように握り返してくれた。
それで少しだけ緊張が解けて、わずかばかりの冷静さを取り戻す。
(大丈夫、大丈夫だ。兄さんがいる。
小歳も落ち着いてる。熊も興奮はしてない)
自分に言い聞かせるように、内心でゆっくりと呟いていく。
心臓は不思議と落ち着いているのに、体は異常に冷たくて、それが何となくおかしいと、場違いな感想が脳裏に浮かんだ。
背後へ、熊を刺激しないように、地面を摺るような足取りで後ずさる。
(?)
数歩下がったところで、俯いたまま前髪越しに兄さんを覗き見ると、一歩も動いては居なかった。
なんで逃げないの!?
驚きと共に、そう言おうとした時―――引っ張られるようにして尻餅を突いた。
何があったのか。
咄嗟に弟のほうに顔を向けると、弟の足元には、枯葉に隠れていた木の根が僅かに顔を覗かせていて。
心臓は、確かに止まったと思った。
弟は顔を上げて、熊のほうに向いている。
自分は、熊から顔を背けて弟のほうを向いている。
危機的状況ではあるけれど、致命的ではない。
一番危険なのは背を向けて逃げることと、目を合わせること、そして死んだふり。
「に――――!」
それでも、もう駄目だと、半ば反射的に振り向いて。
兄さん、と言おうとしたのか、逃げて、と言おうとしたのかは、今でも解らない。
助けてではなかったのは、きっともう駄目だと判断したからだろう。
振り向いた先で、兄貴分越しに熊が地面を蹴ろうと動いたのを確かに見た。
血の気が凍る。死の予感を未熟な心が感じ取る。喉は張り付いたように、出そうとした声は途切れて消える。
そして、この両目は垣間見た。
「―――――おおッ!!」
裂帛の気合に漸く気がついた。兄さんは、熊が足を地面を蹴ろうとした時には既に距離を詰めて足を引いていた。
視界に映っていても、脳に動いたことを認識させない練達の歩法。
それから繰り出された、人間相手であれば顔面粉砕も免れない蹴りが熊の鼻面に叩き込まれる。
文字通りに機先を制した。
熊の僅かな仕草から、その次の動きを読み取り、地面を蹴ろうとした瞬間、地面を蹴るための予備動作の途中に、蹴りを差し込む。
まごう事なき武芸の極地。絶技と呼ぶに相応しい見切りの技。
一撃を打ち込み、そしてもう一撃、蹴りを見舞って、その反動で兄さんが背後へ下がる。
そして熊は。
煩わしげに首を振るだけだった。
兄さんが成人していて、なおかつ熊が小型のものであれば今の一撃で鼻骨だって砕けたかもしれない。
だが、兄さんは身長も体格も歳相応。そして目の前の熊はツキノワグマの中でも大型のもの。
専門に鍛え上げた人間でもない限り、素手の人間では、たとえ小型であっても熊には届かない。
もしも刀があれば、両断していただろう。
もしも木刀の一本でもあれば、この人ならば目から脳までも一突きにもできたろう。
心臓が止まっているのか、動いているのかも解らないのに、胸が痛みを訴えてくる。
体は冷え切っていて、何かをしようとしても考えが纏まらない。
熊はいまだ健在。
兄さんの姿に揺るぎは無い。自分と弟を守るように立ちはだかっている。
熊は自分と弟、そして兄さんを数度、見比べて―――――身を翻して山奥へと立ち去った。
それを見送って。
「怪我は無いか?」
兄さんの言葉に、二人でガクガクと震えるように頷いた。
全身が熱を取り戻し、体中から脂汗が噴出している。
そして転んだことに対する罪悪感。叱られるのではないかという、熊に対するものとは別口の恐怖感。
「ならいい。逃げるぞ」
安堵したように兄さんは言って自分達の頭を撫でる。
叱られなかったのに安堵して、立ち上がろうとして立ち上がれない。
腰が抜けていた。
そんな自分と弟を見て、兄さんは穏やかに笑うと自分達を抱え、おぶって、早足に山を下っていく。
後から聞いた話だが、熊への蹴りは加減したものだったらしい。
怪我をさせては手を付けられなくなる可能性があるので、自分達を襲っても割りに合わないと思わせたのだと。
熊を狩りに来た猟師の人も、野生の動物は極端に抵抗する相手を襲うことは余りなく、また親子と判断して退いたのだろう言っていた。
―――当時は、兄さんでもどうしようもない熊をひたすらに恐れたものだが、夢見るたびに思うのだ
そんな恐ろしいものを前に、逃げず、引かず、兄さんは自分達兄弟の安全を考えていた。
最後まで退かなかったのは、自らが囮となって弟と自分を逃がすため。
剣の技量以上に、人間として尊敬に値する人だった。
自分は、ただ斃すことしかできなかったから、尚更に。
* * *
背後に気配を感じて、机に突っ伏していた体を起こして振り返る。
「あ、すみません。自分、ノン気なんですよ」
「僕もだよ!?」
下着一枚の半裸男の悲鳴に、寝ぼけていた頭が覚醒する。
ふむ、なるほど。なるほど。とりあえず状況を確認。
場所は寝る前と変わらず教室、西日の入り具合からたぶん二時過ぎ。
そして解らないことと言えば。
「なんで、俺は半裸のクラスメイトに忍び寄られてんの?」
背後の半裸男の名前を田野伊原眞一郎。クラスの中心人物で面倒見がいい好青年だ。
ボスというよりリーダーな人で、学年で虐め問題がないのは彼の人徳によるところが大きいだろう。
そしてさして親しくも無い彼と二人きり。
どうしたものか。まずは椅子から立って、間合いを空けるべきだろうか。
彼は高校に入って初めて剣道を始めたというのに、県大会の個人戦で上位入賞してしまう才人だ。
幼い頃から祖父に師事しているとはいえ、椅子に座ったままでは自分程度の凡才だと成すがままに組み伏されてしまう可能性が高い。
熊とこんにちわした時とは別ベクトルの危機だ。あっちは命の危機だが、こっちは尊厳と貞操の危機である。
異性に熱を上げるほうではない、というか、あんまり興味は無いが、それでも同性はのーせんきゅー。
こうなれば仕方が無い。切り札を用いることを覚悟する。
「いや、僕の席、君の後ろだから」
「あ、うん。そうだったね」
呆れたような田野伊原の言葉に、迷走していた思考が鎮静する。
剣道部期待のエースにしてクラスの中心人物の席は、俺の真後ろであった。
椅子を引いて彼に向き直れば、ぐしゃぐしゃの剣道着が小脇に抱えられていて、畳まれた制服が机の上に載せられている。
部活も終わり、教室に入って直ぐに脱いだのだろう。地味に汗臭さも漂ってくる。
「対熊決戦奥義の実践投入が遠のいたか………」
「ん、なんなんだい、対熊って?」
半裸のまま机に寄りかかって興味深々と言った風に聞いてくる田野伊原に、過去の恐怖体験を掻い摘んで説明する。
しかし部活終わりで体が温まっているのだろうけれど、流石に風邪を引くぞ。冬だし。
ちなみに対熊決戦奥義とは、我が家の流派における片翼からの後打ち―――薬丸示現流における蜻蛉からの一刀と同じものだ。
威力的には、木刀と引き換えに岩石に僅かばかりの罅を入れるくらい。
ぶっちゃけこれ一つに五年くらい打ち込んだせいもあって、俺は未だに中伝を修めるに留まっている。
兄さんは今の俺と同じ歳で本家の奥伝を修めきっている辺り、理不尽なまでの才能と実力に差がある。
どれくらいの差があるかといえば、この間、遊びに来たときに弟と二人で打ちかかったにも関わらず、一方的に打ち負けるくらい。
あの人の見切りは反則すぎる。一歩、踏み出すための動作から最終的な動きまで読み取れるって人間じゃないと思う。
あ、ちなみにその日、三番目の姉の初恋が敗れ去りました。早く告白しておけばチャンスもあったものを。
油揚げを掻っ攫ったのは鳶どころか龍神の類だったので、贔屓目抜きでも鷹な姉では無理ですな。
「ああ! あの熊騒動、子供が襲われたって聞いたけど、あれ君達だったのか!」
「ソウダヨ」
あの後の顛末を語るのなら、森の熊さんならぬ山の熊さんは、駆けつけた猟友会の皆さんによって熊鍋に生まれ変わった。
自然保護団体? 何年か前に別の場所で抗議活動中、騒ぎを聞きつけた熊さん一家にモグモグされて以来、静かだそうな。
うん、冬眠失敗して人間を襲うところまで追い詰められた熊が居るところで騒ぐとか馬鹿だと思う。それもネット生放送つきで。
ちなみに人間を襲うことを覚えた熊は、人間の出す音などを頼りに襲いに来るので注意しよう。
熊笛なんかは、ご飯ですよ、の合図そのもので、あれは人間を襲うことを知らない熊用だ。
「そうか、生きていたのか……」
「え、俺、死んだことになってたの?」
ちょっとその発言は聞き逃せない。
まあ俺と田野伊原は学区が違ったので、話が変な風に伝わっていても仕方ないのかもしれないが。
「人食い熊が出たって話だったから、てっきり食べられたものとばかり」
「ちょっと尾鰭が付きすぎだな、それ」
あの熊はまだ人を食べてはいなかった。
ただ子供や赤子を狙ってアクティブに家宅侵入していただけだ。
進入された家では、ベビーベットとか子供部屋が荒らされていたらしいから恐ろしい。
「ああ、全くだね」
あはは、と田野伊原が爽やかに笑った時だった。
がらり、と音を立てて教室の扉が開いたのは。
二人して扉のほうを向くと、教室に足を踏み入れたままの体勢の女生徒が、迷うような、悩むような面持ちでこちらを見つめていた。
クラスメイトの黒髪ぱっつん眼鏡委員長系女子である日暮塚だ。
あくまで外見が委員長っぽいと言うだけで別に委員長ではない。ついでに下の名前も知らない。
特に関わりもないし、呼ぶ機会もないから特に記憶に残っていないのだ。
ただ、整った容姿に加えて、物怖じしないハッキリとした口調にキビキビした立ち振る舞いが相まって男子の間では三番目くらいに人気があるのは知っていた。
日暮塚は佇まいを正すと、腕を組んだ。強調されないことで逆に平坦な胸が存在を主張する。
そして、何かに納得したように頷いて。
「組み合わせとしては悪くは無いと思う」
はい? と呆気に取られて首を傾げる俺と田野伊原。
何か致命的な食い違いがある気がする。
そして日暮塚は顔を赤らめ。
「宜しくするならもっと人気のないところでやってくれ。
わ、私は少し時間を置いてから、また来るから!」
下着一枚の田野伊原と、寝起きで少しばかり制服が乱れている俺。
うん、幾らなんでも発想が飛躍しすぎだろう!? まさか発酵済みか!
止める間もなく日暮塚は身を翻すと勢いよく駆け出した。
「ちょ、ちょっと待って日暮塚さん!!」
事態を察した田野伊原が慌てて後を追い始める……が、ちょっと待て。
「おまっ、格好ー!」
田野伊原ストップ! 下着一枚で女生徒を追うとか停学もんだぞ!!
急ぎ立ち上がって静止に走るが、剣道家の強靭な脚力から発生するスタートダッシュに、直ぐには追いつけない。
後一つ、致命的なところを補足しておくと、田野伊原よ―――トランクスのボタンが止まってなかったぞ、お前。
*
木枯らしが冷たい。教科書と参考書一式が詰まった鞄が重い。
重いよりも嵩張るのが煩わしい。
「―――おうおうおう」
「ああ、田野伊原さんが廃人になった。
謝れ! 田野伊原さんに謝れ!!」
「い、いや、待って、確かに悪ふざけをした私も悪いけど、こっちはこっちで被害者だろう!?」
真っ赤になった顔で反論してくる日暮塚。
先に帰ってくれ、という弟からの伝言を持ってきてくれた日暮塚と、廃人と化した田野伊原を挟んで帰路に付く。
二人とクラスメイト以上の付き合い―――即ち挨拶とプリント渡し以外の接触が無いこともあって新鮮だった。
いや、新鮮というならクラスメイトと一緒に帰ること自体が新鮮だ。大体は弟と二人か、一人で帰るのだ。
………親しいクラスメイトが居ないわけじゃない。帰り道が学校から反対なだけである。だけである。
「確かにポロリした田野伊原にも非がある。だが、それを鼻で笑うなんて酷すぎる!」
「その、子供の頃に見た父のに比べれば可愛らしいと思っただけで………」
「―――――か、か」
止めろ。止めてやれ。田野伊原の心が死んでしまう。
彼の名誉の為に述べるなら、平均以上ではあったんだぞ!?
それ以上、彼の尊厳を傷つけないでやってくれ……。
「くそう、イケメンリア充がこんな目に遭うなんて…………いい時代になったものだ」
「それは口に出すべきじゃないんじゃないかな!?」
かっ、と目を見開いて田野伊原が咆哮する。
復活早いな……イケメンはメンタルも強いのか。
俺なら三日三晩は引き篭もって、更に一月は山に篭るね。
「田野伊原くん………」
「あ、日暮塚さん。その……」
恥かしげに日暮塚が俯き、田野伊原が顔を赤らめた。二人の間に微妙な沈黙が落ちる。
この沈黙が甘酸っぱいものなら良いのだが、そうではない。そうではないのだ。
ここに居るのはポロリしてしまった男と、されてしまった女。
露出狂第一の被害者と加害者がお互いに知り合いだった時のような、そんな空気。
いじらしさなんて微塵もない………って、あれ、何で俺、ここに居るんだろう?
やばい、倒れそうな疲労感と圧力を感じる。
この世の何処を探せば、こんな空気を醸し出す高校生の一群が居るというのか。
倒れたい。姿を晦ましたい。
これが甘酸っぱい感じなら喜んで、空気と同化するんだがなあ……気配を紛らすのは弟より得意だし。
天よ、この空気を何とかしてください。
空を仰いで、そんな感じに内心で呟くと、傾いた太陽に、見守ってるからー、みたく返された感じがした。
それ、見守ってるんじゃなくて観劇してるだけですよね。
…………もう、この空気には耐えられそうにない。というか、このままだと地が出そうだ。
それに何より、この空気を放置し続けることはできない。
なので、何とか頑張って誤魔化そう。適当にネタを放り込めば、日暮塚さんが乗ってくれる筈だ。
クラスの中でも上位に位置するくらいに成績優秀だし、頭の回転も速いはずだ。
「日暮塚さん。初めての相手だったのか?」
「え、ああ、うん?」
「そうか………始めてを奪われたんだなっ」
強めに言ってみると、日暮塚が目を瞠って顔を赤らめる。
しかし直ぐに何かを察したのか意地悪い笑みを浮かべた。
それは悪戯を思いついた猫のような、そんな笑み。
「ええ、全く酷い話。無理やり私の始めてを奪ったのに、責任を取ろうともしない」
「ちょ、日暮塚さん!? やぉ、夜万!?」
しおらしげな日暮塚に、田野伊原が本格的に焦りだす。
焦っていては俺の苗字は発音し辛かろう。
俺も子供の頃は上手く発音できなかったくらいだ。
某ファミレスっぽい感じの発音で、やよーず、とか言ってた思い出。
「責任とな? 日暮塚屋よ、余も甘露に預かりたいところだが……お主は何を望むのだ?」
「……そうでございますなぁ。
お代官様に置かれましては、獅子屋の和菓子を賞味なされたいとは思いませぬか?」
ちょっと想定外の単語が出てきた。
獅子屋は駅前に古くからある和菓子屋で、単品価格1800円とか言う品があったりする店だ。
そこで驕らせようとか鬼か!? ………いや、日暮塚は女ではなく女の形をしたげに恐ろしきもの。
古より人の中に存在し続ける姉という生物なのかもしれない。この容赦の無さは、俺の四人姉に通じるものがある。
姉の横暴に振り回されてきた我が身としては、ここは一つたりとも諫めない! 獅子屋の和菓子は美味しいからな!!
「うむうむ、獅子屋の和菓子で手打ちとするか。日暮塚屋、そなたは悪よのぉ」
「はっはっは。お代官様には敵いませぬ」
で、どうすんだ、おい、と二人で左右から覗き込むように田野伊原をジロジロと見つめておく。
身長の関係でそうなるのだが、それが余計に効いたのか、うっ、と逃げるように身を仰け反らせる田野伊原。
走って逃げようとようが俺が捕らえる。一足刀の間合いは俺のほうが三歩広い。
才能があろうが超えられないものは存在する。
田野伊原が才能に溢れていようとも、僅か一年程度の鍛錬では十年間剣を振るう為の体を作った俺には届かない。
まあ才能のあるヤツは、多少の身体能力の差は技量で覆してくるのだが。
田野伊原は苦悩の表情を浮かべ、そして遂には脂汗すら浮かび始めたところで脱力して項垂れた。
「解ったよ。一番安いの一品で勘弁してくれ」
「うん、田野伊原君は好青年ね。
初めて三人で帰った、今日という日の記念に獅子屋の和菓子を奢ってくれるそうよ」
「そうか。まあ入学から同じクラスだったのに関わりもなかった三人が始めて揃って帰っているからな。
偶然の出会いは大切にしないと!」
「そうね!」
それっぽい理由をでっち上げて、はっはっは、と健やかに、爽やかに二人で笑う。
いやあ、性犯罪一歩手前というか、公衆猥以下略を和菓子の奢りで無かったことにしてくれる日暮塚さんマジ天使。
田野伊原、本気で感謝しとけよ。俺はお相伴に預かれることをお前に感謝するから。
「………いや、うん、これでよかったんだ――――」
何かを悟った田野伊原に、お茶くらいは奢ってやろう、金臭い缶入りのをな! とか言おうとしたタイミングで携帯が鳴った。
着信音からして二番目の姉からのメールのようで、嫌な予感がする。懐から取り出して内容チェック。
『兄のほうの弟へ。
暴力彼氏に別れを突きつける友人に付き添うので、代わりに石野森さんに預けたものを受け取りに行って下さい。
今日中に受け取りに行くと言付けてあるので、必ず行ってください』
―――――姉ェ。
よりによってこのタイミングかよ。
石野森さんは製鉄業の傍ら刀家事を営む我が家が懇意にしている研ぎ師さんで、預けているのは祖父の愛刀だ。
現在位置と獅子屋と石野森さんの家の場所を脳裏に浮かべ、かかる時間を計算する。
獅子屋とは反対側。走ったとしても和菓子を食べてからでは、遅くなりすぎて先方にも迷惑だ。
もう獅子屋の和菓子は諦めるしかない。諦めるしか、ない。姉ェ…………。
「日暮塚さん、田野伊原。すまないが、急用なので帰らせてもらう」
「……ああ、今のメールか。残念」
惜しむ日暮塚に、すまないと返しておく。悪代官ごっこは楽しかった。
そして助かったと顔に出ている田野伊原に爆弾を放り投げていく。悔しいし。
「田野伊原。俺は今日という日を忘れない、冬休み明けに教室で語り合おう!」
「解った夜万。メルアドと携帯番号を交換しよう。後で連絡する」
一瞬で真顔に戻った田野伊原が、流れるように携帯を取り出した。
まあ、和菓子は口止め料だからな。
赤外線通信で番号交換して、この場を後にする。
何か日暮塚からの要請で彼女とも番号交換をした。
女性のアドレスとか登録したの初めてだ。姉? あれは姉であって異性ではない。
姉は姉という生物であり、性別であり、種族であるということを人類は忘れてはならない。
「またね」
「気をつけて」
背に投げかけられた言葉に、軽く会釈を返して後にする。
ああ、しまった。後はお若い二人にお任せしますね、とか言い残しておくべきだったか。
いや、俺が居ないとあれ、間違いなく美男美女カップルそのものだからなぁ………。
―――――この時が最初で最後だったからだろう。
どうしようもなく、この時のことが胸に残っている。
そう。また、と彼女はいい、後で、と彼は言った。
その未練を此処に遺している。
あと質も宜しくない。




