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戦わずに全部潰したら、誰も戦わなくていい村になった  作者: 慈架太子


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4:井戸再生(初の成果)

井戸の水面は、朝の光を受けて静かに、それでいて力強く揺れていた。


昨日まで底の泥をさらうような虚しい音しか返さなかった場所に、今は確かな透明な「命」がある。滑車から下ろした桶が水面を叩くバシャリという音。引き上げる際に手に伝わる、ずっしりとした手応え。それだけのことが、死にかけていた村の空気を劇的に塗り替えていた。


広場には、夜明け前から村人たちが集まっている。

理由は単純明快。そこに、水があるからだ。


「……本当に、出てる」

「おい、夢じゃねえよな? 俺、昨日から一睡もしてねえんだ。これ幻覚じゃねえよな」

「馬鹿言え、昨日の夕方も見たろ。だが……ああ、何度見ても信じられねえ」


口々に言いながら、村人たちは順番に桶を下ろしていく。驚くべきことに、そこにはかつての「奪い合い」の気配がない。極限状態の飢えと渇きがもたらしていた刺々しい沈黙は消え、代わりに控えめな期待が場を満たしている。


カイゼルは広場の端、少し高い石段に腰を下ろし、その光景を眺めていた。膝の上には使い込まれた革箱。その表情は、朝日を跳ね返すほどに明るく、そして不敵だ。


「よお、そんなにマジマジ見つめてると、井戸の神様が照れて水が止まっちまうぞ!」


カイゼルが声を張り上げると、数人の村人が肩を跳ねさせた。彼は軽やかに立ち上がると、人混みの中へと分け入っていく。


「おいおい、そこの父ちゃん、腰が入ってねえ! 水を汲むのは筋トレじゃねえんだ、もっとリズムよくいこうぜ、リズムよく!」


「カ、カイゼルさん……」


「さん付けはよせって、むず痒いだろ。ほら、貸してみろ」


カイゼルは村人の手から縄をひったくるように受け取ると、鮮やかな手つきで桶を操ってみせた。彼の動きには迷いがない。流れるような所作で水を汲み上げ、溢れんばかりの桶を地面に置く。


「井戸一つで、こんなに変わるか」


隣で腕を組んでいたエルダが、どこか呆れたように呟く。


「当たり前だろ、エルダ。水は全部の前提だ」


カイゼルは歯を見せてニカッと笑った。


「飲む、洗う、育てる。全部に使う。ここが止まってりゃ、人生そのものがストップしちまう。俺たちがやったのは、その止まってた時計の針をちょいと指で弾いてやっただけさ」


彼は井戸の縁を軽く叩く。


「……だが、戻しただけだ。守らなきゃ終わるぞ、これは」


エルダの言葉は相変わらず硬い。用心棒としての本能が、一時の平和に警鐘を鳴らしている。


「わかってるって。だからこそ『仕組み』が必要なんだよ。気合や根性で守れるのは、せいぜい一晩だ。だから……ほら、これの出番だ」


カイゼルは傍らに置いていた革箱を開けた。

中から取り出したのは、木材と金属を精巧に組み合わせた小型の装置だ。複雑な歯車と滑車が一体となり、側面には持ちやすいハンドルがついている。


「なんだ、その妙な玩具は」


「玩具? 失礼なこと言うなよ。これは『重力の魔法』を少しだけ借りるための道具だ」


カイゼルは手早く、しかし確実にその装置を井戸の梁へと固定していく。慣れた手つきで縄を通し、桶を接続する。


「よし、誰か一番力のないやつ、出てこい! 遠慮すんな、早い者勝ちだぞ!」


カイゼルの陽気な呼びかけに、一人の少年がおずおずと手を挙げた。まだ十歳にも満たない、痩せ細った子供だ。


「おっ、いい度胸だ。名前は?」

「……テオ」

「いい名だ、テオ。さあ、このハンドルを回してみな。ゆっくりでいいぞ」


テオが緊張した面持ちでハンドルに手をかける。周囲の大人たちが不安そうに見守る中、カイゼルは「いけいけ!」と景気よく背中を押した。


ギ、ギギッ……。


心地よい金属音が響く。テオが小さな体でハンドルを回すと、水で満たされた重いはずの桶が、驚くほど滑らかに上昇してきた。


「……軽い!」


テオの顔に、弾けるような笑顔が浮かぶ。


「だろ? 仕組みがあれば、ガキの指先一つで奇跡が起きる。これぞ文明の利器ってやつだ!」


大人たちがどよめき、次々と装置を試そうと集まってくる。カイゼルはそれを見越したように、テオの肩を叩いて誘導した。


「ほらテオ、次はあっちの爺さんに代わってやれ。おっさん連中は後回しだ、自分らで汲めるだろ!」


カイゼルは軽口を叩きながら、瞬時にその場の流れをコントロールしていく。誰が先に水を汲むべきか、誰が装置の扱いを覚えるべきか。彼の明るい声は、混乱を防ぐための強力な「交通整理」として機能していた。


「順番を守る奴には、俺が特別に効率的な回し方を伝授してやる! 割り込む奴は、エルダの怖い顔を一分間見つめる刑な!」


エルダが「誰が怖い顔だ」とこめかみをぴくつかせるが、そのおかげで広場の秩序は完璧に保たれた。


次にカイゼルが着手したのは、足場だった。

井戸の周囲は、汲みこぼした水で常に泥濘んでいる。これでは足元が滑り、怪我の元になる。


「おい、そこらで遊んでる力自慢たち! 暇なら石を運んでこい。角が取れた平らなやつだ。ここは今日から、この村で一番『汚れない場所』にするんだよ」


カイゼルは自らも泥にまみれながら、的確な指示を飛ばしていく。


「ただ並べるんじゃねえ、水が外に流れるように少し傾斜をつけるんだ。溝を掘れ! 余った水が溜まらないように道を作る。そう、そこだ。お前はあっちから掘れ、お前はこっちの石を詰めろ!」


彼の「振り分け」によって、ただ見ていただけの村人たちが、いつの間にか一つの巨大な作業組織へと変わっていく。カイゼルの判断は速い。個人の適性を見抜き、息をつく暇もないほどのテンポで役割を与えていく。


「ここは濡れる場所だ。濡れれば滑る。滑れば転ぶ。転べば怪我をする。怪我をすれば働けない。ほら、全部繋がってるだろ?」


「滑ると戦えないからな。足場は命だ」


エルダがボソリと付け加える。


「……お前、なんでも戦いに繋げるのな。まあ、生きることは戦いか。合格!」


カイゼルが笑いながら親指を立てた時、人混みを割って一人の女性が近づいてきた。

黒髪を簡素な紐で束ね、鋭利な知性を感じさせる瞳をした女性だ。手には清潔な布と、薬草の香りがする小袋を抱えている。


「……水、借りるわよ」


その声は静かだが、周囲を黙らせるほどの重みがあった。


「どうぞどうぞ、お嬢さん。水はたっぷりある。使い方は自由だ」


カイゼルが道を開ける。女性は桶から汲みたての水を手に取ると、近くにいたテオを呼び寄せた。彼の泥だらけの手を、湿らせた布で丁寧に拭っていく。


「汚れたままにしないこと。その小さな傷から熱が出る。病は水から入り、汚れから広がるのよ」


周囲の母親たちが、ハッとしたように彼女を見つめる。


「リナだ。この村で数少ない、薬の知識がある女だ」

誰かが教える。


カイゼルは作業の手を止め、彼女をじっと見つめた。そして、これまでにないほど満足げな笑みを浮かべた。


「ビンゴだ。水があるなら、次は『衛生』。そう来ると思ったぜ」


リナは一瞬だけ意外そうに目を細めたが、すぐに視線をカイゼルに戻した。


「わかってるじゃない。水を飲むだけじゃ、ただ死ぬのを先延ばしにするだけ。洗う、流す、乾かす。これを徹底しなきゃ、井戸を直した意味がないわ」


「耳が痛いね。だが、最高のパートナーを見つけた気分だ」


カイゼルは即座に周囲へ宣言した。


「いいか全員! 今からこの井戸の半分は、薬師リナの管理下だ! 彼女が『手を洗え』と言ったら、神様の言葉だと思って洗え! 従わない奴は、俺が作ったこの便利な滑車を使わせないからな!」


「ちょっと、勝手に決めないでよ」


「いいからいいから。あんたの知識と俺の仕組み、合わせりゃ最強だ。ほら、そこの溝の先をさらに広げろ! 洗い場を作るぞ。飲む水と使う水を分けるんだ。リナ、配置はどこがいい?」


「……そこ。風通しが良くて、水が溜まらない場所がいいわ」


「よし採用! 全員動け! ぼーっとしてる暇はないぞ!」


カイゼルの明るい活気に引きずられるように、村全体が熱を帯びていく。

午前中が終わる頃には、井戸の周りは見違えるような変貌を遂げていた。


機能的な滑車が設置され、平らな石で覆われた清潔な足場があり、用途別に分けられた水路が整然と流れている。


しかし、何より変わったのは、そこにいる「人間」だった。


誰に命令されるでもなく、汲み終わった後の場所を掃き清める者がいる。子どもたちはリナの教えを守り、誇らしげに洗った手を掲げている。奪い合い、罵り合っていた昨日までの自分たちが、まるで遠い昔の悪夢だったかのように、人々は穏やかな顔で会話を交わしていた。


「……昨日と、別の村みたいだな」

誰かが感嘆の声を漏らす。


「やったのは井戸の修理だけだぜ? それだけでこんなことになるのかよ」


カイゼルはその言葉を聞き、井戸の縁に腰を下ろした。汗を拭い、腰の革箱をポンと叩く。


「一つ動けば、全部動く。それが仕組みの面白いところさ」


「全部、か?」

エルダが隣に座る。


「ああ、全部だ。水が変われば体が変わる。体が変われば心に余裕ができる。余裕ができれば、人は勝手に賢くなる。だから、この『最初の一手』が何よりも大事だったんだ」


「で、次は何を動かすつもりだ。お前のことだ、もう決まってるんだろ」


カイゼルは立ち上がり、村の入り口から続く荒れ果てた道を見据えた。その瞳には、すでに次の「設計図」が浮かんでいる。


「次は、水を運ぶ距離を減らす。各家まで、あるいは畑まで。重い桶を持って歩く時間を、全部別の『面白いこと』に使うための準備だ」


「また面倒なことを……。だが、お前がやると本当にそうなりそうで怖いな」


エルダが呆れ顔で、しかし口元には微かな笑みを浮かべて言った。


「面倒なことを減らすために、今は全力で面倒なことをやる。それが俺のスタイルだ!」


カイゼルは太陽に向かって高く手を挙げた。


「初手、大成功! さあ、昼飯だ! 水があるなら、飯もうまくなるはずだぜ!」


彼の陽気な叫びが広場に響き渡る。

遠くで、子どもたちが笑いながら走り回る音が聞こえる。

その笑い声は、昨日の絶望に満ちた静寂よりも、ずっと、ずっと大きかった。


一分子の澱みもなく、村の時計は再び、力強く回り始めたのだ。

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