14.愚者は月を欲し天の怒りを買う④
アルベルトとベンジャミンがヴァーミリオンの屋敷を発ったその日の夕方、トゥイリアース王グレンリヒトの元に一通の書状が届いた。その封蝋にグレンリヒトは目を丸くする。
「アルベルトから?」
なんだろう、とグレンリヒトは首を傾げる。巨大蝗が出た時のゴタゴタはもうすっかり片付いており、マクスウェルもレイナードも隣国からは引き上げている。支援物資は引き続き融通する事になったがそれも先日話が終わったばかりだ、今こんな書状を受け取るような事件は起きていない。よほど急ぎなのかとも思ったが、書状は普通の手紙、といった様相で、緊急時の取り決められた書式ではなかった。ならばただ単に知らせたい事があってなのだろうと思ったものの、なんだか嫌な予感がする。なかなか中身を取り出す勇気が出なかった。
ううむ、と唸るグレンリヒトを、王妃シエラが覗き込む。
「あなた。いっそ見てしまった方が楽になるわよ」
「ううん、そう、そうなんだよなぁ」
でも、やはりどうしても手が止まる。理由は分かっていた。アルベルトからの書状にはろくなものが無いからだ。いつもいつも、どうしようもない厄介事しか書かれていない。
ただこうしていても何が解決するでもない。仕方なくグレンリヒトは、えいやと中身を引っ張り出した。そうして顔を背け、薄目を開けてちらっと書状の中身を確認する。そんな事したって書かれていることが変わるわけでもないのに、とシエラは呆れた。
「『ナルマフのミスリル鉱山を手に入れたから様子を見てくる』。……どういう意味だ?」
それが、とヴァーミリオン家の侍女長のガブリエルが口を開く。手紙をここまで持ってきたのはガブリエルだった。ベンジャミンがアルベルトに付いて行ってしまったため、彼女が赴いたのだ。
ガブリエルもヴァーミリオン家に勤めて長い。王と王妃ともそれなりに付き合いがあった。それでガブリエルは勧められるまま椅子に腰掛け、二人にアルベルトの言葉を伝える。
「『リリアンを侮辱する思い上がった馬鹿を捻り上げてくる』と仰っていました」
「どういう意味だ?」
「二枚目をご覧頂ければ、おおよそ分かるかと」
「二枚目? ああ、これか。どれどれ……」
ぺらりとグレンリヒトは紙をめくる。二枚目はまったく書式が異なっており、そもそもアルベルトの書いたものではなかった。その荒々しい筆跡からは知性を感じない。
「……あらあらあら、まあ。ふうぅん?」
待てなかったのか、グレンリヒトの腕を引っ張るようにして覗き込むシエラが、おかしなものを見たと言わんばかりの声を上げた。
「本当にお馬鹿みたいね」
きっぱりと言い切るシエラはいつもの調子だ。ガブリエルがうんうんとそれに頷いている。ヴァーミリオンに仕えているだけあって、このガブリエルもなかなかのリリアン狂なのだ。
「馬鹿みたいだが、それでも相手は王子だぞ」
「嫌だわ。ここまで言われたアルベルトが、止まるわけないじゃないの」
ふん、とシエラは鼻息を荒くする。
「こーんなお馬鹿にリリアンは勿体無いわ。むしろ廃嫡させて社会的に消した方が、ナルマフには有益なんじゃないかしら」
「思ってもそれは言ったらいかんと思うぞぉ」
「本当の事じゃない」
「そうだから尚のこと悪い」
はあ、とグレンリヒトはため息を吐く。目を揉みほぐすようにしているのは、新しく頭痛の種が出来たからだ。こういうのは初動が大事で、はっきりと感じる前から対処するのが肝心なのだ。
軽く現実逃避とマッサージを終えたグレンリヒトは、それで、とガブリエルに向いた。
「ナルマフまではかなりあるぞ。いつ、何で向かったんだ」
それなら、とガブリエルは口を開く。
「『アジルテ・ベオに穴を開けてナルマフへ向かうから、よろしく』とも言っておりました。出発したのは、本日の朝ですわ」
「は?」
ぱちぱちと瞬くグレンリヒト。
「手紙に書く事と言うべき事、逆じゃない?」
「そうでしょうか」
「そうだが!?」
何を言っているんだ、と言うグレンリヒトの隣で、シエラは顎に指先を当てて首を捻っていた。
「アジルテ・ベオに穴を? ああ、最短で向かっているのね」
なるほど、と何故かシエラは納得した様子だったが、こうしては居られない、とグレンリヒトは立ち上がる。
一万歩くらい譲って、直接王子を懲らしめに向かったのはいいだろう。書状の内容はリリアンに対してかなり無礼だ、伯父としてもこの態度は許し難い。だが、アジルテ・ベオに手を出すのは別だ。大々的にやれば他国からの非難を受けるし、秘密裏に行えばそれはそれで問題になる。誰にも知られない他国への侵入路、それが問題にならないわけがない。
どうにかして納めなければ、トゥイリアース王国が大陸中の国から批判されるのは目に見えている。この国の王として、それは防がねばならなかった。
「シエラ、後を頼む」
ええ、と返す妻を振り返る事なく、グレンリヒトは部屋を後にした。
向かうのは渦中のナルマフ、それに続いているであろう、ヴァーミリオン領に空いた大穴だった。
◆◆◆
ナルマフ王国の王宮、その回廊を足早に進むのは、第一王子のキリウスだ。マントを靡かせる彼の表情は険しく、焦りのようなものを感じる。いつもは表情を表に出さない王子の、珍しいその姿に、官僚も下女達も目を丸くしてそれを見送った。
キリウスは、王の執務室の扉をノックも無しに開いた。
「どうした。何かあったか」
あまりにも無作法であるが、王は扉を開けた人物を認めると咎めるのを止めた。キリウスの表情から、唯ならぬ事態が起きたのだと、そう推測したのだ。
王の推測通り、キリウスは青い顔をして肩で息をしている。初めて見る息子の様子に王は目を細めた。
「ヘラスがおりません」
返ってきたキリウスの言葉に、王は顔を顰める。
「どういう事だ?」
「王宮にヘラスの姿が見えないのです」
なんだと、という王の声が鋭く響く。キリウスは、父に向かって頭を下げて報告を続けた。
キリウスが異常に気が付いたのは二日程前の事だ。妙に王宮内が騒がしく、異様な空気が流れていた。それなのに不気味な程ヘラスが大人しかった。王宮が騒がしくなるのは、基本的に主人が何かを申し付けた時だけだ。この時は国内に特に問題があったわけでもないので、王もキリウスも官僚に何かを言い付けたりはしていない。ならばヘラスが何かをしたのだろうと検討はついたが、当のヘラスは部屋に籠りきりと言うではないか。
おかしい、とは思ったが、キリウスが口を出せばヘラスはまた反発し、より一層騒ぎ立てるだろう。動向には注視して、一旦は様子を見る事にした。
その翌日も同じような雰囲気があった。しかもこの日になるとキリウスの動きを探るような気配まである。これは何か企んでいるに違いない、さすがに見過ごせないなとキリウスが王の元へ向かおうとした所に、王宮内で小火騒ぎがあった。王族の住まう場所での騒ぎだ、キリウスが急いで駆け付ければすでに火は消し止められていた。
大事に至らず良かったと胸を撫で下ろしたのも束の間、その後も小さな騒ぎが立て続けに起き、気が付けば日付が変わっていた。すべての騒ぎの調査を言いつけ、キリウスが自室へ戻り——朝を迎えると、ヘラスは王宮から姿を消していた。
「おそらく、夜のうちに王宮を出たものだと」
「夜に? なんの為に」
王の言葉に、それが、とキリウスは続ける。
「ヘラスに与えられている一軍までもが、同様に姿を消しています」
「……あやつは何を考えておるのだ」
王の声には呆れが混じる。ヘラスは、彼自身が考えているよりも、思考が浅いところがある。だからこそこれまでキリウスを超えられなかったのだし、王がヘラスを重用する事もなかった。いや、そもそもそれにすら、気が付いているかどうか。自然と王の口からは、重苦しい息が漏れた。
そんな父に、キリウスは更に深く頭を下げる。これからが本題となる。王のため息は更に深いものとなるだろう。
「それが……どうやら、軍を率いて、トゥイリアースへ向かったようなのです」
「……なんだと!?」
「ヴァーミリオン公の御息女を自ら迎えに行った、と」
「ば、馬鹿な……!!」
その言葉は、事実を知ったキリウスも口にした言葉だ。王が驚愕するのも無理は無い。キリウスだって信じられなかった。どうしてそうなるのかと、ヘラスを揺さぶってやりたい思いだった。
「いつぞやヘラスが言ったはずです、ヴァーミリオン公の御息女に婚約を申し入れたと」
「ああ、聞いたな。何を馬鹿なと、そう思ったが」
「どうやらヘラスは本気だったようです。それをにべもなくヴァーミリオン公に断られた。それも三度もです」
「三度も!?」
「断られた事に腹を立て、武力をもって奪ってやる、と、その……ヴァーミリオン公に対し、開戦宣告とも取れる書状を出したようで」
「…………」
王は絶句している。その気持ちはキリウスにも痛い程理解できた。なんと愚かな、という言葉にも同意だ、その行動の端から端まで、まったくもって全てが馬鹿げている。
キリウスはヘラスの動向を知るのに、自分の手の内の者をヘラスの配下に忍ばせていた。決して行動を起こさず、ただただヘラスに従い、報告だけを上げよと指示をしていた。下手にヘラスを止めさせようとすれば、彼らにも類が及ぶからだ。本当の意味での臣下を持たないヘラスは、従者にも容赦がなかった。だからその様に指示をしていたわけだが、彼らから報告を受けたキリウスは呆然とした。ヘラスがそこまで愚かだとは、キリウスも思っていなかったのだ。
申し訳ありません、と彼らは言った。第二王子の蛮行と愚行を止められず、国を危険に晒したと。如何様にも処罰を受けますと言った彼らの、その気概がヘラスにもあったのなら。地に伏せ詫びる彼らを前に、愚かなのは自分もだと、キリウスはそう思った。
だが、そんな自分を嘆くだけでは何の解決にもならない。だからこそキリウスは王の元へ向かったのだ。キリウスは、彼の兄として、いいや、ナルマフ王国の第一王子として、これを正さねばならなかった。
「誠に残念ではありますが、ヴァーミリオン公を怒らせたという何よりの証拠が、ヘラスの部屋の壁に残っております」
「か、壁に……? 何故」
「壁にヴァーミリオン公からの手紙の内容が、くっきりと残っているのです」
実際にこの目で確認しましたと、キリウスがそう言えば、王はかつてないほどの大きな、それはそれは大きなため息を吐いた。
「この国はもう、終わりかも知れん……」
王は両手で顔を覆う。
ナルマフは周辺の国々と比べると小さい。国土もだが人口も少ない。それでもどの国にも取り込まれずこれまでやって来られたのは、ミスリル鉱山が近隣の国には無いからだ。歴代の王にはそれを武器に諸外国と渡り合う手腕が求められた。
「かつてのナルマフ王国を治めていた者達に、なんと詫びれば良いのだ」
それは、あまりにも辛い綱渡りであった。情勢の安定した現代でさえそうなのだ、独立した直後は如何程であったろう。
そんな風にやってきた国を、ヘラスは己の利害のみを考えた行動、それひとつで破滅させようとしている。ナルマフの王族に産まれ、しかも後継を自負するくせに、その行動の影響を考えない。これを愚かと言わずして何と表現すれば良いのだろうか。
王は嘆いた。相手が悪過ぎる。どうあってもヘラスは無事では済まないだろう。ヴァーミリオン公と言えば、彼の宝珠を害するものには容赦がない事で有名であった。その矛先は間違いなくナルマフ王国へも向けられるに違いない。
だが、そんな王にキリウスは言った。
「陛下……父上。間違ってはなりませぬ。我々が詫びるべきはトゥイリアース王国とヴァーミリオン公、それとナルマフの民達にです」
王はその言葉に、はっと息を飲んだ。そしてゆっくりと手を下ろす。その先では、もう一人の息子が王を見据えていた。
王もこの息子も、決して傑物ではない。一国の王などという器ではないというのは自分で理解していた。それでも彼らは確実に君主であった。少なくとも彼らは、責任の所在を知っている。
「……ああ、そうだ、お前の言う通りだ」
ふ、と王の雰囲気が緩む。一度伏せた顔をキリウスに向けた時にはすでに、いつもの聡明な王のものに戻っていた。
「トゥイリアース王に……ヴァーミリオン公に、謝罪を」
◆◆◆
久しく感じる光の眩さに目を細めれば、その先は鬱蒼とした森だった。王都の屋敷を出てから僅か三日、アルベルトはナルマフ王国の国土を踏みしめている。
数歩トンネルから出れば目も明るさに馴染む。それでアルベルトは少しだけ周囲を見回した。
特に湿度を感じるわけではないのに岩も木も苔に覆われていた。足元にも苔むしたところがあって少し滑る。苔には、何かに踏まれた跡は無かった。人も動物も立ち入らないような場所なのだろう。
そう思ったのに、少し進むと打ち捨てられた小屋があった。辛うじて原型を留めているそれにも、苔が纏わりついている。
「ふうん?」
それを見てアルベルトは顎に指を当て腕を組む。
「何か気に掛かる事でも」
「これを見てどう思う」
これ、というのは小屋の事であろうが、ベンジャミンはそれに限らず感じたままを言う事にした。
「小屋というよりも、この一帯が、ですが。アジルテ・ベオの森に酷似しているように見えます」
「そうだな、その通りだ」
うむとアルベルトは頷く。
「木や苔から感じる魔力も内部のものと同じだ。ここはむしろアジルテ・ベオの一部なのだろう。……ここはもうナルマフ王国の国土で間違いないな?」
「ええ、間違いなく。地図が合っていれば、ですが」
「なるほど?」
ベンジャミンによれば、地形からして地図上では、この森はナルマフ王国の国土となっているようだ。まあ、国土など、歴史からするところころ変わるものだ。その中に不可侵の土地の一部が含まれていてもおかしくはない。トゥイリアースでもそういう場所はある。他でもないヴァーミリオン領にもあるのだから珍しくもなんともなかった。
が、これほどまで神域の特色を残しているとなると珍しい。そのことにアルベルトはにやりと口角を上げる。
「利用できそうですか」
「そうだな」
それだけを言うとアルベルトは歩を進める。ベンジャミンはその後に続いた。
護衛であれば、アルベルトの先を行くのが筋だろう。だが何が起きるか未知数の土地では、アルベルトが先陣を切った方が都合がいい。魔力感知で危険を察知するし、機転が効くからだ。あと、自分勝手に進みたいのがアルベルトという人柄だった。こちらへどうぞと言われてその通りにするかと言われるとそうではない。だから先を行かせた方がいいのだ。
森は意外と浅かった。生い茂る樹木の鬱蒼とした雰囲気の割に、あっさりとそれを抜ける。特に危険を感じないからかすたすたと進むアルベルトの後ろに付きながらも、ベンジャミンは周囲に気を配っていた。それはもちろん、アルベルトを守る為でもあるのだが、どちらかというとアルベルトから周囲を守る為であった。アルベルトは利益にならない者相手には容赦が無いのだ。
例えば、それは——森を抜けた先の草原に居た愚者のような相手には、特に。
◆◆◆
アルベルトとベンジャミンがトンネルから出て、ナルマフの森の様子を伺っていた頃。遅々として進まない行軍に、ヘラスは怒りのままに顔を歪めていた。
「貴様ら、やる気があるのか! それでもこの俺の精鋭かッ!!」
ヘラスの怒号が飛ぶ。それに身を竦める者はあれど、意を唱える者は居なかった。
そもそも、ナルマフは今までさんざ攻め入られる側だったのだ。近代ではそれも無くなり平和なもの。そこへ、隣国の更にその向こうにまで軍を運ぼうとすればうまくいかなくて当然だった。戦いの装備はあっても、それを維持したままの移動というのが、そもそもナルマフ軍の経験として無かったのだ。
それをヘラスは強行した。彼はただ馬車に乗るのと同じに考えていたのだ。馬車の代わりに馬に乗り、進んだ先の適当な村で休む。そう言われれば出来そうな気もするが、精鋭だけとは言え軍は軍。数百人が一挙に休める村などあるはずがない。ヘラスは村に宿を取り、食事をしていたが、その他の者達には野営をさせていた。最初は良かったが、ナルマフではこの時期、夜になると急速に冷える。真冬ほどではないものの骨身に染みる寒さは兵の気を削いだ。王都周辺の防衛に長けた彼らは、遮るものが無い草原での野営に慣れていなかったのである。
更に言えば食べる物にも困るようになった。戦時中ではないのだし、凶作でもない。金があれば食べ物なんて手に入る、そうヘラスは考えていたがそれも甘かった。行く先々の村に、村人より多い数の余剰の食べ物の蓄えがあるはずもない。それで満足に食べる事が出来ず、兵士達の歩みは次第に鈍っていった。ヘラスと、それとごく一部の側近はそうではなかったから、ヘラスの怒りは増す一方だ。
まだナルマフ王国を出ていないというのにこの状況では、とてもトゥイリアース王国を目指せるものではない。兵士の中にそんな意見が広がるようになって、それでますます歩みは遅くなる。王宮を経ってたったの数日でこれでは、隣国へ入ることではままならないのでは。側近の中でもそんな風に囁く声があり、ヘラスは知らずのうちに爪を噛むようになった。
今もまた、声を荒らげた後、こちらを見る兵士達の視線を断ち切って自分のテントへ戻ると、がりがりと親指の爪を噛んでいる。
(愚か者共め。なぜこうもうまくいかない!? ただ先へ進むだけであろうが)
その簡単な事が進まない。それが何故なのかヘラスには理解が出来なかった。
(俺が指示しなければ馬も進めぬ、挙句兵糧が足りんだと? 知るか、勝手に準備をすればいいだけだろうに! なぜ俺がいちいち采配しなければならない。馬鹿共め、何が精鋭か。これでは何もできぬ烏合の集ではないか!)
まだ日の高い時間なのにテントを張って休んでいるのは、先に進めなくなったからだった。行軍する列の最後尾から脱走者が出たのだ。脱走者を引っ捕える為、歩みを止めている最中に更に兵が減った。知らせを受けたヘラスは怒りに身を任せて、手近な者を殴り飛ばした。これはお前達の不手際であると、そう添えて。
調べてみれば脱走したのは末端も末端の兵であった。一応、ヘラスに与えられた一軍はナルマフ王国の正規軍という位置付けではあったものの、ほとんど私兵と変わらない。常に周辺諸国から狙われてきた歴史を持つために、王子王女には一軍が与えられるものであった。それを率い、外国からの侵略者に立ち向かう為である。己の裁量で動かせる軍を持ち、有事の際には敵から自国民を守る。その為の王家、その為の軍だった。
ヘラスはその与えられた自分の軍を率いてきたのだ。だと言うのに、ろくに進めず、休めず、脱走者まで出る始末。戦も無いのにだ。これが万が一という事態であったのならどうなっていた事か。ナルマフ王家の王子にしてはあまりにお粗末である。
だからこそ脱走する者が居たのだが、ヘラスはそれを理解していなかった。ぎりぎりと歯を鳴らして爪を噛む。もう短くなってしまった爪の先からは血が滲んでいた。
脱走者を見逃すわけにはいかなったが、ずっとこのままというわけにもいかない。まだまだ行程は長い事であるし、いっそ放棄すべきかとヘラスが考えを改めた時だった。失礼します、という鋭い声がテントの外から掛けられた。
「殿下、急ぎ外へ」
側近の硬い声色にヘラスは顔を上げる。
「どうした。脱走者を見付けたか」
「いえ。ですがお急ぎ下さい」
有無を言わさないような言葉にヘラスは訝しむ。同時に苛つきが湧き上がるが、その声はヘラスが最も重用していた者であった為、仕方なくテントを出た。
「なんだと言うんだ、一体」
「こちらへ」
「……ええい、なんなんだ!」
悪態を吐きながらヘラスは側近の言うままに進んでいく。彼は野営地からヘラスを誘い出すと、周囲を警戒する見張りの声が届かない場所にまでやって来て振り返った。
「言え。なんだと言うのだ」
ヘラスもそこまで馬鹿ではない。彼は他者には聞かせたくない内々の話があって、わざわざここまでヘラスを誘い出したのだろう。もしかするとここでヘラスを害そうとするかもしれない。そう思って、ヘラスは左の腰にある剣の鞘を握り締めていた。
が、側近の彼はいつもと同じく真面目な面持ちでヘラスに言う。
「殿下。王宮へ戻りましょう」
「……何を馬鹿な事を!」
ヘラスは驚き、声を上げる。だが、そんなヘラスとは違って、彼は顔色を変える事はなかった。あくまでも静かに、言い含めるようにして紡ぐ声はいつもとまったく変わらない。
「お分かりでしょう、このままではとてもではないがトゥイリアースを目指す事など出来ませぬ。それにまだヴァーミリオン公との戦闘にも到っておりません。戦に発展しておらぬということです。今であればまだ、陛下やキリウス殿下にも言い訳が立つというもの」
ヘラスはあまりの事に声が出せない。ぎりぎりと歯を噛み締め、目の前の彼を睨み付けている。
「やはり無謀なのです。今のナルマフで、しかも遠征の経験の無い殿下には」
「……黙れ、黙れ、黙れッ!! 黙れ、臣下の分際で! この俺に指図するなッ!!」
あまりの暴言に、ついにヘラスの我慢に限界がきた。きんと音を立てて剣を抜き、切先を側近の男に突きつける。
「愚鈍な貴様らを、この俺が使ってやっているというのに! やれ進めないだの腹が減ったなどと、よく言えるものだ! 少しは己の頭で考えたらどうだ!!」
「殿下」
「黙れと言っているだろうがぁッ!!」
激昂するヘラスに向ける彼の表情は、果たして憐れみであっただろうか。だがそれは、キリウスがヘラスに向けるものと酷似している。その事が更にヘラスの神経を逆撫でた。
ぶるぶると切先が震える。ヘラスの呼吸は乱れ、それが腕を震わせていた。
二人はそこでしばしの間睨み合っていた。抜いたはいいが、切り付けるつもりはヘラスもなかったのだ。優秀な側近を失うのは痛手となる。ヘラスにだってそれは分かっていた。
だが、どのようにしてこの剣を納めればいいのか。怒りのままに振る舞う事しかして来なかったヘラスにはそれが分からず、どうする事も出来ない。
それを嘆くように、そっと側近の男が視線を逸らした、その時だった。その男ではない、別の者の声が響いた。
「殿下、あれを!!」
はっとしたヘラスは声のした方へ。側近の男はその反対側へと視線を向けた。
「どうした!」
ヘラスがそう叫べば、見張りらしき兵が前方を指差して、あれを、と再び叫ぶ。それは側近が向いている方向と一致している。何事かとヘラスも視線を向けると、森から人影が出て来たのが見えた。森は脱走兵が逃げ込んだ森だ。ならばあれはその脱走兵かと思ったが、どうにも様子が違って見える。
「なんだあやつは?」
人影はふたつ、そのうちの前を歩く一人は森から出てきたというのにやけにきらきらしい。距離があるが遠目からでもそれなりの身なりであることがわかった。それがなぜ、森から出てくるのか。
人影を睨み付けるヘラスだったが、レンズを覗き込む側近の男が息を呑むとそれはすぐに驚愕に変わる。
「殿下、あれがヴァーミリオン公です! な、なぜナルマフに!?」
「なに!? ……いや待て。たったの二人ではないか!」
本来であれば数週間後に対峙するはずであった人物との邂逅に驚きはしたが、今ヘラスの目の前にはたったの二人しか姿が見えない。それなりの数を相手にするつもりであったヘラスからしてみれば実に好都合だった。
更に言えば、ここはまだナルマフ王国の中。外国の地で武力を行使すれば侵略行為と取られかねないが、ここでなら問題にならない。
にやりとヘラスは口角を上げた。
「いい。良いぞ。どうやら天運は俺を向いているようだ」
側近の男がこちらを窺っている気配を感じたが、くつくつと笑うヘラスがそちらを向く事はなかった
どうしてヴァーミリオン公が今ナルマフ王国に居るのか。あえてヘラスはそれは考えなかった。ここで無力化して捕らえれば、そんな事は考える必要は無いからだ。
「総員、戦闘準備!!」
指揮を執る為、ヘラスは野営地へと踵を返した。
それを遠目で見ているアルベルトは、ようやく目的のものを見付ける事が出来てやる気が溢れて来たところだった。距離を取っているのは向こうの準備が終わるのを待っているからである。
「何人くらいだ?」
「三百ほどでしょうなあ」
「少ないな」
ふう、とアルベルトはひとつ息を吐く。
「リリアンを欲するのなら大陸中の人間を集めるくらいするべきだ」
ベンジャミンはそれに「まったくです」と返した。
最短でナルマフ王国を目指したはいいが、順当に進んでいれば軍はもう国外に出ていてもおかしくないくらいの時間が経っていた。やる気に満ちていた、一刻も早くぶちのめしてやりたかった、というのももちろんあるが、急いでいたのはその為だ。出来るだけナルマフ王国の国内でけりを付けたかった。
だからここで遭遇出来たのは、アルベルトとしても喜ばしい。が、同時に呆れてしまう。
「まーだこんな所にいるのか。やる気があるのか連中は」
「さて、どうでしょうね」
想定してたよりもずっと、いや、かなり遅れているようだ。しかも連れている兵士はたったの三百、これは少ない。アルベルトを相手に、本気でやるのなら、国中の戦える者を連れていなければ話にならない。呆れ果ててものが言えなかった。まあ、馬鹿に説教をしたところで通じないだろうから、なにかを言ってやるつもりもないが。
それはそうとして、ばたばたと走り回る連中の準備は当分終わりそうになかった。やれやれとアルベルトは息を吐く。ふと視線を彷徨わせた先に見晴らしのいい場所を見つけると、そこへ向かった。
アルベルトが一歩踏み出すと、目指しているその場所の地面が僅かに隆起する。二歩目には隆起が大きくなり、三歩目で更に肥大化する。もりもりと大きくなった隆起は、アルベルトが間近に寄る頃には立派なテーブルになっていた。同時に揃いで椅子が形成されている。ちょうどアルベルトが腰を下ろすタイミングでそれは完成した。
「なんだあれは。どうなっている?」
「ヴァーミリオン公と言えば、高名な魔法使いです。あれも魔法なのでは」
ヘラスがなるほど、と言って側近から視線を戻せば、ヴァーミリオン公は優雅にお茶を飲んでいた。いつの間にかパラソルとテーブルクロスも広げられている。
「おちょくりやがって……」
その茶器と湯とクロスとパラソルは、いつ、どこから出したのか。まったく意味が分からない。だが、ヘラスを馬鹿にしていることだけは理解できた。ぎりぎりと拳を握り、ヘラスはパラソルの下を睨み付ける。だがそんなヘラスを嘲笑うかのように、ヴァーミリオン公がこちらを見る事はなかった。
それに一層腹を立てるヘラスだったが、ついにその時がやって来る。
「殿下、準備が整いました」
待ち望んだその言葉に、ヘラスはにやりと笑みを浮かべる。
「よし。やれ!」
ヘラスの号令を受けた兵士が、一斉に矢を放った。矢は弧を描いて確実にアルベルトのいる一帯を目掛け降り注ぐ。日除けのパラソルでは到底防げない。
「これはどこの茶葉だ」
「南方ですね。生産数が少ないものを増やしたとかで、ようやく流通したそうで」
「ならもっと買い付けろ。これはきっとリリアンも気に入る」
「では、そのように」
「うむ」
不意を突いた形での攻撃だ、通常ならそれなりの効果をもたらすであろう。だがアルベルトに対してただの矢、それもたったこれだけの量というのは相当舐めた話だった。
矢を一瞥したアルベルトはカップを受け皿に戻すと同時に魔法を発動させた。矢が落ちる頃合いを狙って、風を巻き起こす。
ごう、と暴風が湧き上がった。それに押し返され、矢がばらばらと地面に落ちる。
「な、なんだ?」
その異様な光景に驚いたのはヘラスだけではない。矢を放った兵もその指揮官も、一様に戸惑い狼狽えている。
「と、とにかく撃て! 撃ちまくれ!」
ありったけの矢を放つよう、ヘラスは指示した。が、次々と射かけられる矢の全てが、やはりばらばらと落ちていく。あまりに多くの矢を同時に射ったので着地点の様子が見えなかったが、やがて矢が尽きるとそれもはっきり確認できるようになった。
「効いていない!?」
アルベルトどころか、布で出来ているであろうパラソルにも傷ひとつ付いていない。それもそのはず、矢はパラソルのはるか先に落ちていた。
当のアルベルトは椅子に腰掛けたまま、この数日読めていなかった新聞を日付順に広げている。
「むっ。蝗せんべいが受け入れられているようだ。リリアンが作ったものだ、当然の結果だな」
「ようございました。さすがはリリアン様です」
ベンジャミンはお茶のお代わりを淹れながら頷いた。
それを遠目に見るヘラスの耳には、会話は届いていない。それでも椅子に座ったまま新聞を広げるアルベルトの姿は、戦場で矢を射掛けられた直後には到底見えなかった。臨戦体制を取るどころか見向きもしない。それ程までに、アルベルトにとってヘラスは価値が無いと、そう言いたいのだろう。ヘラスは更に、怒りで顔を赤くする。
「おのれ、おのれ!! 見向きもせんとは、許せん!」
怒りのままにヘラスは振り返った。
「あれを出せ!」
そう叫ぶのを側近の一人が止める。
「で、殿下、本気ですか。相手はただの二人、それも生身ですぞ」
「知った事か。それに見ただろう、奴はあれだけの矢を止めてみせたのだぞ! 最早、魔導兵器でなければ太刀打ち出来ぬ」
ぎろりと睨み付けてやれば、側近達は顔色を悪くしてたじろぐ。それにフン、と鼻を鳴らすヘラスはどこまでも強気だ。
「あれならば、いくら魔法使いでも無事では済むまい」
「そんな、殿下。あれは、あくまで緊急の……殿下の御身が危うくなった時の保険です。それを」
「喧しい! 貴様の意見など聞いておらぬわ! 出せと言ったら出せ!」
「し、しかし」
「くどい! 緊急と言えば今がまさにそうであろうが! あれだけ大量の矢が、たったの一本も届かなかったのだぞ!? あれを使わずして彼奴を仕留められると、貴様はそう言うのか!」
びくりとヘラスを押し留めていた側近の一人は肩を揺らした。それは、という声はあまりにか細い。
結局彼も、彼以外の者も、誰一人ヘラスを止める事など出来ないのだ。それはこれまでの道のりを思えば明白であった。
やれ、というヘラスの号令に従って、兵士達が陣の中央からそれを持ち出し布陣する。
さる国で開発された魔導兵器だ。それをヘラスはとある筋から入手した。
銃を何倍にも大きくしたようなもので、実際に魔石そのものを弾として発射する銃と似たような構造をしている。ただ違うのは発射する弾の大きさだ。銃は精々数センチのものだが、この兵器は拳大のものを発射する。弾になる魔石の大きさは威力に直結する。拳大ともなれば、その威力は銃の数十倍にまで跳ね上がる。
しかも、装填出来る数は銃と同じ。更に旧いものは、一つ装填しては手動で次の弾を込めていたというから、この兵器は画期的なものだ。
飛距離は充分射程内である。ヘラスが私財を投げ打って購入した五基、それに装填された各六発の弾。それが今、たった二人に向けられている。
肝心の銃口を向けられているアルベルトとベンジャミンは、ただその様子を伺っていた。
「あれは我が国で開発されたものでは?」
そのようだな、とアルベルトは頬杖をつく。
「どこぞの馬鹿が横流しでもしたんじゃないのか」
「旧式のようですが……いやはや、陛下への報告が増えますな」
「まったく面倒なことだ」
ふん、とアルベルトは鼻を鳴らした。
魔法銃を始めとした魔導兵器は、威力が大きいのでこと輸出に関してはかなり厳しい。が、小賢しい悪党というのは撲滅出来ないもので、特に旧式のものは流れ易かった。もちろん、正規に入手していなければそもそも使えないようにする機構を加えられているのだが、機構そのものを排除されてしまってはどうしようもない。機構が外された時点で使えなくなるようにしたものも当然ある。が、上手い事外せた物は、こうやって流通してしまうのだ。
あの魔導兵器も、かつて魔法天文台で魔導士の手によって造られた物だろう。その総帥として、アルベルトはきっちりと図面を隅々まで確認している。
だから、無効化するのは容易い。
「速射式小型魔導弾発射装置、発射!!」
ヘラスの号令で、銃身の先から次々と弾が発射される。弾丸に加工された魔石は銃身の内部で紋様を刻まれるのだ。その紋様が魔法陣となり、魔法陣は魔石の魔力を使用して魔法を発動させる。
空中で魔石は炎の塊へと変貌した。ごう、と燃え上がり、アルベルト目掛けて真っ直ぐ飛んでくる。着弾すれば周囲を焼き尽くす中級の魔法だ、それなりに厄介な魔法だった。火力があるので、枯れ草でなくても燃え移るから市街地で使えば恐ろしい兵器である。
あれの欠点は、炎で気流が生まれ、そのせいで酷く土煙が舞うところだ。だから止めるなら空にある時に、それも遠くで止めるべきだ。なのでアルベルトは炎が近付く前、丁度矢を落とした辺りに障壁を展開した。音もなく展開される障壁は揺らぎを生む。陽炎の様な、虹色のもやがアルベルトとヘラス達とを隔てた。
速射式小型魔導弾発射装置から発射された魔法は、アルベルトが作った障壁に触れると、表面を嘗めるように滑って消えた。
「なっ……!?」
ヘラスはあんぐりと口を開ける。
「き、効かない!?」
障壁は虹色の波紋を揺らして、次々とヘラスが放った魔法を飲み込んでいく。
そもそも魔法銃を始めとする兵器の弾は、発射すると魔法に変換される。魔法とは自然のエネルギー、魔力そのものだ。アルベルトが展開する障壁もまた魔力そのもので、魔力というのはより大きな力に触れると吸収される。つまり、アルベルトの強い魔力に、速射式小型魔導弾発射装置の魔法は吸収されてしまったというわけだ。吸収した魔法はきっちりと魔力に再変換され、アルベルトの魔力として補填されている。ヘラスが撃つように言えば言うだけ、アルベルトは強化するという図式だ。
いずれ弾切れしてなす術を無くすだろう。それをアルベルトは、椅子に座って悠々と待っている。
次々と放たれる炎の魔法は、全てが同じ様にもやに飲まれていった。最後の揺らぎが収まる頃にはヘラスはすっかり放心していた。
「あ? もう終わりか?」
「そのようです」
「はあ、やはりやる気が無いようだな」
集中砲火を受けていたのは数分の間だ。アルベルトへ宛てられた書状では、図に乗ったアルベルトの鼻面をへし折ってやる、とあったから、てっきり大型の大砲を持ち出すと思っていたのにそれが無い。それどころか、中型のものでたったの数分撃っただけ。やる気が無いにも程がある。この威力だと数日は撃ちっ放しにしないと、アルベルトの体力なんて削れないのだが。
こうしている間にも追撃してくる様子はない。呆れを隠さず盛大にため息を吐いて、アルベルトは風の魔法を使った。声を風に乗せて、ヘラス達に届くようにしたのだ。
「おい、もういいか?」
突然聞こえた声に、ヘラスは驚き叫ぶ。
「な、なんだこの声は!?」
その叫び声にアルベルトは顔を顰めた。会話が通じるようにと収音していたのだが、ヘラスの声が大きかった為にキンと響いて不快だった。その不快感は声色に表れている。低く地を這うように、それはヘラス達一行の耳に届いた。
「叫ばなくとも聞こえる。いいから答えろ、気は済んだか」
「もしやヴァーミリオン公……!?」
ざわりとヘラスの周囲が沸いた。声色もさる事ながら、何よりもこちらを見据えているヴァーミリオン公の方向から、怒気が吹き付けるように発せられていたのだ。それで、その声がヴァーミリオン公のもので間違いがないのだと、誰もが実感する。
そしてさあっと青褪めた。あれだけの魔法を浴びたにも関わらず、彼は無傷だった。いや、そもそも彼に魔法を浴びせる事が出来なかった。どの様な方法でか、彼はヘラスの切り札を無効化したのだ。それは彼らにとって、想定し得ない現象だった。
あまりの事にヘラスは呆然としている。たったの一発でさえ当たらない、いや、届かない。そんな事があるはずがなかったのに。現にヘラスがこの兵器を購入した時、防がれる可能性は無いのかと商人に尋ねたら、その商人は笑って「万に一つもあり得ませんよ」と言っていたのだ。
どういう事だ、とヘラスは思った。万に一つもない? どこがだ。たった今、ヘラスの目の前で、その万に一つが行われたのだが。それも一度や二度などではない。
ヘラスはこの速射式小型魔導弾発射装置に全財産を注ぎ込んでいた。本体もそうだが、弾がべらぼうに高くて、確かに充分とは言えなかったかもしれない。だがそれでも三十発の中級魔法弾は、一人の人間を撃つに不足するとも言えないだろう。
だと言うのに、ヘラスの目の前の男はピンピンしている。しかもヘラスを睨み付けている。あまりにヘラスに対して不遜だ。だが、これ以上の武器はヘラスには無かった。
次の手はどうするべきかと奥歯を噛むヘラスに、側近の一人が声を掛ける。
「殿下、如何なさいますか」
「……チッ」
如何もなにも、もう取れる手段など限られているだろうに。判りきった事を訊ねて来る側近にヘラスは更に苛立つ。もう手立てが無い事もあり、怒りのままにヘラスは叫んだ。
「遠距離が効かないのなら直接叩くのみだ。全員、突撃ィー!!」
ヘラスの号令から一拍置いて、兵士達がおおお、と声を上げ駆け出す。先陣を切ったのはヘラス——ではなく、血気盛んな側近の一人であった。
「やはり特攻を仕掛けて来る様ですね」
「まあ、そうだろうな。それ以外の手段が無ければ」
はあ、とアルベルトのため息は止まらない。つまらない一幕が終わったと思ったら、予想外でもなんでもない普通の手段に移った。しかも勝ち目はまるで無いのだ、これだから馬鹿は困ると言いたげであった。
やれやれ、とアルベルトは椅子から立ち上がる。ベンジャミンの方はそそくさと茶器とパラソルを片付けていた。茶器が割れる恐れがあるから、というわけではなく、単にこれで片が付くからだ。
「アルベルト様。兵を殺すのはさすがに」
「それもそうだな、後処理が面倒だ」
そう言いながら、アルベルトとベンジャミンはゆっくり進んだ。その先にはヘラスがけしかけた兵士達の姿がある。
砂塵を上げて駆ける兵士達と、もう間もなく衝突する。その間際にアルベルトは更に魔法を繰り出した。アルベルトの前方からその奥へと、地面が一様に変貌していった。急にぬかるみ出したのだ。それにずぶりと足を取られ、兵士達は身動きが取れなくなる。
「な、なんだこれは」
「動けない……!? そ、そんな」
足先が何か柔らかいものを踏んだな、という感覚を感じたと思ったら、それがどっぷりと足を掴んで包み込んでいた。
「馬鹿が上司だと部下は辛いな。少し沈んでろ」
そうしてアルベルトは動けなくなった兵士達の間を通ってすたすたと進んだ。間近にいるというのに、誰一人としてアルベルトに剣を突き立てようという者が居ないのは、恐れであろう。数百人を一瞬で拘束した、その事が不気味で恐ろしい。
兵士の集団を抜けたその先にはただ一人、ぬかるみに嵌っていない人物がいる。
「貴様がヘラスとかいう馬鹿か」
「な、なん」
「あ?」
「ヒッ」
会話がし易いようにそいつの側に立ってやれば、その馬鹿は勝手に腰を抜かして尻餅をついた。それで余計にアルベルトの機嫌が悪くなる。
ちょっと兵器を無効化して、手足となる兵士も無力化して。そうして凄んでやったら、なんと腰を抜かした。とんでもない小物である。震えて這うように後ろに退がる姿なんて、滑稽でいっそ清々しい。こんなんでよくもまあリリアンに求婚しようなどと思えたものだ。それを思うとむかむかしてくる。
そのアルベルトのささくれ立った気持ちは魔力を変質させた。殺意と殺意、それから殺意が込められたそれは、荒々しく内臓を引っ掻きまわすようにヘラスの全身に打ち付けられる。本能的にヘラスは恐怖を覚え、身動きが取れなくなった。
「墓標の準備はできているか?」
「ひっ、ひぃッ……」
にんまりと笑みを湛えたアルベルトの笑顔は、あまりにも禍々しかった。




