林 瑠奈(はやし るな)の言い分
食事のあと俺は屋敷を出て、近くにあるという地区の共同浴場へと向かった。
「女の子はうちのお風呂に入ってもらうんだけど、男の人は浴場っていうルールなの。ごめんね」
生ぬるい潮風が吹く道路を歩いていて、その時の申し訳なさそうな凪の顔が浮かぶ。
川に近い共同浴場は、一見すると入口と窓がついた倉庫のような場所だった。裏手にお湯を沸かす炊き場があり、地区の住人たちが順番に入れ替わって薪を放り込んでいる。
脱衣所から入って洗い場の奥にあるコンクリート製の湯船は老若の男どもでぎゅうぎゅうで、手足を伸ばす余裕もない。
俺が今日ここに来るという噂は住人全員が知っていたらしい。体だけ洗って退散しようとした俺はたちまち捕まり、湯船に無理やり押し込まれた。
「是澤のせがれか?」「よう戻ったな」「凪ちゃんに苦労かけるなよ」「凪はうちの嫁にすんだから、抜け駆けすんな」
前後左右から好き勝手なことを言われて、疲れを癒す暇さえなかった。
帰る前に少しだけ薪を継ぎ足すのを手伝ってから、来た道を戻る。
ガスや電気が満足に使えなくても、人間ってなんとか生きていけるんだな。
熱い湯でほかほかに温まった体に当たる風は来る時よりは涼しかった。
屋敷の門を潜ると、母屋から中庭を挟んだ別棟の建物の裏から白い湯気が立ち上っていた。
興味を引かれてそれを眺めていると、急に背後から声がした。
「なに見てんのよ?」
「うわっ!!」
敵意を隠さないその声は、林さんか。振り返ると闇夜の中でもはっきり分かるほどの不機嫌オーラが全身を覆っていた。
「え、えっと。どうしたの? 林さん」
「瑠奈でいいわ。さん付けは忘れずにね」
「瑠奈……さん」
「よろしい」
かと思えば満足したように頷いている。やっぱりこの娘、苦手だな。
「で? たった今お姉さまがお風呂に入ってるんだけど、何か用?」
「は? い、いや違う! 知らなかったし、そんなこと」
「ムキにならないでよ。余計に怪しいわ」
凪の話によると別棟は長屋と言って、瑠奈さんたちが寝泊まりしているらしい。
門や母屋の玄関からは見えない位置だろうけど、あんな所で女の子たちだけがお風呂を使って、覗かれでもしたら大変だろうに。
「ムキにとかじゃなくて、心配するだろ?」
「だから見張ってるんじゃない。あんたのいやらしい視線で、お姉さまの清らかな肌を汚してたまるもんですか!」
「だ、だから違うって!」
手に持った農具でこちらを威嚇してくる瑠奈さんを前に、どう言い訳したものか。俺は手詰まりになって戸惑うしかない。
「だ、大丈夫だよ。瑠奈さんのお姉さんに悪さなんかしない」
「……お姉さん?」
瑠奈さんがキョトンとした顔で俺を見つめる。
「え。違った?」
「違うもなにも。私とお姉さまを本当の姉妹だと思ってたの?」
「え……だって」
「ほんっとに、びっくりするくらい愚かね、あなた」
「お、愚か……」
立て続けに鋭い言葉をぶつけられて、落ち込むどころじゃない。せっかく温まった体もすっかり冷え切ってしまった。
「ま。良く言えば疑うことを知らないというか。素直というか愚直というか」
「何でもいいです……」
「お姉さまはね、本当に素敵な方なの! 寡黙に毎日畑や菜園と向き合うあの真剣なまなざし。お姉さまが手塩をかけて育てた作物はもちろん美味しいし、力も強いし背も高いしスタイルもいいし美人だし、まさに非の打ち所もないわ!」
夢見る瞳で両手の指を組み、満天の星空を見上げる瑠奈さんは完全に自分に酔っているようだった。
目の前に俺がいるなんて忘れているに違いない。
「そう……瑠奈さんは小野寺さんのこと大好きなんだ」
「『大好き』なんて俗な言葉で片付けないで。私のお姉さまへの想いはもっと高尚なんだから」
「はは……」
だいぶ体も冷えてきた。できればもう寝る準備をしたい。
「……それなのに」
「えっ?」
瑠奈さんは長屋の裏にいるだろう、小野寺さんの方を切なそうに見つめている。
「援農の任期が終わったら、別の場所に行くんだって」
「え……そうなんだ」
瑠奈さんが俺に冗談を言うとは思えない。不満そうに口を尖らせているところを見ると、本当のことなんだろう。
別の場所ってどこだろう。ほとんどの土地が水浸しになってしまった世界で、農業ができる場所なんて他にあるのかな。
「そんなこと……絶対にさせないんだから」
瑠奈さんの言葉は誰に向けたものでもない。しかし、固い意思が込められていた。




