何の役にも立たないことを
夜が明けてから、俺と奏くんはグラウンドに出てラジオ体操をした。
世の中が混乱していても朝のラジオ体操の放送はちゃんと生きているから不思議だ。
かつて国民的家電だったラジカセから流れる、日常的なお祭り感とでもいうようなその音声を聴いていると、今が荒廃した世界であることを一瞬忘れそうになる。
「朝から体動かすと清々しいよな。奏くんも普段ラジオ体操やってる?」
「……」
無言が返事。昨夜からかってしまったことをまだ根に持っているらしい。これは仕方ないな。
それから朝ごはんを食べるため、凪の屋敷へ向かう。
朝のメニューは枝豆を混ぜた麦ごはん、ナスとオクラの味噌汁、イワシの梅煮。
彩りも栄養も完璧。しかし奏くんはどれも中途半端にしか箸をつけようとしなかった。
相変わらず、剥いた河内晩柑だけは完食してくれるのが救いだった。
「うう、やっぱり口に合わないのかなあ」
真っ白な布団のシーツが青空の下で大きくはためく。
午前中、俺は下宿している全員分の洗濯物を凪と一緒に干していた。女子の洗濯物は凪、かさばるシーツと男子の分は俺だ。
一直線に張られたロープにシーツをかけ、端を掴んでパァンッとはたくと石鹸のいい香りが水滴と共に辺りに漂う。
奏くんはその間、縁側に座ってスケッチをしている。
「昨日来たばっかだろ。全然食べないんじゃないんだし。そのうち舌も慣れるって」
「でも……育ち盛りなのに。あんな量しか食べないんじゃ倒れちゃう」
それは俺も気になった。洗濯を干す合間にちらりと見るが、奏くんは元々線が細い。ただでさえ夏は暑いというだけで体力を奪う。この状況がずっと続けば凪を心配性だと片付けるわけにもいかないだろう。
「少しでも食べてもらうよう俺もできるだけのことはするからさ、凪は今まで通りうまいご飯を作ってくれればいいよ」
「洋くん……」
気のせいか、凪の頬が赤い気がする。よく見ようとするが、凪から顔を逸らされてしまった。
「なんだか、その……。洋くん、ちょっと口が上手くなったね」
「へ?」
「あ、違うの、悪い意味じゃなくて。その、そんなにストレートに褒められると照れちゃうっていうか……」
「そうか? だって凪が一番がんばってるじゃないか」
「私は私にできることをしてるだけ。洋くんだって偉いよ。誰に言われたわけでもないのに、進んで奏くんの面倒見てくれて」
凪の言葉に俺は面食らう。
そういうもんか? だってここでは困っていたら誰かが声をかけてくれる。困っていたら一人じゃなくて皆で考える。それがいつの間にか当たり前になっていた。
振り返って縁側の奏くんを見る。その隣には洗い物を済ませた瑠奈さんがいて、スケッチブックを覗き込んでいる。今日は日曜だから瑠奈さんの巡回はお休みだ。
「へえ……上手いじゃない、奏の絵」
瑠奈さんはすでに奏くんを呼び捨てにしている。そういえば俺も初対面でいきなり呼び捨てにされたっけな。
「そんなこと、ない」
「どうして? クレヨンしか用意がないのが申し訳ないくらいよ」
「絵なんか、描けてもしょうがない、から……」
そう言って奏くんは手を止め、スケッチブックを抱え込んでしまった。どうしたんだろう? 昨日は褒めたらあんなに嬉しそうだったのに。
機嫌を損ねてしまった俺が気軽に近づくのも違う気がして、距離を保ったまま耳だけ会話に集中した。
「しょうがないって……どうしてそう思うの?」
「役に立たない、って。みんな言う」
「それって奏のお父様やお母様も?」
「パパとママは違う。それ以外の、友達、とか」
「嫌ね。あなたの特技を貶してくるようなのは友達でも何でもないわよ」
「……え?」
瑠奈さんの竹を割ったような物言いに、奏くんはキョトンとしている。
「奏の絵はステキよ。ステキなものはね、ただそこにあるだけでいいの。役に立つとか立たないとかじゃない。そこにあるだけで価値があるの」
「ステキな……もの?」
「そうよ。あなたの住んでる所は他より衣食住は恵まれてると思ってたけど……芸術を楽しむ余裕はまだ無いみたいね。要課題だわ」
地域のインフラを担う瑠奈さんはぶつぶつと呟いて考え込んでいる。そこで俺は閃いた。
「あのさ、ちょっといいかな?」
干していたシーツをロープに引っかけると、俺は弾むような足取りで奏くん達に近づく。こちらを見上げる奏くんの瞳は、もう怒ってはなさそうだ。
「ごめん、瑠奈さんとの話聞こえてたんだ。それでさ、考えたんだけど」
何事かと奏くんと瑠奈さんが顔を見合わせる。
「奏くん。『何の役にも立たないこと』やってみないか?」
「は?」
「えっと……?」
瑠奈さんはあからさまに眉をひそめ、奏くんはただ戸惑うばかり。
分かってる、分かってるんだ。最後まで聞いてくれ。
「絵でも散歩でも体操でも何でもいいんだ。とにかくなんの役にも立たないし、何にもならないことをやってみようよ」
「えっと、それは何の」
「何にもならない。でもそれでいいんだ。誰も奏くんを責めないし、誰かに迷惑をかけることじゃないなら何をしてもいい」
「そんなこと、して、いいの……?」
俺は大きく頷いた。
「していい。ここにいる間にしかできないことを目一杯やろう!」
その瞬間、奏くんの瞳が輝いた。大げさじゃなく、その瞳に映る美しい空まで煌めいているように見えた。
「なるほどね。ま、いいんじゃない?」
「瑠奈さんもそう思う?」
「ステキなものはいくらあってもいいからね。しっかり見守ってやんなさいよ」
「もちろん」
ぎゅっと力を込めてスケッチブックを抱える奏くんは小さく微笑んでいる。
ようやく奏くんとの付き合い方に手応えを感じた。




