古びたクレヨンと最初の架け橋
デザートにと皮を剥いて切っただけの河内晩柑を、奏くんは唯一「おいしい」と言って完食していた。それを見た凪がほっと安心していたのが救いだった。
夕飯を済ませた俺と奏くんは屋敷を後にし、地区の共同浴場に向かう。
辺りはすっかり暗くなり、ちらほらと立つ街灯がぼんやりとした明かりで生活道路を照らしていた。
川沿いに建つ共同浴場の小屋から白い煙が上がっている。俺はそちらを指さした。
「あれが地区の人たちが使うお風呂。ガスが使えないから、焚き付けの風呂がない家の人たちはあそこで済ませるんだ」
「焚き付け……?」
「煙が上がってるだろ。薪を燃やしてその熱でお湯を沸かすんだよ」
奏くんは目を丸くしている。彼の実家の風呂がガスか電気かは知らないが、自分の家以外で入る風呂があることはこれまでの常識の中に無さそうだった。
ちなみに東京の俺の伯母さんの家は電化住宅だ。ただし、風呂はシャワーしか使えなかった。
「銭湯とか知らない? 温浴施設とか」
俺が尋ねるどの質問にも奏くんは首を横に振る。
「そっか。でっかい浴槽があってさ、地区のみんなでぎゅうぎゅうになって入るんだ。ちょっと窮屈だけど楽しい……」
「それ、嫌」
奏くんは俺の言葉に被せるようにはっきりと拒絶を伝えてきた。
うん、実は少し予想はついていた。
奏くんのご両親の服装や雰囲気、奏くん一人にしてはやけに多い荷物。そして味の好み。
間違いなく奏くんはこの時代にしては恵まれた環境で育っている。これまでに両親や周りから与えられてきた愛情は奏くんただ一人に注がれてきたものだ。
だから、生きていくために必要なリソースが平等に分けられる初めての環境に違和感を覚えるのだろう。
言うまでもなく、それは個を含めた共同体が生きていくのに必要なことだ。でもここに来たばかりの奏くんが理解するのには時間がかかる。
俺はかがんで奏くんと目を合わせた。
「なあ、奏くん。よかったら詳しく聞かせてくれないか?」
「……」
「みんなと一緒に風呂に入るの、どうして嫌なんだ?」
「……普通じゃない、から」
「普通って、自分の家の風呂を使うこと?」
奏くんが頷く。俺は言葉を選びながら続ける。
「そっか。でもさ、ここの人たちは自分の家の風呂が使えないんだ。大きな水災のせいで、ガスを送ってくれる施設が無くなった。電気は使えるけど節約しなきゃならない。でも毎日風呂は入りたいだろ?」
また小さく頷く。ここの事情を分かってはくれたみたいだ。
「それで皆のために共同浴場を作ったんだ。時間を合わせて、大きな浴槽にお湯を沸かせばたくさんの人が風呂に入れる。風呂に入った人は次の人のために薪を燃やすのを手伝う。ここでは一人一人が助け合って生活してるんだ。分かる?」
「……うん」
よかった。それさえ分かってくれれば大丈夫だ。俺は奏くんに笑いかけた。
「やっぱり皆と一緒の風呂は難しそうか?」
「うん……」
「そっか、じゃあお湯だけ少しもらって行こう。今日は体を拭くだけだけど、かまわない?」
奏くんはかすかに頷いた。
「一緒に頼みに行こう。怖くないから、大丈夫」
俺が手を差し出すと、奏くんはおずおずと手を伸ばしてきた。その手を繋ぎ、小屋の裏手で焚き付けをしているおじさんに事情を話す。
「ええぞ、待ちよれ」
おじさんは快く応じて小屋の中に入っていくと、沸かしたお湯をポリタンクに入れて持たせてくれた。俺達はお礼を言って共同浴場を後にする。
歩くのに合わせてポリタンクの中のお湯が揺れている。フリースクールへ向かう道の途中、繋いでいた手を奏くんが少しだけ握り返してくれた。
夜空に瞬く大きな星に見守られる中、フリースクールに着いた。初めて見る夜中の校舎は昼間とは違い寂しげな雰囲気に包まれている。建物の中に明かりはなく、周囲は虫の声がうるさく響いていた。
奏くんと手を繋いだまま、暗い校内を懐中電灯で照らしながら二階に上がる。多目的室に着いて電気のスイッチを入れると、LEDの明かりが点いて布団と畳だけの殺風景な教室を照らし出した。
俺はロッカーからバケツを取ると、ポリタンクのお湯を移し替えた。風呂に入るために持ってきていたタオルをリュックから出し、奏くんに手渡す。
「これで体拭きな。俺は外にいるから、終わったら声をかけてよ」
「うん」
初めて共同浴場に着いたときより少し緊張が解けたらしい奏くんを残し、俺は廊下へ出る。
食事の問題の次は風呂の問題か。違う環境で生きてきた人を迎え入れる難しさがやっと分かってきた気がする。
これまで何人もの援農者や生徒を受け入れてきただろう凪や地区の人たちの苦労を思うと頭が下がる。でも、今度は俺もその一員として知恵を絞る番だ。
何かいい方法があるはずだ。奏くんも俺達も「これだ!」と納得して、笑顔になれる。そんな上手いやり方が。
壁にもたれてあれでもないこれでもないと考えを巡らせる。ふと気づくと、廊下に出てきてからだいぶ時間が経っていた。
「奏くん、入っていいか?」
「……あ」
教室の引き戸をノックする。それから少し遅れて奏くんの小さな「どうぞ」という声がした。
入ってみると、奏くんはすでに体を拭き終わっていた。そしてどこから出してきたのか、スケッチブックを膝に抱え、床に置いてある少し古びて紙の剥げたクレヨンで何かを書いていたようだった。
「……え、何? それ持ってきたの?」
「ううん……机の中、入ってた」
そう言って奏くんは教室の端に寄せられていた長机を指さす。どうやら机の物入れの中に授業で使う色々な道具が置きっぱなしになっていたらしい。
「何か書いたのか?」
「……うん。絵」
「へえ、すごいな。絵が描けるのか。よかったら見せてくれる?」
奏くんは抱えたスケッチブックと俺とを見比べていたが、やがて俺にスケッチブックを渡してくれた。
白い画面には木になる大きな河内晩柑の実と、瀬戸内の海が鮮やかに描かれていた。クレヨンだけで描いたとは思えない、伸び伸びとした豊かな色使いだ。
「すごいじゃないか、上手だなあ!」
「そんな、こと、ない……」
「そんなことなくないよ。俺には絵の良さは分かんないけど、この河内晩柑の色、すごいと思う。奏くんにはこういう風に見えてるんだな」
照れた顔を見られたくないのか、奏くんはずっと床に視線を向けていたが、河内晩柑を褒められるとゆっくりと顔を上げた。
「……うん。僕、河内晩柑が好き」
その言葉を聞いた俺はすっかり嬉しくなってしまう。
「あ、でもな。体を拭き終わったら声かけてくれよ。お湯が冷めてるだろ?」
「! ご、ごめんなさい」
「いいって。集中してたんだよな」
スケッチブックで頭を隠すようにしていた奏くんが、チラッと俺を盗み見るように見上げる。その目元がいたずらっぽく笑っているように見えた。
一番戸惑い、苦労しているのは違う環境で生活することになった奏くんだ。そんな彼が好きになるものはひとつでも多い方がいい。
河内晩柑という小さな太陽が、奏くんとこの地区を繋げる架け橋になってくれれば。それをきっかけにできるだけ奏くんが好きなものを一緒に見つけていこう。俺は改めてそう決意した。




