好むと好まざると
フリースクールから戻った俺たちは屋敷の玄関からではなく、勝手口から辺りの様子を伺いつつ中に入ろうとした。念のため奏くんは外で待機してもらっている。
俺にそんなつもりは一切ないが、カレーの件で結果的に見捨てた形になった凪のことが気がかりだった。怒った凪はひたすら怖い。なるべく正面から顔を合わせたくないのが本心だ。
「ひ〜ろ〜し〜く〜ん?」
「ぎゃっ!」
懸念は当たったようだ。土間の死角で味噌汁の最後の味見をしていたらしい凪の恨みがましい声に迎えられ、心の底からの大声を上げてしまう。
「な、凪? ただいま」
「おかえり洋くん。遅いお帰りね〜?」
「あ……えっと、どうなった? その、カレーの代わりは」
誤魔化すように精一杯の笑顔を浮かべる俺だが、凪はもちろんそれに絆されることなくため息をつく。
「できるわけないじゃない。瑠奈さんやあぐりさんにも相談したけど……カレー粉も、代わりになるスパイスも無し」
「そっか……」
「瑠奈さん達のネットワークでカレー粉を取り寄せることはできそうなんだって。それでも1ヶ月近くかかるし、それまで奏くんに我慢してもらえるかどうか……」
俺は勝手口の外で待っているだろう奏くんを後ろ目で見る。
「分かった。凪、ごめんな。厄介なこと任せちゃって」
「ううん、食事担当は私だし……ただ、もうちょっと親身にはなってほしかったな」
「ほんとごめん」
「ちゃんと反省してください! 奏くんもいるんでしょ? カレーの代わりはないけど、ご近所さんにも協力してもらっていつもと違うおかずを作ったの。さっそくご飯にしましょう」
「ああ。おーい奏くん、入ってきていいぞ」
俺は勝手口からおずおずと顔を覗かせる奏くんを招き入れた。
食卓にはすでに全員が揃っていた。食器を運び、料理を並べる俺たちの動きを奏くんは興味深そうに眺めている。
「初めまして、私は瑠奈よ。あなた神戸から来たの? どの辺り?」
準備をしながら瑠奈さんが奏くんに話しかけている。
「あ……。今は、鈴蘭台の……別荘に」
「あら、水害を避けて住むなら良いところよね。私のおじい様も別宅を持っていて、たまに遊びに行っていたわ」
「う、うん……」
「気が向いたら今の様子を聞かせてちょうだいね」
瑠奈さんも神戸に縁があるのか。奏くんの来訪をきっかけにこれまで知らなかったことを知る機会が増えるのは何だか嬉しい。
そうこうするうちに夕飯の準備が出来上がる。奏くんはひとまず俺の隣に座ってもらうことにした。
「それでは皆で食べましょう。いただきます」
「いただきます!」
凪がいつもと違うと言っていた今日の夕飯は、サトイモのそぼろあんかけ、油揚げにおからを詰めて炊いたもの、小松菜とニンジンのおひたし。そして俺達の元気の源、麦飯と味噌汁だ。
「お、うまそう」
俺はサトイモに箸を伸ばして口に運ぶ。うん、イモがホクホクしてて美味い。あんかけに混じっているのはどうやら豆腐をポロポロに炒ったものらしい。ひき肉の代わりとして凪の工夫が光る一品だ。
「これ美味いよ。奏くんも食べてみな」
「……うん」
箸を握ったまま微動だにしない奏くんを促すと、彼はつるりとしたサトイモをひと口食べた。
凪の表情が強張り、奏くんを見つめる目が真剣になったのは気のせいじゃないだろう。
もぐもぐと口を動かしていた奏くんがそれを飲み込み、俯いたままボソリと呟く。
「……これ、好きじゃない、かも。ごめんなさい」
その瞬間、凪が大きく天井を仰いで――がっくりと肩を落とした。
「うん……そう、そうだよね。分かってる。がんばって考えてみたけど、とろみがついてるだけじゃカレーの代わりとは言えないよね……」
これまで来訪者たちの胃袋を完璧に掴んできた凪の料理が初めて通用しないところを見た。俺の衝撃もそれなりに強烈だった。
「そ、そんなことないだろ。ほら、こっちの油揚げのおかずも美味しいぞー?」
奏くんは油揚げの中のおからを崩し、小さくして口に運ぶ。しかし、喉を詰まらせたようで小さく咳き込んだ。
「……中が、ボソボソして……食べにくい」
「そう、だよね……! 小学生におからは日頃から食べ慣れてないと厳しいよね……!」
ダメだ。奏くんがひと口食べるたびに凪の精神的ダメージが蓄積されていく。野菜の歯ごたえを残して丁寧に湯がかれたおひたしも、甘い麦味噌の味噌汁も、奏くんはひと口食べただけで力なく食卓に置いてしまう。
「おい、坊主」
さすがにあぐりさんが口を出す。腹の底まで響くようなその声に、奏くんの肩が跳ねた。
「当たり前に食いもんが食えると思ってんでねえぞ。今あるもんで工夫して凪が作ってくれてんだ。ちょっとばかし変わった味でも、我慢しろ」
「……でも」
「言い訳すんな。おめ、家でもそんなワガママ言ってんのか?」
あぐりさんの言うことは正しい。正しいけど、奏くんは今日ここに来たばかりなんだ。
肩を震わせ、俯いた奏くんは押し黙ったまま身動きひとつせずにいる。
「あぐりさん、大丈夫だから。奏くんともっと話して、明日はちゃんと食べられるものを作るから」
凪がそうフォローするが、あぐりさんは苛立ちを隠さなかった。
「必要ねえ。お客さんを招いてんじゃねえんだ。食わねえなら飢えるまでほっとけ」
「あぐりさん!」
さすがにそれは言いすぎだ。しかしあぐりさんは俺を睨みつけ、吐き捨てるように言った。
「ここはまだ他所に比べりゃマシだ。けんどワガママなガキを甘やかすような余裕はねえんだぞ」
「甘やかしてなんか……」
「本当か?」
あぐりさんの鋭い視線に心を見透かされるようだった。俺はとっさに視線を逸らす。
いくら俺より小さいとはいえ、奏くんはもう12歳だ。必要以上に甘やかす必要はないことくらい分かってる。今夜この食卓に並ぶ料理だって、いつでも食べられるわけじゃない。そこはちゃんと理解してもらうべきだ。
でも俺は度が過ぎていようが、奏くんの味方でいたかった。初めて来た土地で心細さや孤独を感じてほしくないからだ。
「……夜風に当たってくる。好きにしろ」
「あ……」
冷たく放たれた言葉が俺の胸を突き刺すようだった。呼び止める間もなく、あぐりさんは縁側から外へ出ていってしまった。重い沈黙が居間を包む。
「大丈夫だよ、奏くん。食べられそうなものだけ食べようか」
凪の言葉に、俯いたままの奏くんが小さく頷く。
俺は黙ってその様子を見守ることしかできなかった。




