宇都宮 凪(うつのみや なぎ)という幼なじみ
海面が上昇した瀬戸内は、もはや内海というよりは複雑で危険な潮流が待ち構える『水の迷路』だった。
大型船舶の航行は物資の輸送に限られていて、人間の行き来は俺が乗っている小型船舶の仕事だ。
この小さな船というやつは、とにかく揺れが激しい。
次から次に波に乗り上げ、船を押し戻す潮を回避するために急に舵を切る。たった10秒さえ足場が安定しない。
自慢じゃないが、海に囲まれた故郷で生活していたのはずっと昔の話だ。
結果。
「う、うおお……うおおおえええぇぇ……」
見事に酔った。
船は定員ギリギリで足を伸ばす余裕もないが、最低限のマナーとして吐く時は船尾まで移動する。
そこは1回目のマナーの時点ですでに足腰が立たない泥人形のように成り果ててしまった、俺の特等席になってしまった。
周りはほとんどがいい年をした大人たちだ。中には俺をきつく睨みつけている人間もいる。
そりゃそうだ。船に乗ってからずっと吐きっぱなしで、謝罪の言葉を出す力さえない。
次の中継地である今治までは短くても4時間かかるという。
船のモーターに巻き上げられた白い潮の泡の網模様が来た海へと消えていく。
それを綺麗だと思う感覚さえ麻痺した俺の体を、小刻みなエンジンの振動が容赦なく揺らしていた。
「亀老山、到着! 潮待ちのため一時船を係留します!」
船員のひとりが今治に着いたことを告げる。もともと展望台公園があったこの山は、今は船の中継地として人や物資の輸送の要となっていた。
海から伸びる階段の踊り場が、乗降する平地として広めに舗装されている。
潮待ちの間、乗客たちは展望公園で休息を取るのだ。俺が船を降りたのはもちろん一番最後だった。
「君、大丈夫か? 階段上がれるんか?」
「大丈夫、です。すいません」
さすがに船員のひとりに心配されてしまったが、俺は階段中央の手すりに両手ですがりつきながら展望デッキを目指す。
そうしなければならない理由があった。
這々の体で階段を上り、山に埋もれるような構造の展望ブリッジの最上段へと辿り着く。
床を覆う美しい石造りのタイルはひび割れ、近くなった海からの潮風で金属の手すりには錆が目立つ。
陸と島を繋ぐ、かつてのしまなみ海道の白い橋桁はぽつりぽつりと海の中からその存在を主張している。
広大な来島海峡を見下ろし、遥か遠くに蒼く佇む連山を望む。瀬戸内随一の眺望スポットであることは今も揺るぎなかった。
床に規則正しく整列した立方体のオブジェが向かう先の、海と空が交じる水平線。
乗ってきた乗客たちとは明らかに違う人間が、俺に背中を向けて立っていることに気づいた。
胡桃色の長い髪。少し日に焼けている腕。太陽の光を反射して輝く白いTシャツと水色のデニムの女の子。
「あ……あの」
吐きすぎてカラカラになった喉からは上手く言葉が出ない。しかし、彼女は潮風に溶けそうな小さな声も聞き逃さなかった。
振り返ったその表情には、軽い驚きが浮かんでいる。
「洋……くん?」
俺は息を飲んだ。東京からここまで、初めて誰かから俺の名前を呼ばれたことへの安堵感が全身を包んだ。
「洋くん。だよね? そうでしょ?」
「凪……宇都宮、凪?」
「そうだよ! あはっ、良かった。ちゃんと着いたんだね」
彼女は俺を是澤洋だと確信した途端、弾けるような眩しい笑顔を見せた。
子供のころの凪の笑顔はもっと無邪気だった。それがいつの間にか大人っぽくなり、身長も髪も伸びていて。
久しぶりに会う幼なじみが、こんな近くで俺に微笑んでくれるなんて。都合のいい夢のようだった。
「お、伯母さんたちが大げさなんだよな。子供じゃないんだから、別に出迎えなんて必要なかったのに」
魅力的に成長した凪と向かい合う照れくささから、顔を逸らしてぶっきらぼうに言う。
「私は別に平気。おばさんにとってたったひとりの甥っ子じゃない。まだまだ洋くんのこと心配なんだよ」
心配……俺を?
引きこもって学校にも行かず、働きもしない厄介者。そんな俺のことを一体誰が心配なんてするんだ。
気を使っただけの凪の言葉が、俺の心の深くに閉じ込めた劣等感を鈍く抉る。
すると凪は急に黙ってしまった。
「洋くん大丈夫? すごい怖い顔してるよ……」
「あ……ご、ごめん」
知らず険しい顔をしてしまったらしい。俺は素直に謝った。
そうだ、凪は何も悪くない。
年頃に成長した凪に比べてパッとしない服装の自分を見下ろし、さらに情けなくなる。
「ここまでどうやって来たんだ?」
「南予からここへ向かう北上船。こっちの船は少し早く着いたの。洋くんが乗って来たのは南下船ね。亀老山で合流して、それぞれの方向に向かうの」
「そっか」
「ここからは早くて5時間くらいかかるけど……洋くん、船酔いには慣れた?」
「……まじか」
俺はここまでの地獄のような船旅を思い返し、絶望にへたり込んだ。




