清夏、新しい風の奏(かなで)
新しい滞在者を受け入れる準備も整い、ついにその日が訪れた。
今回の受け入れは年少ということもあり、ここまでご両親が付き添ってくるそうだ。
瑠奈さんとあぐりさんはそれぞれの仕事があるため、俺と凪が船着き場で待つことになった。
「しまった、ここも少しはキレイにしとけばよかったな」
「それは次回の課題にしようよ」
凪が呆れたように微笑む。船着き場といっても俺が着いた頃と同じ、ボロボロの木板を浮きで固定しただけの簡易的なものだ。
ここには物資を積んだ大型船が着くような規模の設備がないため、人が数人下りられれば十分らしい。
「船酔いとか大丈夫かな。俺のとき相当つらかったぞ」
「普段から船に乗る習慣があれば少しはマシだと思うけど……心配だね」
あれから日は経ったが、初めてここまで来た時のことは悪い意味で忘れられない。中継地で波待ちの中休みがあったとはいえ片道9時間の船旅だ。その時間のほとんどを俺は吐いて過ごした。
「なあ、やっぱり無理あるんじゃないか。小学生だろ?」
「決めるのは私たちじゃないから……。洋くんこそ大丈夫? トラウマになってない?」
そんなことを話しながら、船着き場にある待ち合い小屋のベンチに腰かけて到着時刻を待つ。
正午から太陽が傾きかけたくらいだろうか。海岸沿いに住む顔見知りの漁師のおじさんが、小屋に顔を出した。
「よい、人乗せた船が着きよるぞ」
「あ、きっと新しい生徒さんだ。ありがとうございます」
「馴染んだらええのう」
「本当に」
立ち上がってお礼をいう凪に一声かけるのもそこそこに、おじさんは自分の漁船に戻っていく。
「洋くん、行こう」
「うん」
凪と一緒に待ち合い小屋を出ると、目の前の船着き場に数人を乗せた小型船が到着したところだった。
荷物を持って船を降りる乗客の中に三人の家族連れらしき人たちを見つけた。着ているものも普段着ではなさそうで、どことなく上品な雰囲気だ。
「瀬戸さん! 瀬戸奏くんのご家族の方! こちらです!」
凪が大きく手を振ると、家族連れが一斉にこちらを見た。
父親が持つ大きなキャリーケースが2個。それが奏くんの荷物らしい。
「初めまして、宇都宮凪です。奏くんのこちらでの滞在中、食事や宿泊を担当します」
「まあ……お若いのにしっかりしたお嬢さん。奏の母です。こっちが息子の奏と申します」
奏くんは父親と母親に挟まれるように立っていた。何か言うでもなく、不思議そうにこちらを見ている。
色素の薄い目は利発そうで、柔らかそうな髪の毛が潮風に揺れる。物静かで、夢の中の住人のような不思議な雰囲気を纏っていた。背丈は俺の胸のあたりまであるが、その体つきは細く、どこか危うい。
「奏、ご挨拶しなさい」
「瀬戸、奏。です」
「すみません、引っ込み思案な息子で」
確かに繊細そうに見える。が、船酔いで苦しんだ様子もなく自分の足でしっかりと立っているところを見ると、案外打たれ強いのかもしれない。
「いえいえ。奏くん、ちゃんとご挨拶できたね」
頭を下げる父親を凪がフォローする。その様子を見守っていた俺を、母親がしげしげと眺めてくる。
「あの……こちらの方は?」
「あ、すみません。俺は是澤洋です。奏くんと同じく、フリースクールに参加するため今年の春にここに来たばかりです」
「まあ、失礼しました。優しそうな方で安心だわ。奏のこと、よろしくお願いいたします」
母親が深々と頭を下げてくる。俺も慌ててお辞儀を返した。
「皆さんはこちらで一泊する予定ですか?」
「いえ、我々はすぐ発ちます。奏が離れづらくなってもいけないので」
「奏、お兄さんとお姉さんの言うことをちゃんと聞いて、良い子でいるのよ」
しゃがんで視線を合わせる母親に奏くんは頷く。あまり寂しそうだとか、不安そうな様子は見られない。
表情が薄い子なんだな。何となくあぐりさんに似てる。
小さい子を預かるんだから、あぐりさんも少しガサツな身振りは控えめにしてもらわないと。
それからすぐ、宇多津へ戻る定期船の出発の合図が船着き場から聞こえてきた。
「皆さん、奏のことをどうかよろしくお願いします!」
母親が何度も俺達に頭を下げ、父親が心配そうに妻に寄り添う。その切迫した姿に胸が締め付けられそうになる。
こんなに小さな子を遠い土地に一人で預けるなんて、親としては不安で仕方ないだろう。
俺はせめてその不安を少しでも軽くできるよう、笑顔ではっきりと伝えた。
「俺もここに来てから当たり前みたいに笑えるようになったんです。奏くんが居心地よく過ごせるようにしっかり見守ります!」
俺の言葉にご両親が何を思ったかは分からない。
帰りの船に乗るとき、奏くんの前では耐えていたのだろう母親が両手で顔を覆うのが見えた。その肩を父親が優しく抱きしめている。
遠ざかっていく船を、奏くんはただじっと無言で見つめていた。その小さな背中に、俺はかつて電車に乗り、車窓から一人で瀬戸内の海を眺めていたあの春の日の自分を重ねていた。




