未来を拓く力
楽しい宴の時間は過ぎるのも早い。腹ごなしに地区の共同浴場へ行こうと、納屋に戻って準備していたタイミングだった。
「洋、ちょっといいか」
納屋の戸が開いて、あぐりさんがそこから顔を出す。
「いいよ。どうしたの?」
「風呂、今日はうちで入ってけ」
「え、いいの? どうして?」
俺が聞き返すと、あぐりさんはちょっとだけ目を泳がせる。
「別にどうとかじゃねえが……久々に二人で話したぐて、な」
その言葉でいつかの日、あぐりさんに屋敷の風呂を焚いてもらったことを思い出す。
長屋の外で焚き釜の火の番をしてくれたあぐりさんに、俺はここで暮らしていくための決意を聞いてもらったんだった。
「分かった。順番が来たら呼びにきてもらえる?」
「ん」
あぐりさんは短く頷き、納屋を後にした。
屋敷の風呂はレディファーストだ。俺は普段は地区の住人も利用する共同浴場へ通っているが、土砂降りの日などは今日みたいに屋敷の風呂を使わせてもらうことがある。
それにしても、あぐりさんと二人で話すのは本当に久しぶりだった。
「洋よう、準備できたど」
「はーい、今行く!」
風呂はあぐりさん達が寝泊まりしている長屋の中にある。低くてよく通るあぐりさんの声に呼ばれて、俺は長屋へと出向いた。
「瑠奈さん、お邪魔します」
「洋」
長屋の入口を通り際に瑠奈さんとすれ違った。そのとき彼女にしては珍しく低い声で、俺にだけ聞こえるように呟く。
「……あんまり長湯するんじゃないわよ」
てっきりそのまま自分の部屋に行くのかと思ったが、瑠奈さんはそのまま出ていってしまった。
どうしたんだろう。母屋に忘れ物でもしたのかな。
長屋の奥の脱衣所の戸を開け、服を脱いで浴室へと入る。庭側の小窓は半分ほど開いている。そこから外にいるあぐりさんの声がした。
「熱かったら、言え」
「分かった」
共同浴場も、屋敷の風呂も外釜での焚き付けだ。外で火の調整をし、中から湯加減を知らせて互いに声かけをする。
「ちょっと熱めかな」
「ん」
外であぐりさんが釜の中の薪を取り出し、砕く音が響く。
「……うん、ありがとう。ちょうどいいよ」
「ん」
俺は大きく息をついて湯船にもたれかかる。窓の外からは虫の声が聞こえてくる。梅雨明けは間近だ。
夏の虫の声と、パチパチとかすかに聞こえてくる焚き木が燃える音。俺は目を閉じてリラックスし、それらを耳で楽しんでいた。
「……洋」
「うん?」
「あんがとな」
「ま、またその話? もう十分感謝してもらったし、謝ってもらったよ」
「いんや……おめがあの時、協力しようって言ってくれて、分かったんだ」
あぐりさんはじっくり言葉を選んでいるようだった。焚き木の火の粉が舞う音まで聞こえてきそうだ。
「おれも一人で抱え込んでた。瑠奈のこと言えねえな。おれがあの子のことを心配してたみてえに、おれも皆に心配かけてまったんだな」
「えっと、ほら。あぐりさんは逞しいし、実際頼りになるし。普段はそんなに心配することもないけど……」
俺は何とかフォローしようとあれこれ考え始めた。が、そんな必要もないかと思い直して肩の力を抜く。
「逆にさ、ちょっと安心した。あぐりさんでも焦ったりするんだって」
「……そりゃあ、そうだろ」
窓の外で、あぐりさんは少し笑ったようだ。
「都会から来た坊主が思ってたよりずっと根性なしでな。ちょっとつまずいちゃ泣きべそかくもんださげ、どう扱ったもんかと毎日焦ったもんだ」
「ちょ、俺は関係ないだろ?」
「ある」
「それに泣きべそなんかかいてないから!」
「かいた」
完全に面白がられている。もはや隠すこともせず、窓からクックッとあぐりさんの笑い声がした。
俺はふてくされて持ち込んだタオルに空気を入れて湯に沈め、無心にボコボコと音を立てた。
「……おれんちは米農家だ。子供ん頃から土にも水にも慣れてた。体もでかいし、大抵のとこでは歓迎されてたな」
「あのさ、それ瑠奈さんからちょっとだけ聞いたんだ。あぐりさん、色んなとこで援農してるって。実家の仕事は継がなかったの? 今なら米づくりも需要あるんじゃないか?」
あぐりさんは答えない。言いづらいことだったかと居心地の悪さを感じ始めたときだった。
「なくなった」
「え?」
「海の水がおれんちの田んぼも畑も、全部ダメにしちまった」
俺は絶句した。口数の少ないあぐりさんが、想像を絶する経験をしてきたことに返す言葉もなかった。
「おれんちは平野だ。平野だからだだっ広く田んぼを敷ける。昔っから米どころで有名だった。けんど海の水が上がってきたとき、平野は全部潮に浸かってまった」
頭に兵頭さんの言葉が浮かぶ。農業は、その土地の土や水の状態で全然やり方が違うのだと。
俺の故郷でもあるこの地区は、急な山の斜面に、海の表面に反射した太陽の照り返しを利用した段々畑が伝統的な農法として受け継がれている。この段々畑のおかげで広い平野がなくても作物を育てることができる。
それは陸地のほとんどが海に沈んだ現在ではプラスに働いた。もともと高い標高で畑作をしていたから、無事だった段々畑を使って以前と変わらない農業ができたのだ。
でもあぐりさんの故郷ではそうはいかない。標高の低い平野は海に沈み、田んぼに適した平たい土地は限りがある。
それに彼女の言う『なくなった』は、田んぼだけの話じゃないんだろう。
「親の親の、その前の親から米作って生きてきた家が、田んぼがなくなってどうやって生きてく?」
「……」
「姉ちゃんたちは、残らず嫁に出された。まだ学校さ行ってるのもいたが……稼ぎもねえのに大勢の子供抱えて生きてぐのは無理だったんだ」
いつの間にか虫の声も焚き木の音も聞こえなくなっていた。あぐりさんの壮絶な半生を目の当たりにして、俺はただ愕然とするしかなかった。
「おれもそうなる予定だった。……けど、おれは姉ちゃんたちと違って料理も掃除もやったことねえ。家の中は手が足りてたから、手伝うような機会もなかった」
少し間があってから、あぐりさんは再び話し始める。
「洋よう、おれの名前の意味、分かるか?」
「あぐりさんの……?」
俺は考えあぐねる。変わった響きの名前だということしか分からない。
「おれんちは女きょうだいばっかだ。農家は男手がいる。末におれが生まれたとき『女はこれで最後だ』って意味の、あぐりって名前をつけられたんだ」
それは俺が全く聞いたことがない風習だった。子供の名前って、もっとこう祝福の意味を込めて付けられるんじゃないのか?
女の子はこれ以上いらないなんて、その理由に子供の誕生を祝う意味は少しも感じられない。
浴槽のお湯を水滴が叩く音がする。それは涙だ。俺はいつの間にか、泣いていた。
「……っ」
あぐりさんに気づかれないようタオルで顔を覆う。しかしそれは無駄な努力だった。
「なして、おめが泣く?」
「だ、だって……そんなことって」
「おれは父ちゃん母ちゃんが望んだ性別じゃなかった。家の中のことは姉ちゃんたちに取られてなんもできねえ。だから小さい頃から田んぼに出て、何もできずに泥んこになってた……誰もおれにそんなこと望んでねえのにな」
子供の頃から自分にできることを探していたあぐりさんの健気さ、意志の強さ、未来を拓いていこうと必死にあがく力。それは俺とは正反対の生き様だった。
「学校に上がる時分には、ほとんど姉ちゃんたちと変わらねえくらい大きくなってた。それが幸いだったな。勉強より米作りの手伝いして、楽しかったなぁ……」
あぐりさんがどんな表情でいるのかは、こちらからは分からない。でも窓の向こうのあぐりさんは本当に愛おしそうに、遠い日を思い出すように話している。
「米は作れても家の中のことなんもできねえ嫁なんかどっこも欲しがらねえ。だからおれは家を出た。それから、ずっとよそんちの農業の手伝いして飯食ってる。でもな、おれはあの家に……米農家に生まれたこと、ひとっつも後悔してねえんだ」
それは決して強がりではなく、自らの進む道を自分で切り拓いてきた彼女の誇りなのだろう。
「……あぐりさん」
「ん?」
聞かずにはいられなかった。涙を拭い、窓に向けて声をかける。
「どうして、俺に話そうと思ったの?」
「……ん」
長い長い沈黙があった。俺は風呂がすっかりぬるくなっていることにも気づいていなかった。
「兵じいには、話した。今ならおめにも話してええがと思ったんだ」
その心境の変化は、きっと化け物ミミズを協力して退治したのがきっかけだったに違いない。
ずっとその頼りがいのある背中を見てきた。でもいつの間にか背中は見えなくなり、気づけば隣でその横顔を見つめている。
俺の中のあぐりさんの姿も、そんな変化を遂げていた。




