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雨夜の訪問者

 結局あぐりさんは俺の布団の上でそのまま寝てしまった。

 無防備な彼女を一人残すのは少し不安だったが、もしもの時にと瑠奈さんが残してくれていた雨ガッパを羽織る。

 どうにか動く足で苦労しながら母屋までたどり着くと、玄関からすぐの板間に座って瑠奈さんを呼ぶ。

「あんたどうしたの? 何かあったら呼べって言ったのに」

 慌てた様子で飛んできた瑠奈さんからタオルを借りて、濡れた体を拭かせてもらった。

「ごめん。大声出そうにもあぐりさんが」

「お姉さまが? 戻ってきたの?」

 当てがあると言っていたものの、もちろん心配していたのだろう。あぐりさんの名前を聞いた途端に瑠奈さんは身を乗り出してきた。

「うん。ちょっと……だいぶ酔っ払ってたみたいで、間違えて納屋に来てさ。そのまま俺の布団で」

「ちょっと待ちなさい、冷静になるから」

 本当にすうはあって声に出して深呼吸する人間、初めて見たな。

「冷静にって何だよ」

「黙りなさい。……うん大丈夫、落ち着いた。それで? お姉さまがどうしてあんたの布団に?」

「俺が知るかよ! そんな間違われ方したことないんだから!」

「だから詳しく聞いてるんじゃない! ま、まさかあんたが連れ込んだとか」

「絶対ない! 足も満足に動かないんだぞ?」

「動かないから何よ! 足の他は普通に動くんじゃないさ!」

「足の他って何だよ!」

 ダメだ、全然冷静じゃねえ。そもそも俺はあぐりさんを異性として見たことなんて……。

 いや、酔いが回ったあぐりさんの姿は少し、いやかなり魅力的だったけど。

「あんたの言い分を信じるとして、確認だけさせてもらうけど」

 思わず別のことを考えてしまっていた俺は、瑠奈さんの冷たい声で我に返った。

「本っっっっっっ当にお姉さまに何もしてないのね?」

「誓う。本当に絶対に何もしてない」

「なら、良し。信じるわ」

 瑠奈さんの様子を見るに、まだ少し不信の色が残っているようだが、ひとまず信じてもらえたらしい。

「とにかくお姉さまは納屋にいるのね。あんたのケガがなければ二人がかりで長屋まで運べたかもしれないけど。しかも雨降ってるし……凪はまだ降りてこないし」

 心配そうに二階の方を見上げる瑠奈さんの視線は少し不安そうだ。

 あぐりさんが出ていってから一度も降りてきてないのか。

「俺、ちょっと声かけてこようか……っつ」

「やめなさい。昔の建物だから階段が急なのよ。手すりもないし、その足じゃ危なっかしいわ」

 板間から立ち上がろうとしただけでこのザマだ。瑠奈さんからはかなり不安定に見えるのだろう。

「……それに、凪ってああ見えて頑固だから。あの子のタイミングに合わせてあげて」

 俺は思う。瑠奈さんは一見強引で、言葉もきついせいか誤解を生みやすいが、身内に対しては細やかに心配りができる人だ。

 それが彼女の言う『一族』での育ちが関わっているのかは分からないけれど、俺も凪もその思いやりにずいぶん助けられてきた。

 そして元引きこもりだった俺にもその考えは十分理解できる。俺は安心させるように瑠奈さんへ笑いかけた。

「もちろんだよ。無理に降りてこさせるようなことはしない。凪には凪のタイミングがあるもんな」

 たったそれだけの言葉で瑠奈さんの表情がほっと緩んだ気がする。

 俺はケガして、凪は二階に閉じこもったまま、あぐりさんも帰ってこない。そんな中、瑠奈さんも一人で不安だったんだろうな。

 座敷から板間に下りてきた瑠奈さんは、俺と横並びで座った。

「人数が増えるってこういうことなのかしらね。面倒ごとばっか起きてる」

「それって俺のことか? ごめん」

「何であんたが謝るのよ。面倒ごとばっかだけど、退屈するよりはいいわ」

 ちらりと隣を見ると、瑠奈さんはかすかに微笑んでいた。それは彼女なりの強がりだったのかもしれない。

 俺達はしばらく黙りこくっていた。雨が軒先を打つ音。湿気を含んだ板間や畳のい草の香りが時間の流れをゆっくりに感じさせる。

 どれくらいそうしていただろうか。玄関までの濡れた玉砂利を踏む音が聞こえてきた。

 ほとんど二人同時に玄関を見る。

「お姉さま?」

「いや……違う。別の人だ」

 あぐりさんは体格がいい。今は酔っていて姿勢が悪いとしても、玄関の磨りガラスに映った人影はさらに一回りほど小さかった。

 玄関の前まで来た人影は、声をかけることもなく唐突に戸を開けた。

 そこには俺が初めて見る男性の老人が立っていた。眉間に刻まれた深いシワ、日焼けして黒ずんだ肌。土間の電灯に照らされたその姿は威厳が人の姿を取って立っているようで、どこか異質だ。

「え、誰……」

 知らない人が勝手に玄関を開けることに驚いたが、瑠奈さんはそれにはかまわず立ち上がる。

「兵頭さん? 遅くにどうしたんです?」

 どうやら瑠奈さんは知り合いらしい。この地区の全ての世帯を回って水道や電気のメンテナンスの仕事をしている都合上、当たり前のことかもしれない。

 兵頭さんは白ひげを長く伸ばしているが姿勢はよく、立ち姿はどこか泰然とした風格があった。この地区の人たちはみんな愛想がよく進んで声をかけてきてくれるが、それとは違った雰囲気だ。

 ふと、言葉少ななその様子が何となくあぐりさんに似ていると感じた。

「……あぐりは、もんてきたかね」

「ええ、さっき」

「そうかい。随分飲ませてしもたが様子見じゃったが、安心したわい」

 兵頭さんはそれだけ言って俺達に背を向け、帰ろうとする。

 あぐりさんは屋敷を出たあと、この人のところに行っていたのか。きっと瑠奈さんが言っていた当てとは兵頭さんのことに間違いない。

「あ……あの!」

 それが分かった途端、俺は兵頭さんの背中に向けて声をかけていた。何事かと瑠奈さんが俺を見る。

「洋?」

「あの、すいません。初めまして……俺、洋って言います。是澤洋」

「……知っとるよ」

 会ったことはないが、俺のことはきっとあぐりさんから聞いていたのだろう。

「もしよければ聞きたいんです、あぐりさんのこと。あぐりさんがあんなにお酒飲んで帰ってくるの初めてで。ひょっとしたら……いや、絶対俺のせいだと思うから。つまり」

 兵頭さんは黙ったままだ。

 ああくそ、こんな時まで上手く言葉がまとまらない。俺は深呼吸して焦る気持ちを落ち着かせた。

「あぐりさんが俺のことを大事に思ってくれてるのは知ってます。だから、俺もあぐりさんのことをもっと知りたいんです。彼女のことが大事だから」

 隣で瑠奈さんが、まるでとんでもない爆弾発言を聞いたかのように目を見開いて俺を凝視した。

「あんたやっぱりお姉さまのこと……」と小声でぶつぶつ言っているようだが、今はそれどころではない。

 兵頭さんはしばらくその場に佇んでいたが、やがて振り返ると俺に向かってゆっくりと頷いた。

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