間違えられた境界線
どれくらい時間が経っただろう。横になったものの眠れず、俺は力なく寝返りを打つ。
その時ガララ、と重い音を立てて納屋の引き戸が開いた。
吹き込んできた湿った雨風と一緒に強い地酒の匂い、そして、むっとする熱気が冷えきった納屋に流れ込んでくる。
怪我をした足を動かさないように布団の上に身を起こすと、暗がりの中にずぶ濡れの影が立っていた。
「あぐり、さん……?」
少しでも凪の洗濯の手間を減らそうと、あぐりさんは出会ってから今まで綿のタンクトップにショートパンツという、極限まで簡素な格好しかしていない。
傘も差さずに雨の中を歩いてきたせいか、その薄い生地がじっとりと水分を含み肌に張り付いていた。
どこかで飲んできたらしいお酒で上がった体温のせいで、濡れた肌からはうっすらと湯気が立っているようにすら見える。短い黒髪が雨と汗で濡れたうなじにまとわりついていた。
「……んあ? ……玄関、間違えたか……」
あぐりさんは突然のことに焦る俺に気づく様子もなく、焦点の定まらない目で辺りを見回している。
やがて床の窪みにつまずいたか、そのまま糸が切れたように前へよろめいた。
「うわっ、ちょっと、あぐりさん!?」
どさり。
俺の敷いている布団の上に、あぐりさんの身体が重く倒れ込んでくる。
咄嗟に支えようとした俺の手が、彼女の剥き出しの肩に触れた。雨に濡れているはずなのに火照っていて熱い。
引き締まっているが同時に女性としての柔らかな弾力を持った特有の質量が、俺の狭いパーソナルスペースを完全に占拠してしまった。
あぐりさんは俺の胸元に濡れた額を預けたまま、ふぅ、と酒気混じりの熱い息を吐き出す。
普段の無口で、頼れる父親のような無骨さからは考えられない姿だった。
至近距離から押し寄せる体温と、雨に濡れた髪の匂い、そしてほんのり漂う甘い酒の香りに、俺の心臓は下手なドラムのように激しく脈打ち始めた。
待ってくれ。この状況は、ヤバい。
東京での引きこもり生活はおろか、生まれてこのかた経験したことのない女性の肉体という圧倒的な存在感に、俺の思考は完全にフリーズする。
ごくりと唾を飲み込んだ音があぐりさんに聞こえてないか、気が気でない。
「あ、あの、あぐりさん、起きてよ。その、そうだ、瑠奈さん呼ぶから……!」
「洋ぃ……」
服の裾をぎゅっと掴む手の力は、あのとき鉈を振るっていたそれとは比べものにならないほど弱々しい。
「すまねえなぁ……おめに痛ぇ思い、させちまった……」
目を閉じたまま、あぐりさんは夢うつつのようにかすれた声で呟く。
「おれは、だめだ。なんも知らねえおめにあんなこと……。凪が怒んのも、もっともだ……」
俺の胸元に広がるじわっとした熱は、滴る雨水のせいなのか。それとも彼女の涙なのか分からなかった。
ただ、あぐりさんもこの過酷な世界で必死に考え、傷つきながら生きているのだという現実が、俺の胸に深く突き刺さっていた。




