交叉する激情
ズン、と重い振動が足から伝わる。
それから化け物に引っ張られる力が消えた。俺はきつく閉じていた目をそろりと開いた。
視界に飛び込んできたのは、両手で肉厚な大型鉈を振り下ろすあぐりさんの姿だった。
刃が肉に食い込む鈍い音が響き、化け物のぬめり気のある表皮にざっくりと深い一文字が刻まれる。
噴き出したのはどす黒い、泥と油が混ざったような不気味な体液。
化け物の正体は、大きな――そう形容するのもためらいがあるほど、おぞましい質量を持った巨大なミミズだった。
目も鼻もない頭部が狂ったように蠢き、決して声になることはない咆哮を体液とともに撒き散らす。激痛に狂う、身の毛もよだつ巨大ミミズはめちゃくちゃに土の上をのたうち回っていた。
その凄まじい勢いに俺は完全に腰を抜かしていた。いつの間にか側にいたあぐりさんに強引に腕を掴まれ、土まみれの体を引き起こされる。奴に締め上げられた足がズキリと熱を持って痛んだ。
「うぐっ……」
「大事ねえ。畑から出てろ」
短く告げるとあぐりさんは体液で汚れた鉈をひと振るいし、巨大ミミズへと近づいていく。その背中は山みたいに大きく見えた。
無茶だ。あんな……あんな見たことない生き物、どうしろってんだ?
巨大ミミズは暴れながら、梅雨前に植えてようやく青々と茂り始めた夏野菜のスペースに侵入しようとしていた。
「あ……野菜が!」
みんなで肥料を撒き、畔を作り、毎日汗を流して苗から育てた野菜。
食べるだけじゃなく貴重な品と交換する、災害後の経済の基礎にもなる地区の宝物だ。
それが突然現れた化け物に一瞬で押しつぶされようとしている。
どうにもならないと分かっていた。それでも俺は手を伸ばして叫ばずにはいられなかった。
「やめろーっ!」
俺の無念の思いは届かなかった。
その代わり、力強く大地を蹴るあぐりさんの俊足が化け物の理不尽な暴虐を遮った。
「おらあっ!」
体重を乗せた長靴の底で、巨大ミミズの長駆を踏みつける。その一撃はまるで鉄の杭のようだ。
ミミズが彼女を弾き飛ばそうと全身をよじるが、あぐりさんの体幹は一切ブレない。
そして彼女は青黒い全身の、一箇所だけ色が濃くなっている部分に両手に持った鉈を力いっぱい突き立てた。
暴れ狂う化け物の悶絶の動きが、足元の土を伝って俺のところまで伝わってくる。
それでもあぐりさんは巨大ミミズをその場に縫い付けたまま、少しも作物に近づけさせることはなかった。
やがて少しずつ化け物の動きが鈍くなり、完全に動かなくなる。
容赦なく降り注ぐ太陽の光が、そのおぞましい色の皮膚を焼き尽くすように照らしていた。
俺はあぐりさんの肩を借り、居間に運ばれた。
パニックになるだろうと思っていた凪は意外と冷静だった。救急箱を持ち出してくると、巨大ミミズに巻き付かれた俺の足に湿布を張り、慣れた手つきで包帯を巻いてくれた。
「すぐお医者さんを呼ぶから、安静にしててね」
「いや、大げさだよ。骨も折れては……なさそうだし」
「折れてたらこんなにのんびりしてられないよ!」
凪にしては珍しい、激しい口調だった。そう言われてしまっては黙るしかない。
「あぐりさんもあぐりさんだよ! こんな危険なことを洋くんに頼むなんて……!」
凪の厳しい視線はあぐりさんにも向けられる。あぐりさんは縁側に近い場所に座り込み、ただ無言を貫いていた。
「私、あぐりさんのこと信じてたんだよ。いつも頼りがいがあって、私にもみんなにも良くしてくれて。悪かったことはちゃんと厳しくしてくれて。親戚のお姉さんみたいだって、ずっと……思ってたのに……!」
凪の目からは涙が溢れていた。しかしその表情は燃えるような怒りに満ちている。
「どういうつもりで洋くんをこんな目に遭わせたの? 答えてよ!」
「凪……それは」
「洋くんは黙っとって!」
思わずこちらの方言が出るほど、冷静さを失っているらしい。
いつも穏やかな凪。その笑顔でみんなを和ませる凪。押しが弱いことを気にして、俺の前では落ち込んでいた凪。
そんな凪が、今は肩を震わせてあぐりさんに拭えない不信の感情を向けている。あんなに仲が良かった二人なのに、その間に深い断絶が広がっていく。
その光景がいたたまれなくて、何とか止める方法はないかと必死で考えを巡らせていた。
あぐりさんは何も答えない。ただ畳の上に視線を落としているだけだ。そのまつ毛がわずかに震えているように見えるのは気のせいだろうか。
「……すまねえ」
長く重たい沈黙のあと、あぐりさんはぽつりと言った。
そして泥のついた膝をついて腰を上げると、縁側から下りて歩いていく。
「は、話はまだ終わってませんから!」
「待って凪。……うっ」
後を追おうとする凪を止めようと、膝をつくと鈍痛がそこから全身を走った。
それに気づいた凪が慌てて俺の体を支える。
「洋くん大丈夫?」
「う、うん。俺は大丈夫。それより……」
「洋くん!」
突然、凪が俺に抱きついた。俺は呆気にとられて足の痛みさえ忘れてしまった。
「洋くん、どこにも行かないで……私を置いていかないで……!」
凪のすすり泣きの声はだんだん大きくなり、ついに俺の肩に顔を埋めて嗚咽する。
その姿はまるで子供だ。俺は今朝、凪から聞いた彼女の母親のことを思い出していた。
縁側から見える空には灰色の雲が集まり、あんなに眩しかった太陽を覆い隠そうとしている。
潮風の匂いにほのかに混じる湿った空気が、雨の訪れを予兆していた。




