大地からの警告
腹が一杯で寝苦しいなんて、贅沢な夜を過ごした翌朝。
「いや〜、昨日の晩メシ、美味かったなあ……」
「もう。洋くんたらずっとその話ばっかり」
凪とふたりの朝ごはんを終え、土間の奥のシンクで並んで洗い物をしている。
瑠奈さんとあぐりさんは早朝からすでにそれぞれの仕事に向かっていた。
昨日の豪華な食事の余韻に浸ったままの俺に、凪が苦笑する。でもその顔はどこか照れくさそうだ。
「たまの肉を美味しく食べられるのも、凪の料理の腕がいいおかげだよな。ホント感謝してるよ」
「やだ……そんなに褒められると恥ずかしいよ」
「やっぱり、凪の母さんも料理上手だったのか?」
「うん。まだまだお母さんには敵わないかな」
「へえ〜、すげえなあ。そういえば今おばさんどうしてるんだ? 元気?」
アクリル毛糸で編んだたわしを持つ凪の手が一瞬止まる。
「……お母さんは、何年か前に体調を崩しちゃって。別の町の病院に入院してるの。ここには大きな病院がないから」
「そう、なのか」
「うん。たまに遠出して会いに行くよ。でも、まだ退院できるほど良くはないんだって」
「……そっか」
食器が触れ合う音と、シンクを流れる水の音だけがしばらく辺りを包んだ。
「早く良くなるといいな」
「……うん」
顔を伏せた凪の表情は、こちらからは分からなかった。
「あ、そういえば。今日はあぐりさんが洋くんに頼みたいことがあるって」
「え? 今日?」
気を取り直すように凪が切り出してくる。
あぐりさんが俺に? ずいぶんと急な話だ。
「だから、昼までには家に戻っててほしいんだって。大丈夫?」
「うーん。いつもは草引きに行くけど……昨日はうち以外の家もごちそうか宴会だっただろうしな」
しばらく住んで分かったことだが、ここや近隣の地域の人たちはけっこう酒が好きだ。
もちろん毎日酒びたりというわけではない。だが、酒を飲む機会があると際限なく飲む。
俺と凪は未成年だから声はかからないが、あぐりさんなんかはたまにご近所の酒の誘いに足を運ぶようだ。
瑠奈さんは「酔っ払いは見るのもなるのも嫌い」ということで、あまり乗り気ではない。
ご近所だって昨日は久しぶりの肉料理にきっと浮かれたに違いない。浮かれたあげく、酒も進んだことだろう。おそらく頭から草引きのことが飛んでいく程度には。
「いいや。それどころじゃないだろ」
「そう? じゃああぐりさんが戻ってきたら呼ぶね」
「うん」
洗い物を終えると凪は部屋の掃除。俺は門の外と、石階段の掃除に向かう。
日課以外にもやることはいくらでもあった。少し前の俺には分からなかっただろうな。
あぐりさんはいつもより早めに屋敷に戻ってきた。
「あぐりさん、お帰り! ごめんね、お昼の用意がまだなの」
「かまわね。洋はいるか」
「はーい、今行く」
居間の長卓を布巾で拭いていた俺は、縁側から下りてあぐりさんを迎えた。
「お待たせ。用事って何?」
「畑、行くぞ」
「へっ?」
あぐりさんは俺に背を向け、中庭に作った菜園へと歩いていく。
俺はここに来たばかりの頃を思い出していた。段々畑の石垣を積むことさえできず、駄々をこねてあぐりさんを困らせたこと。それ以来、農業に関わることは手伝いさえさせてもらったことはない。
そんな俺を畑に連れていくなんて、どういう心変わりだろう?
疑問はあとから湧いてくるが、家庭菜園は目の前だ。あぐりさんは数日前から耕していた、未だに湿り気を帯びている土の上に俺を立たせた。
家庭菜園の畑は、半分はオクラなどの夏野菜を植えている。ここは未だに空白のスペースだ。
「ここって、春野菜のあとは何も植えないのか?」
「植える」
「今から?」
「……けんど、雨が止んだばっかだ。この時期は悪さする奴らが出る」
「悪さする、奴?」
あぐりさんは頷き、持っていた農具を俺に手渡してきた。これは鍬……だろうか?
「いねえのが分かれば苗植えに入る。端から土ん中空気入れるみてえに耕してみろ」
「わ、分かった」
あぐりさんがどうして急に俺を畑に入れたのかはよく分からない。
でも、俺に仕事を任せようとしてくれたのなら応えるしかないだろ。
先端が重たい鍬を両手でしっかり持ち、言われた通りに土をならしていく。たぶんやり方は拙い。それでもあぐりさんは黙って俺を見守ってくれている。
端から始めて、中ほどまで進んだ時だった。
鍬を引こうとした瞬間、木製の柄を通して細かく波打つような不気味な振動が手の平に伝わってきた。。
「……あれ?」
「どした」
「いや、なんか手が痺れて……?」
ずっと力を込めていたから手が痺れただけだろう。そう思い直した俺は、鍬を脇で支えるようにして離し、緊張をほぐすように両手を軽く振った。
「馬鹿たれ、手え離すな!」
「え?」
あぐりさんが大声で檄を飛ばすと同時に、彼女の手が腰に下げていた鉈へと伸びる。
さっぱり訳が分からない。何がそんなに気になるんだろうと視線をそちらへ向けた。
それが誤りだった。
地の底から響くような振動が、今度は足から這い上がるように伝わる。
驚いて地面を見ると、そこが瞬きする間に盛り上がった。
「え、えっ?」
俺は目を見開いたまま動けなくなってしまった。
土の向こうから現れたのは、青黒くぬらぬらと光る、おぞましい肉の質量だった。
俺の胴ほどもある太さの長駆。何かが腐ったような強烈な泥臭さが鼻腔を突き刺す。
それが弾かれたように動いて俺の足に巻き付き、信じられない強さで地面に引きずり倒された。
「う、うわあ! 離せ!」
ばたばたと暴れるその生物は、俺の足を巻き付けたまま暗く冷たい土の下へ戻ろうとする。巻き付かれたふくらはぎの骨がミシ、と嫌な音を立てた。
血の気が引いて背中が一気に冷たくなる。まずい、折れる!
「洋くん!」
海の向こうまで響くような凪の金切り声がどうしようもなく不安を煽る。
もうこれまでかと俺は目をぎゅっと閉じた。




