山路越えて、天の福音
数年ぶりに故郷の大地を踏んだのは初夏の始まりだった。
それから長い梅雨に入り、合間にようやく晴れの天気が続いてきた頃。
大きな手でちぎったような灰色の雲を避けるように、夏を間近に控えた太陽が輝いている。
初夏でさえ海面と段々畑の白い石垣に反射し、肌がひりつくようだった日差しはさらに強烈さを増しているように感じる。
「まっぶし……」
俺はすっかり凪の屋敷の納屋で寝起きするのに馴染んでいた。布団以外に必要な照明や机など、地区のみんなが不用品から使えそうな物を譲ってくれて快適に過ごせている。
午前中は凪の家事の手伝いをして、午後からはフリースクールの校舎の掃除。週末は近所の人たちと一緒に地区の空き家周辺の雑草抜きもやり始めた。
瑠奈さんからは「引きこもりでも何かの役に立つもんね」なんて毒舌を吐かれるが、それは彼女なりの褒め言葉だ。
あぐりさんは相変わらず余計なことは言わず、黙って俺を見守ってくれている。
凪に至っては、土間の隅っこで涙ぐんで「洋くん立派になったね……」などと呟いているのをたまに見かけたりする。が、見なかったことにしておいた方がいい気がして声はかけていない。
そんな感じでおおむね平和に日々を過ごしていた。
そんな日常に変化が起こったのは、とある週末の晴れの日だ。
「ひ、洋くん! 大変だよ!」
草抜きから一時解散して、汗だくになった俺は昼前に凪の屋敷に戻った。
そこでは珍しく一日休みを取っている瑠奈さんと、畑仕事から戻ったばかりのあぐりさんが揃っている。
「大変って……どうしたんだよ凪? 瑠奈さんやあぐりさんでも解決できないことか?」
凪の慌てように、俺はてっきり屋根から雨漏りがしたとか、ネズミが巣を作ったとかのトラブルを思い浮かべていた。
「違うの、そうじゃないの! とにかく大変で」
「凪」
「いいわ。私も朝から立ち会ってたから、私が話す」
いつものように凪を落ち着かせようとするあぐりさんだが、瑠奈さんが提案すると黙ってその続きを待った。
「説明より先に見せた方が早いわね。よい……しょっと」
瑠奈さんが土間の奥から、なにやら木箱を持ち出してくる。
縁側の上に置かれたそれは蓋はついていない。俺達は揃って木箱の中身を覗き込んだ。
「あっ!」
「……おお」
俺が驚いたのは無理もない。あのあぐりさんだって無意識に声が出るほど、温度は低いが驚愕レベルはかなり高い。
箱の中には、俺の肘から指先くらいまである大きなベーコンの塊と、何らかの鳥の肉の塊がビニールに包まれて収まっていた。
ビニール越しでもわかる、脂のツヤツヤとした輝きがこの場にいる全員の喉をゴクリと鳴らす。
都市機能がほとんど麻痺してしまった東京から戻ってきた俺にとっては、地産地消の豊かな食事のおかげで毎日が楽園のようだった。それは断言できる。
しかし肉となれば話は別だ。たまに漁師さんから魚をお裾分けしてもらう以外に、動物の身を食べる機会はこの地区には無い。
俺は震える指で木箱を指さす。
「な……なんだこれ。どこから盗んできたんだ?」
「洋くん!」
「盗んだりなんかしないわよ、人聞きの悪いこと言わないで!」
「……こりゃ、そうそう見ねえ、ご馳走だど」
あぐりさんの声がくぐもったように聞こえるのは、涎が溢れるのを必死で我慢してるのだろう。時折あぐりさんは食欲の前に理性が崩壊することがある。
「そうじゃないなら何で?」
俺の当然の疑問に、凪はまだパニックが抑えられない様子で答える。
「梅雨に入る前に、春野菜の収穫をしたよね」
「ああ」
俺が来る前から屋敷の中庭だった場所を家庭菜園の畑にしている。そこで自分たちが食べる分と、ご近所やよその地区との物々交換のための野菜を育てているのだ。
「なんだっけ、アスパラガスとかサヤエンドウとか、けっこうたくさん採れたんだよな」
「そうなの。それでね、今朝、別地区の行商トラックが来てくれて、いつもみたいに交換してもらってたんだけど」
険しく長い山道を通ってくる行商トラックは月に1回程度しか来ないが、地区間の物々交換という貴重な機会を結んでくれるありがたい存在だ。
梅雨の間は道が荒れて危険なため休んでいたが、晴れ間が続いた今朝、久しぶりにこの地区を訪れたのだという。
話しているうちに落ち着いてきたのか、凪はやや冷静になった目で俺を見る。
「前にもらった春野菜が美味しかったからって、お肉を余分に持ってきてくれて……」
「うおおおおお」
「それで? それで?」
我慢の燃料が切れたのか、咆哮を上げ始めるあぐりさんを俺と瑠奈さんで必死に抑え込む。
「今日は、地区の全世帯がお肉を食べられる日になりました!」
凪が会心の表情を浮かべる。
それは天からの福音そのものだった。
俺たちは青空に向かって全力の万歳三唱をし、誰からともなく手を繋いで輪になった。それから何も考えず歓声を上げながら、かなり長い間ぐるぐると回って溢れる喜びを表現し合った。
その日の夜は、ここに来て初めて見るご馳走が居間の食卓に並んだ。
分厚く切ったベーコンとアスパラガスのソテー。
銅鍋に入れかまどの焚き火で蒸し焼きにしたキジ肉のロースト、家庭菜園クレソン添え。
ベーコンとひじきの炊き込みご飯。
そして山菜と煮込まれ、グツグツと音を立てるキジ鍋。
全てのメニューがメインを張れる料理たちがキラキラ輝いて見える。
俺以外の全員も同じようで、この光景を目に焼き付けておきたいのかしばし沈黙の時間が続いた。
調理のほとんどを仕切った凪が誘惑に負けて一品減るような事態にならなかったことに感謝だ。
「そ、それではあ……みんな、手を合わせて」
家の主である凪の興奮を抑えきれない声を合図に、全員が儀式めいた動きで合掌する。
「みんなで仲良く、美味しく食べましょう! いただきます!」
「いただきます!!」
正直、それからしばらく食べる以外の記憶がない。
弾力のある、引き締まった肉の旨みが凝縮されたキジ肉。
熟成された肉と、噛むほどにジュワッと脂が口の中で溶けるベーコン。
凪の料理の腕も相まって、美味い肉を食べる歓びの前では人類の理性はあまりにも儚い存在だった。
「ちょっと! あんたベーコン3切れは食べたでしょ? 残りはこっちによこしなさい!」
「瑠奈さんだってキジ鍋お代わりしすぎだろ! もうスープで我慢しろよな!」
「うめ、うめ、うめえ」
「あぐりさん、お櫃ごと抱えて食べないで!」
……と、大騒ぎだったわけだが。
大量に食べる四人の胃袋を想定した凪の力量はさすがというべきか。
腹いっぱい堪能した俺達はだらしなく居間に寝転がり、片付けも忘れてよその地区の恵みの余韻を楽しんでいた。




